第五話 永遠の猫 旅館バジリカ―島外クルーズへ
じっとりとした、寝苦しい夜だった。その女はシャツの胸元をはだけ、ベッドで身を起こし、ふぅ、と息を着いた。女は艶やかな黒髪に黒い瞳で、東洋系の顔つきだった。部屋はイリー・リビン島へ向かう船の船室であり、波は穏やかだが、赤道に近づいていた船室のベッドはじっとりと寝苦しかった。女は起き上がり、部屋を出た。
はるばる英国から南太平洋への船旅は、もうじき終わろうとしていた。その船は英国からの豪華客船を装うが、乗っているのは全員、ある組織の構成員であり、訓練を受けた人間だった。
イリー・リビンには飛行場はない。また、彼らの今回の任務に取ってもっとも重要な装置は、飛行機では運べないほど大きい代物だった。
女はデッキから月明かりに照らされた海面を見ながら、目を通した島の資料や観光パンフを思い出していた。
「イリー・リビン。誰がつけたか知らないけど」
ポリネシアの言葉で、イリー・リビンは「墓場」を意味する。
朝には船は島に着く。彼女は観光客として、島に潜入することになっていた。
「ふにゃー、メメトー」僕はにゃーにゃーとメメトーとじゃれていた。イリー・リビン島の北の森で、メメトーとじゃれる。メメトーはいつもより大きくて、なんだか僕と変わらないくらいあるようだった。
「メメトーは大き」
そこまでだった。起きろぉっ!と声がして、僕はハンモックから転がり落ちた。
「ふにゃっ?にゃにゃにゃ?」
「ふにゃっ?じゃない!」朝食を早く作るんだ!と、彼女は、ヒオは怒鳴って部屋を出た。
「いいとこだったのに、にゃー」僕が寝惚けてそういうと、メメトーが寄ってきて僕にすり寄った。
「にゃー、メメトーはいい子だにゃー」と言って、僕は渋々着替えだした。
ロビーに降りるとアレルがいて、単語帳と格闘していた。アレルはいつも時間が空いたら、勤勉に外国語を勉強していた。アレルが14ヶ国語を話せるのは、勤勉によるものだ。
「ああ、イノス」やっと起きたか、というアレルに、今は何語やってんの?と僕は聞いた。
アラビアの方だよ、と彼は単語帳を見せてきた。僕には何一つ読めなかった。
ヒオに合わせるか、と、トーストと簡単なサラダにすることにした。
コーヒーをいれて、朝食と今日の予定作りが始まった。
「昨日の夜は良かったわ―」と彼女は微笑んだ。
トーストとサラダでの朝食の席を、僕らと父さんの四人で囲っていた。
昨日は早い夕飯のあと、僕らはカヌーで夜の北の森へ出た。北の森、観光パンフには光の森と記載される森の木々は、下半分が水面下に没しており、特殊な微生物とも鉱物とも言われる成分を吸収し、虹色に光る。カヌーでいく夜の輝く森は、彼女を心から喜ばせたみたいだ。
「丘を西へ行ったところも、絶景なんでしょう?」と彼女は言った。
ふえ?と僕がトーストをくわえて寝惚けていると、
「イノスが言ったんじゃないの」と彼女は笑った。
あそこは崖からのバンジージャンプもあるぞ、と父さんが口を挟んだ。
彼女はこちらを見て微笑む。僕はもう、海に叩きこまれるのはごめんだった。
「あそこは水平線に沈む夕陽こそが美しい。いくならぱ夕方がいいですね。道は未舗装ですし、少し危険な場所でもありますが」アレルは簡単に解説した。
中央の皿に盛り付けたハムは、気がつけばアレルと彼女、ヒオに総て取られていた。
「なあ、ハム―」アレルはこういう時がめつい。
「いくらでも持ってくればいいじゃない」と彼女は言って、
「危険?」とアレルに聞いた。
「ええ」とアレルは応えて、コホン、と咳をひとつして語りだした。
「丘の西側のさらに奥に行くには、行政府への申請がいるのです。大航海時代末期、流刑船アデライン号によりこの島は『発見』されました。ですが島には先住民がいて、アデライン号の船長及び船員は殺傷されました。島には先住民と、流刑船アデライン号の受刑者たちが残されたのです」
「先住民と漂着民。彼らの争いは収まらなくなりました。漂着民は島の森に食糧を求めて侵入し、先住民に追い払われることが続きました。ついに、漂着民がわずかな角材や銃を手に、先住民と全面衝突しようとしたとき、後の聖デボラと呼ばれる一人の少女が、ただ一人で両者を止めたのです」
アレルの観光業者としての役職はツアーガイドだ。朗々と語る。
「島の先住民たちは南東の森、今は緩衝区と呼ばれる場所まで漂着民の侵入を許可しました。やがて彼らの混血が始まり、この島の今があるのですが、丘の北西には、混血を拒んだ先住民の一部が残りました。立ち入るには許可が必要です」
少し危険な場所ですね。と言った。
「混血、ね。この島の人たちは」あなたたちも?とヒオは聞いた。
「僕らは白人の血が濃いですが、僕の祖母はポリネシアンの女性ですよ」とアレルが応え、
「うちは」と僕が言うと父さんが遮った。
「イノス。それは」お前の母さんのことは、言わない約束だろう。と父さんは言った。
少し食事の場は静まった。
「聖デボラ。その娘さんはどうなったの?」とヒオが聞いた。
「彼女は結婚もせず子もなさず、この島で健やかに過ごしたと伝えられています。そして数十年後、森の奥で発生した火災に巻き込まれ、亡くなったそうです」
「後に彼女を記念して教会堂が建てられ、彼女は島の統一のシンボルとなりました」
「彼女は―」と語るアレルを遮り、父さんはちょうどいいものがあるぞ、と街の新聞から広告を引っ張り出してきた。
「クルーズ船での、島の外周を回るツアーがある。船内に何日か泊まって、パーティーもあるらしい」
三人で行ったらどうだ?と父さんは、
「あと何日かでクリスマスだぞ」と僕らに広告を渡した。
数日後。今頃イノスたちはクルーズ船に乗っているはずだった。あのあとアレルは手続きに走り、ヒオはイノスを引きずって、パーティー用の衣服を買いに行った。ヒオの荷物はさらに増えて、旅館を出る際、アレルはひいひいと言っていた。
置いていけばいい、と言ったが、ヒオは丁寧に断った。
イノスの父親は、誰も来ない旅館で新聞を読んでいた。
大変な出費になるが、彼は世界各国の新聞を集めている。新聞はどれもミレニアムの祝いとイベントと、テロや不景気の記事で満ちている。だがたまに、怪異や、不可思議な事件がコラムなどに載っていた。
新聞を読む彼にメメトーがすり寄ってきた。
どうした、といって喉を撫でてやった。メメトーはごろごろ甘える。メメトーは小さく、まだ幼い仔猫のようだった。仔猫はじゃれたあと、顔を拭きだした。それを見て彼は、
「冗談でなく、お前が口を利けるのならば、何もかも分かるかも知れんのだがな」
と、冗談でなく真剣な眼差しでメメトーを見つめた。
メメトーがにゃ?と首をかしげる。
玄関の扉が開いて、一人の女性が入ってきた。
「これはこれは」
イノスの父親は、女性に応対する。
「予約はしてないのだけど、いいかしら?」と女性は言った。
黒い艶やかな髪に黒い瞳。彼女は周囲を見渡して、この宿はあなた一人なの?と聞いて、
「ええ。ですが、素晴らしいサービスを約束しますよ」と彼は応えた。
「サービスは結構よ。息子さんがいると聞いたけど、今はあなた一人なのかしら?」
今は出ていますが、どちらで聞かれたのでしょうと返して、この島の観光は、素晴らしい記憶になりますよ。お一人様ですか?部屋はどうしましょうと尋ねた。
「連絡は来ていないの?この歪な島に、結論を出すときがきたの」
ね?ファーザー?と彼女は言った。
彼女の言葉に愕然とした彼を、メメトーが不思議そうに見つめる。
黒い髪の女性は、旅行ケースと、他に頑丈そうな金属のケースを持っていた。
「私は『あなた方』の敵じゃないわ。いえ」彼女は、
「我々はこの島を救いにきたの」と語った。
クルーズ船は緩衝区の港を離れ、波を切り裂いて進んでいた。
彼女は一等の船室で、僕とアレルは三等の船室に相部屋だった。僕らはデッキで落ち合うことになっていた。
クルーズ船は、イリー・リビンへと向かう客船や、さらに大小の船やヨットとすれ違った。船は島を反時計回りに、2日をかけて外周を回る予定だった。まず今夜クリスマス・イブを祝い、明日は島の美しい外観を眺めながら、クリスマスのパーティーがデッキで、盛大に行われる予定だった。アレルは大量の荷物を運び込んだあと、僕らの部屋で休憩だ、休憩だ!と叫んで、あとは任せると倒れこんだ。空は雲ひとつなく、僕は海を眺めながらヒオを待っていた。やがて彼女はやってきた。
彼女は、ヒオは白い美しいドレスを着て、真珠の首飾りを着けていた。
「感想は?」とヒオは僕に聞いた。
「え、と。えと」
彼女は掌底を正確に、僕の顔に打ち込んだ。そのままアイアンクローに移行し、わ、落ちる、落ちると僕が叫ぶまで、アイアンクローを止めなかった。
クルーズ船は速く、ここから海面に落ちればひとたまりもないだろう。
冗談よと彼女は笑って、父と違って、私は殺しはしないわと、恐ろしいことを言った。
「アレレは?」とヒオは僕に聞いて、部屋で倒れていると僕は答えた。
呼んできましょうか?と聞く僕に、彼女はヘッドロックをかけようとして、まあいいわ、と言った。
「ディナーは二人で行きましょう」と彼女は笑って、さあ、行きましょうと、ディナーに僕を誘った。
ディナーが終わったころ。船は島の北側を進んでいた。左舷に見える光の森を、食事を終えた人々が夜風に辺りながら見ていた。アレルはまだ寝ているみたいだった。彼女はラフな姿に着替えて、ポリネシアの夜の風を浴びていた。とても美しい人だった。