16話 招き人
クロノスを殺して。そう言っていたルネーの言葉が蘇る。
未だにクロノスが何者かを知らない。ルネーの言葉しか覚えておらず、激動の中でクロノスもアトラスも、未だに正体を知らずにいる。
「時空の神クロノスが攫ってきた人、って言うところですね。違う世界から連れてこられて、言葉も通じないし魔法も効かない。何なら、この世界のことを何も知らないらしいです」
「神様が連れてきた、なんて荒唐無稽すぎないか?」
「言い伝えですから」
そうだ、これはただの言い伝え。俺はただの記憶喪失で、ルネーは錯乱したせいで幻覚を見ていたと言う可能性も否定できない。
でも、符合する点が多いのも確かだ。たまたまだと言い切ることもできようが、銃や他の持ち物もなかなかに気になる。
液晶画面のデバイス(電池切れ)や、この世界のものではない通貨も持っていた。あからさま過ぎるだろう。これだけのヒントが残されていて、まだ俺は言い訳を積み重ねるのか。
誰への言い訳か、自分でもわからないけれど。
「リディがどう思っても、俺は俺だよ。自称傭兵のカンザキ・レイジ。それだけだ」
そっとリディを抱き寄せ、頭を撫でる。リディはもう片方の腕を枕にすると、抵抗せずに擦り寄ってきた。
何となく落ち着く。お気に入りの抱き枕に包まれて寝ているみたいな気分だ。
戦いの激情が思い出せない。聖職者のような、穏やかな気分だけが残る。
目の前で揺れ動く狐耳に顔を擽られ、俺はただ微笑んでいた。自分が何者かなんてどうだっていい。大切なのは、今を生きる俺が何者かってだけだ。
「思い出したいと思わないんですか? 自分の事、家族のことだって、忘れたままなんでしょう?」
きっと、そういうものが俺にはあったのだろう。
でも、今はどうでもいいんだ。俺は生き残る事が、今が重要であって、過去なんて後回しでも構わない。
今はリディの望みを叶えること。それだけを考えていたい。
「ああ、思わないや。思い出さなくたって、俺はまだ生きている。それに、戦う理由もちゃんとあるしな」
後は、走り続けるだけだ。理由を見失わないように。
辿り着く目標がどこにあるのか、それすらわからない長い旅路がある。それだけ、俺は生きながらえることになるだろう。リディと共に。
「おかしな人です」
「お互いにな」
リディは笑う。それでいい。笑ってくれるようになれば上出来だ。後は、1人でも笑えるようになってくれればそれでいい。
きっと、彼女が笑う未来に俺はいない。そんな気がしていたから。
今は、俺の腕の中で丸くなるリディのために戦おう。
この身が動かなくなるその時までに、彼女の復讐とルネーの頼みを果たせたらいいな。
きっと、壊れるまでにまだ猶予はあるだろうから。
※
「おい、起きろ」
そんな声が俺の意識を呼び覚ます。野郎の声でお目覚めとは、最悪の寝覚めだ。これで2度目だったかな。
「随分いい身分になったな。隠れ家で女と添い寝か?」
自分の状態を見ると、リディと向かい合わせに添い寝している状態だった。右腕は枕として使われていて、胴にしっかりとしがみつかれている。
これは、リディが起きるまで俺も起き上がれないやつだな。
「不可抗力だ」
「うるせえ。さっさと起きて飯を食え」
何やらいい匂いがする。キッチンでミヒロとアインが何かを料理しているのが見えた。匂いからして、卵だろうか。
そういえば腹が減った。そう言えば、昨夜から何も食べていないではないか。これでは怪我の治療どころではない。
「リディ、起きてくれ」
「……あと5分」
「昔の俺みたいなこと言うなよ、腹減ったよ」
「……抱き枕が動かないでください」
この細腕のどこにそんな力があるんだ。そう思いたくなる強さでベッドに押さえつけられてしまう。絶対起きているだろう?
だって、目を瞑りながらも顔は笑っている。楽しそうだな、この悪戯狐め。
「じゃ、お前の分は俺たちが食っておく」
「おいふざけんな」
腹が鳴り響く。それでもリディは目覚めない。この終わりなき兵糧攻めは地獄だが、抱きつかれるのは天国。どうすればいいのだろうか。
「なら、私もレイジの分を食べますね」
「やっぱ起きてたな!?」
リディは俺を手放したかと思うと、俺を踏み台にしてスタートダッシュを決めた。狙っているのはトーストと目玉焼き。きっと、俺の分は無くなるだろう。
クソ、出遅れた。ベッドから転がり落ちて、這いつくばるようにキッチンへと向かうが、残っているのは絶望だけだった。
「遅いですよ」
俺の分にと残してあったパンは、リディの口に咥えられていた。自分の分とで2枚重ねと来た。なんと食い意地の張った狐なのだろう。
「そりゃないよ!」
「レイジにはこっちをあげますから」
リディは自分の目玉焼きを俺の皿へと移して差し出す。タンパク質を取れということだろうか。俺の体は寝起きで、炭水化物もくれと喚いているが仕方ない。
目玉焼きを口へ放り込み、程よく半熟の黄身を味わう。白身と絡みつくトロトロの黄身は最高だ。ミヒロの腕がいいのだろう。この焼き加減ができるのは中々の腕ということか。
「目玉焼き美味いな」
「アインちゃんとカフェやってましたからね。自信はあるんですよ」
「目玉焼きは焼き加減が命。私は焦がしちゃう」
アインは料理が苦手なのだろうか? そんな考えを見抜いたように、アインは膨れていた。不満がありありと出ている。
「私はお菓子専門」
「アインちゃんのプリンは絶品ですよ、お店の人気メニューですから!」
得意げにしているミヒロと、うんうんと頷くアイン。確かに2人のプリンは揺れていた。目が行ってしまったが、気付かれていないだろうか。
答えはすぐに出た。リディの鉄拳が俺の後頭部を襲い、アインとミヒロはキョトンとしている。つまり、気付いていなかったわけか。
「レイジ、さっさとご飯食べて下さい」
「待て、無理に押し込むなって……!」
リディの食べかけトーストを口に押し込まれ、呼吸が出来なくなってしまう。
可愛らしい女の子の食べかけで、嬉しいと思うことだろう。だが、今は地獄でしかない。呼吸が出来ず、窒息しかけているのだから。
被弾で死ぬならまだわかるが、パンを口に詰め込んで窒息死とは間抜けが過ぎる。遠のく意識の中、リディの慌てた顔だけがやけに記憶に残っていた。




