プロローグ
あれは夏のいつか―南太平洋、ポリネシアのいつまでも終わらない夏の、いつかの頃でございました。ある小さな島の集落で、疫病が流行ったのでございます。島の人々ではどうにもならず、ほとほと困り抜いていた時に、島の外から背の高い、褐色というよりは漆黒に近い肌の男が現れて、南の果てにイリー・リビンという島がある。その島にある、大きな巻き貝を食べさせると良いというのです。島の人々は罹患者を連れて、航海の果てにイリー・リビンにたどり着き、島の洞窟にいた、大きな巻き貝を食べさせたのです。
ところが―。
朝食をクラッカーとコーラで簡単に済ませ、シャワーを浴びているとき、客船ハインライン号はもうすぐイリー・リビン島に到着すると、船内アナウンスが知らせてきた。
少女は藍色の、高級そうなブラウスを着て、赤が混じる茶髪をタオルで拭いたあと、左側にサイドテールにまとめた。荷物をまとめ―余り多くない―ハインライン号の船頭のデッキにあがる。
まだデッキに人はいない。
イリー・リビン島の港は島の南東にあるそうだ。アメリカ西海岸からの船旅は、島の東側を通りながら終わろうとしていた。デッキからは島の東側が見える。東側は観光の中心というよりは、行政府や病院など、都市としての機能が集まっているそうだ。
海鳥が鳴いている。朝日がまぶしい。
少女がサングラスを掛け直した時、
「昨日は揺れたね」
と声をかけられた。少女は一人旅だ。当然船員でもない。
少女は相手をみる。若い男だ。甘いマスク。人種で言えばポリネシアンになるのだろうか。だがスマートで、筋肉はしっかりしているが横には大きくない。少女の気持ちも他所に、男は馴れ馴れしく横に並び、海を眺め、
「イリー・リビンは初めてかな?僕はあの島の出身でね―だが長い間旅をしていた」
隠さずとも少女は激怒していた。だが男は何も気づいていない。
「サン・ジェルマン伯爵という人物がいる。知っているかい?」
知らないわ、と少女が応えると、甘いマスクのその男は、
「幾世相を生きているという人物だが、人前に姿を見せたのは、幾ばくの時だけ―」
「おかしくはないかい?他の時間は何をしているのか?」
「幾世相を生き、女性を愛することに総てを捧げる―」
僕はサン・ジェルマン伯爵―。
我慢の限界だった。男がそこまで言った時、少女は微笑み、右手を差し出し―。
手を取った男を、デッキから海に投げ落とした。
少女は激怒していた。人が海に落ちたと騒ぎになっても、振り返りもしなかった。
高級な衣装、明るい、赤が混じる茶髪、健康な肢体。だがサングラスの下には、総てを台無しにする燃える様な三白眼が燃えていた。しなを作るのも媚びを売るのも心から嫌っていた。
それが、ヒオベリカ・オルコウジという少女だった。
西陽が指す広場に僕はいた。
回りには黒、白、茶トラ、ペルシャ、様々な姿の猫がいて、もうすぐ彼らの集会が始まるところだ。
この街では猫を殺してはならない、という規律がある。
僕のような、猫を心から好きな者には最高な街で―その中でも僕は、彼らの集会に参加出来るという、夢の様な特権を持っている。彼らに僕を紹介したのは、小さな、僕と同じくらいの年齢なのに、いつまでも小さな、僕の大事な白猫で、メメトーという。彼らの集会に参加する時、僕は猫の姿になっていき、語尾にニャが付き、ふにゃふにゃと―。
「起きろ!イノスッ!」
「ふにゃ?」
「ふにゃ?じゃない!」
すぱーん、と頭をはたかれた。退屈な現実に戻ってきた。
アレルは真面目だにゃー、勤勉だにゃー、とにゃーにゃーと寝ぼけながら、仕事の相方の14ヶ国語の罵詈雑言を聞き流す。
「寝ぼけるんじゃない!もうすぐ客船が着く!年末年始は観光の稼ぎ時!しかも今年はミレニアムだて予約詰まってんの!」
客船の汽笛の音が聞こえてきた。
行くぞ、イノス!そういってアレルは仕事に向かう。
ふにゃー。勤勉だにゃー。寝ぼけながら、僕はそういって帽子を拾おうとしてー。
背の高いスマートな男性が、僕の帽子を拾い、
「少し、いいかな?」
と話しかけてきた。
いつのまにか汽笛は遠くなっていた。港の喧騒も、僕の周囲だけ切り取られたように遠のいていく。
「仕事は楽しいかな?イノス君」その男性はそういって、僕に帽子を被せる。
「それとも夢の世界の方がいいかい?」
僕は応えられず、まごついていると、
「夢を解釈するという行為自体が、君は、嫌いだったね」
「どうして、それを―」夢判断というものに対する、僕の感想だ。誰にも言ったことはない。
「この島は南の楽園として開かれ、タヒチやハワイには敵わないにしも人は遊興にくる。君たち観光業者に導かれ、夢のような一時をここで過ごす。光の森をカヌーでさ迷い、謎の遺跡へのスキューバダイビングを楽しみ、大振りな海鮮をほおばり、島の歴史を楽しむ」
これは実験だから、どう転ぶかが分かればそれでいい。この島に対する結論を、あの客船は携えてきた。
だから―この島を再び省みて、どうするか。
「考えておきたまえ」
イノスッ!
港の喧騒が戻った。アレルが14ヶ国語で罵倒しながら、頭をポカポカと叩いてくる。記憶が飛んだ気がしたが、僕は頭をはたかれて帽子が落ちないように押さえながら、仕事のことを思い出していた。ハインライン号が到着したとアナウンスがなる。
僕たちはガイドをする予定の、母娘連れを出迎えに走った―。