第一話 旅の始まり 港―緩衝区―教会―観光協会
絶叫しながら銃をがむしゃらに撃っていた、航海士のジミーは最大の断末魔をあげた。息絶えたようだ。船から持ち出した灯りは総て落とし、空は黒い、闇夜の森を、男は泣きながら、がむしゃらに魔物から逃走していた。まず船長が死に、仲の良かった双子の船員は、仲良く、魔物に腹をまとめて貫かれ、男は泣きながら、一人闇夜の森を走る。視界は歪み、何処に行けば、魔物から逃げきれるか。ああ、ここは島なのだ、大洋の中の島なのだ。泣きながら走り―先回りしていた魔物に衝突して、尻餅を着く。悪いことに魔物は一体ではない。魔物たちは、理解できぬ言葉でやり取りをし、ゆっくりと彼に近づき、そして―。
「大変遅くなり申し訳ありません。エマ・マディソン様と、リア・マディソン様ですね」
審査を通りハインライン号を降りた人々から、アレルは予約を受けた母娘を見つけ、話しかける。間違いはないようだ。少し待たせてしまった。
「大きなお荷物をお預かりします。ホテルまでの道すがら、島の案内をご要望でしたね」
「こんな小さな子らがガイドなの?」リアさんが、エマさんに尋ねる。エマさんは穏やかな笑みで頷き、
「そうよ、観光業者とボーイスカウトを合わせたような、この島の制度なの。でも」
あなたは本当に小さいわね、と僕の頭をなで回した。
キャンディをあげるわ、とエマさんがバッグを開くのを、アレルは丁重に断り、むくれている僕に「いつものことだろ」とタガログ語の早口て言った。
「ホテルは島の南側にあります。徒歩では緩衝区を通り、丘を少し登り、南側に下りることになります。島の南岸への定期便もありますが」
エマさんは大丈夫だと言った。リアさんは楽しそうに緩衝区―港と島をつなぐ、巨大な橋と、市場を見上げていた。
「ではご案内します。申し遅れました、僕はアレックス・アレル・アルガード」
「アレックス・アレレ・アルラ……?」リアさんは戸惑う。いつものことだ。
「アレルで構いません。こちらの寝坊助が」アレルが促す。
「僕はイノス・シルバと言います。よい旅を、約束します」
港から緩衝区へ。エマさんは歩けると言ったが、荷物の関係もあり、階段ではなく、エレベーターを使った。エレベーターの扉が開くと、華やかな市場が広がる。リアさんは楽しそうに市場を歩き―。
「おい、分かってるな、絶好の鴨だぜ」
「分かってる。警戒はしている」
リアさんは、緩衝区の橋から下を覗き、
「ねえ、アレレ君、この橋、どうなってるの?」とアレルに尋ねた。
平たいビルディングを一列に並べ、橋にしているのです。ビルディングを降りていけば、海の中が見えるバーがありますよ。アレルはそう応えると、エマさんにこの島は初めてではないのですか、と尋ねた。
「ええ、そうよ。これが二度目なの」
「初めては失恋旅行だったの」エマさんはそういって、気にしないで、とアレルに言った。
「失恋旅行だけど、この島を選んで正解だったって今でも思うの。あの娘はね―」エマさんは僕らにそっと、この島のホテルでできたのよ、と言った。
「……??……?」
僕はなんのことか分からなかったが、アレルが軽く流して、
「橋の中心広場から島の統一の象徴、聖デボラ教会に行けます。ご希望なら、ご案内しますよ」
大航海時代以前。南太平洋の島々が白人たちにより「発見」されていくより前のこと。このイリー・リビンは周囲の島々から、あの島には魔物がいる、近付いてはならないと恐れられ、近づく者はありませんでした。大航海時代を迎え、各地の島々が「発見」されていくなか、この島にも転機が訪れます。アメリカからオーストラリアへの流刑船、アデライン号の漂着です―。
アレルの役職はツアーガイドだ。島の歴史、名所、穴場を知り尽くし、ガイドをする。今アレルは聖デボラ教会の設立に至る、島の歴史を流暢なアメリカ英語で話していた。僕やマディソン母娘や、他のツアー客や僕らの同僚の前で、島の歴史を語っていた。
島の南東に漂着したアデライン号。船長含め船員5名が島の内部に到り―総て殺傷されました。人が、いたのです。ここに、島の先住民と、流刑船の残された囚人たちの、争いが始まったのです。
僕はアレルの解説を流しながら、教会のイルカやマンタが描かれたステンドグラスを眺めながら、役職に集中する。こういう場合の危険はスリだ。緩衝区の市場にも増えてきていると聞いている。集中して、人々を見る―新婚夫婦。子供連れ。婦人会風。老夫婦。そして―。赤が混じる茶髪を、サイドテールに流した、若い女性と目があう。綺麗な人だ。サングラスをかけていたが、目があったのだろう。軽く会釈してきた。僕は慌てて目を戻した。僕らの同僚。若い学生たち。それから―。
その時。男性の絶叫が教会に響いた。バッグを抱えた男の逃走。そして、あの若い女性が、逃げ出す男を追いかけ走り出した。何事かと騒ぎだす客を尻目に、僕はいつか、いつのまにか、二人を追いかけ、緩衝区へと走り出した。
「早いな―」
緩衝区の石畳の上を、バッグをスリ盗った側の男が何故か泣きながら走り、バッグをスリ盗られた少女は息ひとつ乱さず、冷静に距離を詰めていく。
僕が追い付く前に少女は男に追い付く。その先が問題だった。
男が武器を持っていたら?市場には魚や果物を捌き売る店もある。
今は持ってなくとも、刃物を奪い、暴れたら?
僕の役職上、いや役職を抜きでも、観光客や島の人に、怪我をさせるのは、許されない―絶対に。
スリの男は何故か泣きながら走る。男は橋の脇の階段の踊り場へ跳び、そのまま橋の下のビルディング、バーや土産物屋のテナントが並ぶ屋内へ逃走した。
少女は速度を緩めず、スカートの前を抑え、橋から踊り場へ跳ぶ。
小さな娘さんが、軽々と跳んだ少女をみて、あんぐりと口をあけていた。
事態は最悪に進んでいた―。
数時間後。島の東部。観光協会の事務所。一度海に落ちた僕は上着を脱いで、上司のカノアさんの前で不貞腐れてた。この人はカヌーや釣りがいくつになっても好きで、小さな頃は遊びに連れていってくれたが―今では上司だ。
この島の人々は白人とポリネシアンの混血が多い。僕やアレルは白人の血が濃いが、カノアさんは縦にも横にも大きく、分厚い。腕に鱗様のタトゥーを彫っている。
「緩衝区のバーからも苦情が出てるぞ。海中が見えるのが売りなのに、上から子供が降ってきたって」
カノアさんは報告書を閉じ、
「どんな大立ち回りしたんだ、お前」と聞いた。
カノアさんは分厚い請求書の束を、ため息を付きながら机に投げた。僕の精神はすり減る。追跡劇は屋内に移り、最悪の事態―土産物を壊し、ショーウインドウを破壊し、そして数々のテナントに被害を出したその上で、僕は少女に、少女はスリの男に追い付いた。
「お怪我はありませんか?」と少女に、僕は尋ねる。男が何か言いそうなのを、彼女は彼の残る左手を捻りあげて「あなたはこの島の方かしら?」と軽やかに僕に尋ねた。スリの男など見向きもせず。あの距離を息ひとつせず、ね。と一人ごちた。サングラスで目元は見えないが、高級そうな衣装に、軽やかな美貌。綺麗な人だと思った。
騙されるな!とスリの男が叫んだ。
「バッグを奪った瞬間、右手の付け根から折られた!逃げようとした瞬間、右手の指をへし折られた!」男は叫ぶが彼女は動じず、僕は警察に連絡した。
男を警察に引き渡し、彼女と橋の上を教会の方へ戻りながら、僕は色々なことを話した。
僕らはこの島の観光と自警、青年育成として、この仕事をしていること。北の虹色に光る森や、海中から行ける遺跡のこと。だけど、僕はこの島を、あまり好きでなく、眠りに落ちた際見る猫の街や幻想的な世界に憧れること。
「あのアメリカ英語のガイドの子が、あなたのバディなら」
あなたの役職は、何なの?と彼女に訊かれた。
彼女の問いに、僕は「守護騎士」だと応えた。
この島の守り手、島の人々の、安寧と、安全と、賑わいと、伝統と、歴史との。
守り手です。
「そう。守護騎士。島の守り手」
彼女は右手を差し出してきた。僕がどぎまぎと受けとると、彼女は微笑み、全身をしならせて、僕を橋から海に叩きこんだ。
すげえ女もいたもんだな。いくら小さいからって、片手で人一人海に投げるとは。
カノアさんはそういって、しきりに頷いた。
「小さいは言わないでください」
僕が不貞腐れると、カノアさんは
「バッグを奪われた瞬間手の腱をおり、息ひとつせず橋を駆け抜ける。そしてまだ幼いおまえが見惚れるほどの美貌。すげえなあ、その娘さん。彼女は」
ここにいるわ、と軽やかな声がした。
高級そうな衣装に、赤が混じるサイドテールの茶髪。振り向くと彼女はパンフを右手に僕らに微笑んで、
「観光案内を依頼したいの」