光吉村
広大な座敷の中央に、耀と静彦は並んで正座していた。座敷を囲む襖絵には精緻な筆致で目もあやな草花が描かれ、大変に美しく、また高価であることも分かりきっていたが、残念ながらこのピリピリとした雰囲気の中、耀や静彦の目を楽しませる事はできなかった。
静彦は元の着物と袴姿であり、耀のTシャツとジーンズ姿だけがここでは浮いている。
座敷の上座には、着物姿の老爺が三人横並びになって座布団の上に鎮座していた。三人とも皺だらけの萎びた顔で、まるで三つ子のようにそっくり──なのかは分からないが、少なくとも耀の目には三人の判別はつかなかった。
これが『長老会』、古来より姫神を守り崇める光吉村の最高権力者たちだった。
「──とんだ失態だな、静彦」
三人の一人が、皺の中から口を動かした。その言葉に耀は眉を上げ、静彦は両手を床に付き、深々と頭を下げた。
「いかなるお咎めをもお受けします。が、その前に、姫様をお救いに上がる許しをいただきたい」
「『水神』の刀も宝珠もすでに奪われ、力の一部が残るのみのおぬしがか」
「……はっ。必ずや」
「そして」
老爺達の視線が耀の渋面に移る。
「『蛮神』の器。この者よりは、『蛮神』の力を引き剥がし、俗世へ返せと申すか」
「耀は、何も事情を知らないまま巻き込まれたのです」
静彦はさらに深く頭を下げ、耀の眉間の皺はますます深くなる。
老爺達が顔を見合わせ、鼻を鳴らす。
「下がれ。──沙汰は追って言い渡す」
「長老様方、しかし」
「黙れ、静彦。政府のやり口は気に食わん。それ相応の報復はするが──今はまだ、動くには拙速というもの」
静彦が顔を上げる。
「ですが、姫様の御身の安全は──!」
「下がれと言っておろう。奴らが姫神を傷つけることはない。今後、姫神の所有権を争う戦いは刀剣でなく交渉に移る、貴様の出る幕ではない」
静彦がぐっと言葉を飲み込む。握りしめたその拳が震えているのを耀は見た。所有権、という言葉が、耀の胸に不快に沈殿した。
障子を開けて廊下に出れば、涼しい風が吹いて、耀の髪を揺らした。広大な池をしつらえた庭園を囲むように廊下が張り巡らされているのだが、清らかな水と木々の匂いが、ささくれた心を少し鎮めてくれる。
新幹線から在来線に乗り換えて二時間、そこから車で山道をひた走り二時間の旅路の末にたどり着いたのは、田畑の広がる光景の中、深い山を背に、さながら城のような様相で建つ、光吉村の主、神木家の屋敷。
到着後すぐ座敷に案内されて長老会と相対することとなり、休む間もなかった。耀は背伸びをして長旅にこわばった身体をほぐす。
だが、一息ついたのも束の間だった。静彦と耀に歩み寄る二人組がいた。二人とも二十代の半ばくらいだろうか、一人はニヤニヤと嫌な顔で笑う男だ。もう一人は長い黒髪を垂らした、清楚な印象の女性だが、なぜか思いつめたような顔をしていた。
「おう、優等生。大失態をやらかしたらしいなぁ」
「……竜彦従兄さん」
面白くて仕方がない、といった様子の男に、静彦は眉根を寄せる。
「年上の俺達を差し置いて、『水神』の器に選ばれた優秀なおまえがねぇ。あはは、こりゃあ傑作だ。……っと、そっちが『蛮神』か? 怖ぇ怖ぇ、いきなり殴りかからないでくれよ?」
耀、と静彦が手で制すが、耀の心はまったく波立っていなかった。竜彦と呼ばれた男を、頭の先から足先までじっくり観察する。そして、鼻で笑ってやった。
「はっ。ご期待に添えなくて悪いが、その気になんねぇな。あんた、弱すぎる。最近は雑魚には興味が湧かなくなったんだ」
「……なんだと?」
「……耀」
竜彦は顔色を変え、静彦は頭を抱える。一触即発の状況を止めたのは、切羽詰まったような細い声だった。
「静彦。『水神』の刀が取られたって本当? 宝珠も刀も失って……あの人はもう戻らないの? それが、あの人の意思なの?」
今まで黙っていた女が、縋るような目で静彦を見つめている。静彦は気まずそうに目を逸らした。
「美波従姉さん……それは、俺には」
言いよどむ静彦の胸に、美波が縋り付く。
「答えて! だって、あなたの中に、あの人の一部があるんだもの。あなたは、あの人になるはずなのに……!」
その必死の形相に、竜彦が困り顔で頭を掻き、美波の肩を引き寄せて止める。
「姉さん。やめろって。じゃあな静彦。……いくら長老会のお気に入りのお前でも、今回は覚悟しとけよ」
そのまま、竜彦が美波の腕を引き、二人は立ち去った。美波は何度も静彦を振り返るが、静彦は目を合わせなかった。
「シズ、あの二人は?」
「従兄弟の竜彦従兄さんと美波従姉さん」
静彦はそれ以上説明しなかった。軽く頭を振ると、耀に向き直る。
「耀。沙汰が降りるまで暇だろう。光吉村の聖地を見せてやる」
庭園に下り、綺麗に整えられた庭木の間を抜けて歩くと、やがて庭木もまばらになり、手入れの雑な、人気のない場所に出る。それは、屋敷の裏手、山の断崖に面した場所だった。赤茶けた土が顕になった山肌の一部に、古い木の扉が嵌め込まれている。
静彦が扉を開くと、ギィ、と軋む耳障りな音がした。水の匂いがする。扉の向こうは暗闇に包まれているが、よく見れば、洞窟状になっており、地下に降りる階段作ってあるのが見えた。静彦が着物の袂から懐中電灯を取り出し、足元を照らす。
「着いてこい」
洞窟の天井は低く、腰をかがめて、勾配の狭い階段を一段一段下りていく。ピチャン、ピチャンと天井から水が滴る音がして、スニーカーの足元に水が染みる。首筋に冷たい水がひとしずく落ちて、思わず身震いした。
やがて階段は終わり、平らな地面を踏みしめる。地下の天井は、耀が立っても頭を打たない余裕があるようで、かがめていた腰を伸ばした。そして、目の前に広がる視界に目を見開く。
薄ぼんやりと青く光を放つ、広大な地底湖がそこにあった。凪いだ水面はまるで鏡面のようだ。
──この光景を知っていると、耀はそう思う。
そう、あれは、初めて『蛮神』の剣を手に取った時だ。耀は『蛮神』の記憶を視た。その記憶の中、黒く長い髪を背に垂らした青年が、地底湖の前に立っていた。その青年と戦うためにこの地にやって来たのだと『蛮神』は悟っていた。
耀は再び記憶に呑まれる。
『蛮神』の記憶の中、青年が振り向く。整った顔立ちは、静彦によく似ていた。
『俺と戦え』
そう告げた『蛮神』に、青年は少し戸惑ったような顔をした。
『なぜだ』
『俺がそうしたいからだ』
『蛮神』はすでに剣を構えている。青年は諦めたように目を閉じた。
『分かった。──だが、ここではだめだ』
『なぜだ』
今度理由を問うたのは『蛮神』の方だった。
『──花が散る』
見れば、青く輝く地底湖の水面に浮かぶようにして、薄桃色の大輪の花が花弁を広げていた。そして、青年の背後、その背に縋り、小さな姫神が不安そうに『蛮神』を見上げていた。その顔は、雫そのものだった。
そこで、耀は白日の夢から覚めた。静彦が気遣わしげに耀を見ている。
「耀? 大丈夫か」
「ああ……」
耀は額に浮かんだ汗の玉を手の甲で拭う。
「この地底湖のある洞窟の上に、光吉村は作られている。『水神』は古代からこの地底湖に宿り、この辺り一帯の水の流れを司っていたそうだ。もう誰も覚えていないほど古い時代に肉体を失い、その魂は村長の血筋を器として受け継がれてきた。『姫神』はその地底湖に咲く花の神だと言われている。数十年に一度だけ咲く花だから、数十年に一度だけ、村の子どもの器に宿って現れる──と聞かされていたが、本当は違ったんだな」
先程、長老会から少しだけ説明があった。姫神は『水神』と違い、その肉体を失うことはなく、現在まで生きてきた。数十年に一度だけ現れるのは本当で、その本体である花が蕾のうちは、その身体は眠っている。が、その花が咲き誇ると同時に目を覚まし、村の子どもの一人のふりをして、村に数々の恩恵を与えてきたという。
『その本体である花がこの光吉村に在る限り、姫神とこの村を切り離すことなどできぬよ』
と、長老会の政府に対する余裕はそこから来ているようだ。
「──代々の『水神』の器が、『水神』の人格に取って代わられて来たというのは本当なのか」
「ああ」
「おまえもそれを知っていて、『水神』の器になったのか」
「選ばれたからには、否応はない。──特に、先代の『水神』の器、宝珠を村の外に持ち出した男は、俺の兄だった。俺は、兄の汚名を挽回するため、誰より優秀な器である必要があった」
静彦の瞳は、どこか遠くを見ていた。
「──それでよかったのか。お前自身がやりたいことはなかったのか」
「……村のために尽くす。それが俺のやりたいことだ」
嘘だ、と瞬間的に感じるが、それを言葉にはできなかった。
静彦が耀を振り向く。
「だが、それは村の掟であって、神にその身を譲り渡すなんて、外部の人間に強いていいものじゃない。──悪かった、耀。」
その台詞に聞き覚えがあった。以前、静彦に言われた言葉だ。
──『俺としては、このまま適合できずにいてくれることを願っている。神降ろしなんて、よそ者の一般人がしていいものじゃない』
その時は、田舎者のくせになんて選民意識に溢れた奴だ、と思ったものだが……。
「……もしかして、最初から俺を心配してたのか、おまえ」
頭を抱える耀に、静彦はきょとんと目を丸くした。
「そう言っていただろう」
「分かりにくいんだよ!!」
耀の怒鳴り声が洞窟に反響した。