出会い
遠い昔、その神は、遥か西の国からやって来た。
幾つもの荒波を超え、幾つもの戦いを乗り越え、ただ──強者を求めて。
第一章
顔面を殴られた痛烈な痛みに、視界が眩む。同時に、全身の筋肉が熱を持つような高揚がある。踏み込む足とともに全身のバネを使って拳を繰り出し、相手の鳩尾に決まった確かな感触。これで一人目。脇腹に食らった蹴りに一瞬呼吸が止まるが、そのままその足を抱えあげてぶん投げた。相手が体勢を崩したのと同時に回し蹴りを入れる。二人目。残りはあと一人。
原始的な怒りを露わに、歯を剥き出して襲いかかってくる最後の一人の表情に、耀は思わず獰猛な笑みを漏らした。低い体勢から、天に向けて拳を突き上げる。相手の顎から鈍い音。
どさり、と最後の一人が倒れて、戦いは終わった。
耀は自分の拳を見下ろす。擦りむいて血が滲んでいた。
「耀ぅ、終わったぁ?」
離れたところに隠れていたヒロカが間延びした声で問う。
「ああ」
耀はぶっきらぼうに答えた。戦いが終わると、喪失感だけが残っていた。戦いたい。こんな連中じゃない。もっと強い相手と、己のすべてを燃やした戦いがしたい。もっと、もっと、もっと──。
「この公園も治安悪くなったねぇ」
ヒロカは怯えた顔であたりを見回し、少し震える。もしかしたらその震えは、ショートパンツからすらりと伸びたサンダル履きの素足のせいかもしれなかった。四月とはいえ、夜はまだ冷える。上半身は厚手のパーカーを着込んでいる割に、なぜ下半身はそんな服装で外を出歩くのか耀には分からないが、聞けば怒られることだけは分かっていたため、黙っている。
ヒロカが持っていたコンビニの袋を取り上げると、一緒に家路を歩き始めた。街灯に照らされた夜桜がほんのりと白く夜空に映える。そういえば、この公園を通ったのは、花見がてら近道しようとしたのだったか、と思い出す。結局チンピラに絡まれてそれどころではなかったが。
「でもさぁ、耀、いつまでうちにいるの? 別に、いつまでいてくれてもいいけどさ」
耀は地面を睨んだ。友達とはいえ、いつまでもヒロカの家に入り浸っているわけにはいかないことは分かっていた。高校にだって、ずっと通っていない。が、家に帰る気は、どうにもしない。ダイニングテーブルに肘をつき、両手に顔を埋めて泣く母の姿が脳裏に浮かんだ。次いで、妹の声が蘇る。まだ妹が生きていた頃、楽しげに遊んでいた時の──。
耀は目を見開く。記憶の中から聞こえる声じゃない。本当に、子どもの声が聞こえる。
「てんてんまりまり、てんてまり──」
妹がよく歌ってた手毬の歌。
足を止めた耀に、ヒロカが怪訝な目を向ける。耀は、今いる場所が公園の西門のすぐ近くであることを確認する。ヒロカのマンションは西門のすぐ向かいだ。
「ヒロカ、悪い。ここから一人で帰ってくれ。気をつけろよ」
「えっ!? ちょっと、耀!?」
耀はヒロカにコンビニの袋を押し付けると、声のする方に駆け出した。
「金紋先箱供揃い、御駕籠の先にはひげやっこ──」
華やかな花柄の着物に、黒髪をおかっぱにした少女が、そこにいた。深夜の公園で、月明かりの下、一人鞠つきをしている彼女は、なんとも異質に見えた。ふと、少女が振り向き、月光がその顔を照らす。印象的な大きな瞳。白い肌に整った鼻梁、長い睫毛は、美少女とよべるものだろう。だが、耀には別の感慨があった。
──菖蒲じゃない。
当然だ。妹は死んだのだ。なのに、そんな当たり前のことに、耀は深く息をついた。
「……おい」
声をかけると、少女は毬をぎゅっと抱きしめ、その大きな瞳で耀をじっと見る。
「こんな時間に、一人で遊んでいると危ないぞ。親はどこだ。家は?」
少女は質問に答えず、黙ったまま、ただ耀を見ている。
耀は居心地の悪い思いがして、なんとなく自らの顎を撫でると、先程殴られた痕がぴりりと痛んだ。次いで、昔から、何もしてなくても目付きが悪い、強面だと言われ続けてきたことを思い出した。
明らかに喧嘩帰りの強面の不良少年、怖がられて当然だと、そんなことに思い至る。
「あー、俺は決して怪しいものでは……」
「驚いたな」
玲瓏とした、大人びた声が夜闇に響く。耀は頭を掻いていた手を止め、目を瞠った。
少女は、まるで大人の女のような嫣然とした笑みを浮かべていた。
「『蛮神』の器に、こんなところで出会えるとは」
「ああ? 誰が野蛮人だ」
さすがに文句を言おうとした耀だが、少女は耀のかがんだ胸元に鼻を寄せて、匂いをかいだ。
「……そして、わずかに鬼の匂い。これは好都合」
少女が顔を上げ、目と目が合う。途端、少女の黒い瞳が、耀の視界いっぱいに広がったように見えた。
「ああ、時間がない。静彦が追って来る。──そなたに印をつけておく。またすぐ巡り会えるように」
耀はどっぷりとした闇の中に沈んでいく。身体の中に墨汁を流し込まれたように苦しい。やがて、その中に星のような無数の輝きが見えた。無数の光は集まって一筋の流れとなり、渦を巻き、耀を取り囲んだ。光が炸裂し、耀は、あまりの眩しさに目が眩んで、そのまま意識を失った。またすぐに会おう、という言葉を、遠くに聞いた気がした。
翌朝、冷たい土の上で目を覚ました耀は、盛大にくしゃみをしながら起き上がり、節々が痛む身体をバキバキ言わせながらヒロカの家に帰った。
「……それで朝帰り? 心配したんだからねぇ」
ヒロカはクッションを抱きしめながらぶすくれる。悪かったよ、と言いながら、耀はフライパンの上で卵とベーコンをかき混ぜる。家賃代わりの朝食作りだ。脂の焼けるいい匂いが漂う。
「でも、深夜の公園に、着物姿の小さな女の子ねぇ。……その子、実は幽霊だったんじゃない?」
耀は呆れてヒロカを見る。
「おまえ、ホラーもいけたのか? 特撮オタクなだけじゃなくて?」
ヒロカの家の壁は床から天井までずらっとコレクションケースが積まれており、飾ってあるのは特撮関係のグッズばかりだ。
「そりゃあ、脚本家になるには、特撮の勉強だけしてれば良いわけじゃないしね。……それに、小さな女の子の家出とか、親の育児放棄とかの可能性考えるより、ずっといいじゃない」
最後の言葉は妙に真剣で、耀も黙った。ヒロカの両親は離婚しており、ヒロカを引き取った母親は多忙で、ヒロカはこの広い家に一人きり。母親との仲はいいようだが、孤独感がないわけではないだろう。
──その点、ヒロカは耀の同類といえた。
耀はトーストの隣にベーコンエッグを並べ、二つの皿をテーブルに載せる。
「……俺、今日は一旦家に帰るわ」
そう、とヒロカは言った。心配も同情も表に出さないでくれたのがありがたかった。