1話 始まりの銃声
夢を見ていたような気がする。暖かく、教会で懺悔をしているかのような晴れやかな気分の夢を。
そんな白の空間は既に無い。体は重力に潰されているし、ぼやける視界は暗く、赤みを帯びた石が目に入る。レンガか石畳か、道の上に倒れているのだろうか。
「……首、寝違えたかな」
俺はそう呟き、体を動かしてみる。
指先は動く。命令を出せば足が嫌々ながらも動いてくれるから、少なくとも致命的な損傷はないだろう。
起きるのが億劫で、布団の中で気怠さに包まれながら寝転ぶ感覚に近い。これが布団ならばもう少し惰眠を貪るところだ。熱々のトーストに乗せられたバターみたいになるだろう。
しかしここは道の上。寝心地は最悪だし、冷えてたまらない。風邪をひくどころの話ではなくなるだろう。
耳を澄ますまでもなく、目覚ましにしては物騒な破裂音が聞こえてきた。遠雷のような爆音だ。それが火薬の爆ぜる音で、音源はすぐそこだというのは気のせいであって欲しい。
気怠げな意識は吹き飛び、心が警報を鳴らす。迫る足音は一つで、聴き慣れない言葉で喚いているのもわかった。
もう一回銃声が響き、遅れて嫌な音がする。肉が潰れたような音で、それはピンチを知らせてくれるものの、解決策を提示したりはしない。
目の前に倒れ込んできた男は目を見開いていて、その額には5ミリくらいの穴が空いている。死んでいると理解するのに苦労はしない。
指先に触れた生暖かく、ねばつく液体は彼の血液か。溢れ出る命に触れ、俺はそっと黙祷を捧げる。
「……安らかに」
石畳を踏む音が近付いてきた。ジーンズに適当な上着、あとはチェストリグという服装で、予想通り銃を持った男だ。
拳銃なんて生やさしいものではなく、アサルトライフルを持っている。なんてこった、アフリカとか中東のゲリラや民兵みたいな野郎が現れた。
鼓動が強くなっていく。耳鳴りが煩い。その間にも痩せぎすの民兵は死体を踏むように蹴り、死んでいることを確認し始める。
動かないと見るや、死体が背負っているスポーツバッグを漁り始めた。あれは要らない、これも要らないと投げ捨て、財布を手に取っては自分のポケットに突っ込む。
殺された男は避難する途中だったのだろう。今は宝箱というわけだ。食料や金品を見つけては、民兵の男が嬉しそうにしているのが見える。頼むからいなくなってくれ。この世からだと尚更いい。
残念なことに、こいつは空気が読めないらしい。その目がゆっくりとこちらに向く。生きていると気付かれただろうか。奴が手放した銃に手を伸ばして、こちらを狙ってくるまでに逃げ切れるか?
そんな疑問の中、右手が何かに触れた。グローブから飛び出した指先に触れたのは、冷たい金属の感触。そして、そこから伸びるプラスチックの感触。
目を向けなくても、それが何かはわかった。そして、それ以外に選択肢がないことも。
民兵は傍に置いていた銃へ手を伸ばし、俺は飛びつくようにして触れた銃を引き寄せる。
自分の命を、運命を手繰り寄せると、倒れた姿勢のまま構え、安全装置も外した。
全てが遅く見える。相手が俺に銃口を向けようとしているのも、俺がトリガーを引こうとしているのも、全てがいつまでも続くようにさえ思える。
それは唐突に終わった。銃声が響き、反動が肩を押す。載せてあった光学照準器の赤い光点が血飛沫にかき消されてしまう。
それと共に時間が戻った。3発の銃弾は全て命中し、相手は倒れ、血の海に沈んだ。さっきまで漁っていた死体に、今度はこいつがなろうとしている。
何故、見開いた目がそう訴えかけている。死にたくない、釣られた魚のように動く口がそう言っている気がした。でも、出血量はこの男が助からないことを告げている。
別にいいじゃないか。俺の隣に倒れていた人、殺したのはお前だろう? 武器も何も持っていない人を撃って、俺に銃口を向けたのだ。
「うん、助ける理由はないな」
最後の瞬間まで、奴の目は俺を見ていなかった。見ていたのは銃口。そこが見えない、深淵のような穴を見つめ、光と共に意識を闇へ落とす。
殺しへの抵抗、痛み。それを反動の痛みがかき消す。胸に穴が空いたような、そんな冷酷な気分になっていた。現実感を無くし、夢を見ているように。
頭に空いた穴、流れ出る血液。それが死を告げる。人を物言わぬ肉塊に変え、俺はようやく一息付けた。肉塊は俺を撃ったりしない。安全だ。
「ったく、何なんだよ。サツにしょっ引かれるのはゴメンだぞ」
ふと、拾った銃を眺めてみる。アサルトライフルだが、なぜか懐かしい。左側面の「89R」の刻印を見て、頭の中をかき回されるような感覚がした。
知っている。俺はこれが何で、どこで作られたのかも。それが喉まで出かかって引っかかる。そんな気持ち悪さに苛まれた。
胃袋がひっくり返るようで、思わず吐きそうになった。それでも胃の中身がないらしく、何も出てこない。
気持ち悪さから逃げようと、自分の姿を確認する。緑に茶、黒の斑模様をした迷彩服とずっしりと重い防弾チョッキ、その上にチェストリグという出立ちをしていた。
同じ柄のリュックとケースが落ちているが、多分俺のだろう。そのどれもが全く覚えにない。
確かに覚えているのは自分が神崎零士であることと、銃の使い方。自分が何者で、どうして戦えるのかも曖昧にしか覚えていない。
「それでも、戦えるなら十分か」
さて、ここはどこだろうか。状況把握は必要だが、それに必要な情報が足りなさすぎる。
裏路地というのは分かるものの、どこなのかはわからない。見慣れない煉瓦造りの家と、石畳の道。朧げな故郷とは似つかぬ景色だ。
「空だけは同じなのか」
青空に伸ばした手が影を作り出す。ナックルガードを縫いつけた指抜きのグローブで、空を掴もうとしても掴めない。
俺が握るのは銃だけで、行き先もなく、戦う理由もない。まるで亡霊だ。恨みや未練という確かなものがあるだけ、亡霊の方がマシかも知れない。
表通りはさっきから銃声や悲鳴、怒号と足音が煩い。こっちに行ったら間違いなく戦闘に巻き込まれるだろう。
レンガ造りの家が立ち並ぶ、中世の欧州に似た街並みは観光地として最適だろう。それが今や戦場となり、銃弾が飛び交っている。
空には黒煙の柱が立ち上り、それより更に遠くには黒い塔が雲を突き抜け、高い空の上から見下ろしていた。箱庭でも眺めるかのように。
壁に背を預けてしゃがみ、青空を見上げて一息吐く。そっと手を伸ばしても、塔までは届かない。ここから見えるほどでかいのは間違いないが、今は行ける距離にないのも確かな事実だ。
いっそ、そこまで行ってしまおうか。表の方に関しては、状況が分かるまで首を突っ込むまい。
俺はそう思っていたのに、厄介事の方からやって来た。銃弾が飛び込んできて、足音が迫っている。
さっきの銃声に釣られて来たのだろうか、どの道逃げても直線で、背中を撃たれたら堪ったものではない。ここで迎え撃つしか生き残る道はないようだ。
「クソッタレ、少し考えさせろよ!」
足音に銃口を向け、安全装置を解除。トリガーに指を掛け、あとは引くだけ。それで奴を殺せる。
その筈なのに、トリガーを引けなかった。
咄嗟に銃口を上に向け、射線を外す。目の前にいたのは白銀。夢に出てきた、ルネーを一瞬思い出してしまう蒼の双眸が俺を見つめている。
着の身着のままで逃げて来たのか、走るには向かない低めのヒールブーツに、彼女の白と馴染む白のワンピース。戦場となった街には似合わない、可愛らしいお嬢様といった雰囲気だ。
怯えているのだろう。少女は頭頂部にある狐耳が寝て、一歩後ずさってしまう。その後ろからは足音と、何かを喚く声が響いてきた。民兵どもに追いかけられているのだろうか。
彼女の姿をよく見ている時間はない。行動に使える時間もそんなにない。決断は、一瞬でくだした。
俺は再び銃を構える。覚悟を決めたように目を閉じ、首を垂れる彼女。しかし、ダットサイトのレンズは彼女の姿を映していない。
レンズに浮かび上がる光点、それが指し示すのは迫る民兵の頭。少女の時と違い、トリガーを引くことに何の躊躇いも感じなかった。
反動が肩を押す。ストックにつけた頬骨が突き上げられ、僅かに痛む。殺しの痛みはこれで紛れることだろう。
金属の塊は彼女の肩を掠めて飛翔する。空間を切り裂き、音を置き去りにして。
それが頭蓋を砕き、中身をめちゃめちゃにかき回す。血飛沫が舞い上がり、命の終わりが見えた。その赤がダットサイトの光点を霞ませる。
「伏せろ!」
日本語で叫んで通じるのか、そんなことを考える余裕はない。少し狙いをずらして、もう1人の民兵へ銃撃を見舞う。
一撃で倒せるとは思っていない。案外、人間とは頑丈なもので、心臓に被弾しても最大90秒は動けると言う。
だから、数発撃ち込んだ。セレクターは単発に合わせ、指を何度も引いて確実に殺す。数センチの指の往復、それがあいつを殺し、俺は生きる。
崩れ落ちる民兵。立ちすくむ少女の隣を駆け抜け、倒れた2人にトドメの銃弾を撃ち込む。片割れに息があったが、それを無視して。
「俺は死にたくないんでな。お前が死ね」
反動と銃声、それが終わりを告げる。
クリア、自分に言い聞かせるように呟いて安全装置を掛ける。トリガーがロックされて、漸く心が人に戻っていく感覚がする。景色に色が戻り、眠りから覚めた気分だ。
遺体を前に罪悪感を覚えつつ、少しだけ黙祷を捧げる。死ねば皆同じ、迷わずあの世に向かうといい。
「怪我はないか?」
振り向き、少女に声をかける。きっと、今の俺は氷のような表情をしていることだろう。殺した後に笑ってたら、それはそれで怖いだろう。
「Are you OK?」
試しに英語を使ってみるが、首を横に振るばかり。日本語も英語も通じず、あとは何か知ってる言葉があるだろうか。
震える少女をよく観察してみると、白い狐の耳や尻尾の先端は黒く、身長は俺の鼻先ほど。スレンダーな少女で、足に切り傷を負っていた。
「ったく、可愛い女の子に傷つけやがって」
少女に歩み寄り、まるで跪くようにしゃがむ。怯えた少女は後退るが、俺は構わず救急品ポーチから止血剤入りガーゼを取り出し、傷口に詰め込んでいく。
やはり痛むのか、少女は呻き声を上げた。それでも手当てのためだ。我慢してもらう他にない。
していることが手当てだと気付いたのか、少女は大人しくなる。追われていたのだ、警戒するのは仕方ないことだと分かっていたし、気にせず包帯を巻く。
1つしかないエマージェンシーバンテージだ。願わくば、彼女の役に立つことを。
そう願って包帯を固定した刹那、少女の耳がピンと立ち上がり、その目が見開かれる。危機を察知した獣の仕草に、俺も本能的な危険を感じ取る。
銃に手を伸ばし、振り向く。その時には銃口が俺を捉えていた。
「——!」
少女の叫びの内容も、銃声がかき消していく。肩越しに飛んでいった青い光を目で追いながら、俺は崩れ落ちる。
冷たい石畳に膝を着き、見つめる先では敵が光に吹き飛ばされていた。