表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/15

第八話 審判 ~後半~

「空汽さん。本って、これの……」

 空汽さんに手渡そうとすると、本はひとりでに私の手を離れ、風もないのにふわりと宙に舞い上がった。表紙が開き、パラパラとページがめくれ上がる。

 本文に書かれた文字が青白く光った。更に目の前で起きた光景に、私も猫たちも、おそらく須藤さんも、摩訶不思議な光景にまぶしさも忘れて見入る。

 ページを埋め尽くす文字たちが白い光の粒子をまといながら、一斉に紙面からはがれるように、音もなく浮かび上がった。それらはまるで蝶のように、天井近くまで舞い上がる。

「名も無き手記に封じられし記憶よ。汝の在るべき処へ還れ」

 空汽さんが低く囁くと、光をまとった文字たちは、須藤さんに向かって舞い落ちる。

「うわっ⁉」

須藤さんがあわてて顔を。光をまとった文字は雪のように彼に降り注ぐと、まるで体に吸い込まれるように燐光を放っては消えていった。わけが分からない様子で壁にもたれかかっていた須藤さんが、不意に目を見開いた。まじまじと白猫を見下ろし、ぽつりと口を開く。

「……テトラ? お前、まさかテトラなのか?」

 白猫は何も答えない。ただ、青い瞳でじっと須藤さんを見つめている。須藤さんがそっと手を伸ばせば、白猫は大きな手のひらに丸い顔をすり寄せる。

 須藤さんの両目が、みるみるうちに赤く潤む。冷たい石畳の床に膝を突くと、須藤さんはうずくまるように白猫を胸に抱えた。

 石造りの牢獄に、次第に大きくなってゆく嗚咽が反響する。

にわかに、地下牢に静寂が満ちた。女王たちも赤い猫も、あれほど騒いでいた猫たちも何も言わない。ただ牢の中の一人と一匹を、全員が無言で見つめていた。

「彼とあの白猫は、家族だったそうだ」

 空汽さんの静かな声が、背後から響いた。

「家族? どういうことですか、空汽さん」

「赤ん坊の時から共に育ったあの白猫は、姉であり無二の親友でもあったらしい。人見知りが激しかった白猫も、彼にはよく懐いた。病弱で学校を休みがちで、そのせいで同年代の友人も少なかった彼が唯一、無条件で心を許せる存在だった」

 思わず空汽さんの、相変わらず感情の読めない顔を見る。まさか蒼猫楼へ行く気がないと言ったのは、須藤さんの家族に事情を聴く必要があったから……?

「だが九歳の時、彼は大切な家族を目の前で失う。動物病院へ健康診断に行く途中、ゲージから脱走し道路に飛び出してしまった猫は、不運にも彼の目の前で車にはねられてしまった」

 あまりに残酷な顛末に、返す言葉が見つからなかった。

「その瞬間、彼の脳が精神を自衛するため、どんな措置をとったかは想像に難くない。事故の後、彼は丸二日寝込んだ。目を覚ました時には、愛猫のことを何も覚えていなかったそうだ」

「それって、もしかして」

「いわゆる心因性健忘症だね。人はあまりに衝撃的な体験をすると、精神を守るため、無意識のうちに脳はそれを忘れようとする。部分的に記憶を抑圧し、記憶喪失の状態を引き起こす。そもそも人間の脳は、記憶よりも忘却という処理の方が圧倒的に得意な器官だ。抑圧された記憶は普段、水面下から顔を出さない。しかし、それが何らかの形で刺激されると……」

 そこで言葉を区切ると、空汽さんは体をかがめ、いつの間にか床に落ちていた灰色の本を拾い上げる。

「私は医者でも心理学者でもないが、バステト像やクロを見て怯える様子から、彼の不調の原因が不眠症でないことは容易に見当がつく。睡眠障害はPTSDの副産物に過ぎない。記憶を封じられてなお、無意識の奥底で家族を守れなかった自身を責め、愛猫を轢いた者を憎み続けていたのだろう。そして過失とはいえ、自分も猫を轢くという同じ過ちを犯した」

 情報と現状が少しずつ符合し始める。

 確かに私もシスター・マチルダも、話を聞く限りはおそらく須藤さんのご家族の方々も、彼は不眠症だと思い込んでいた。

 本当の問題は彼の過去や、深層意識に抑圧された記憶の中に潜んでいたのだ。

「……じゃあ、須藤さんは」

「そんな自分自身を、簡単に許せるはずがない」

 淡々と語りつつ、空汽さんは牢の中でうずくまる須藤さんを見下ろす。

「厄介なことに、抑圧された記憶というものは刺激を受ければ簡単に思い出せるという代物でもない。だから彼は、自分が眠れなくなるほど苦しい本当の理由がわからないまま、やみくもに猫に怯え、悩み、過去をフラッシュバックさせながら自責し、自分を追い詰めることしか出来なかった」

 須藤さんが顔を上げ、大きく息を吐く。小さな白い体をそっと抱きあげると、首輪についた鈴がりんと鳴った。

 白猫が小さな舌で、彼の頬につたう雫を舐めとる。

「お前は友を救いたかったのね」

 夜の女王が格子越しに、静かな声で白猫へ語りかけた。

「その者を救いたかったのでしょう。制約としがらみの多い人の世よりは、いくばくか自由なこちらの世界で一緒に生きようと考えた。違いますか?」

 女王の言葉に、須藤さんは顔を歪める。

「確かに人の世は理不尽です。弱い者、苦しんでいる者は容赦なく切り捨てられ、集団からはみ出す者は排斥されてゆく。弱って徐々に居場所を失い、孤立する。お前はそんな友の苦境が辛かったのね」

 まるで我が子を諭す母親のように言って、女王は白猫を真正面から見据えた。

「しかし忘れてならないのは、人の世に限らず世界は無慈悲だということ。一度命を落としたお前と、生者であるその青年と。過ごす時間も、存在する世界も違う」

 形の良い耳が小さく揺れた。ほんの少しだけ、鮮やかな青眼が翳りを帯びる。

「この者は人で、お前は猫。お前にとってここは魂の故郷でも、人間にとっては異界。何よりここで人間は異邦の存在で、不和の火種となる。決定的に種をたがえる我らが、ほんの少しの間共に生きることは出来ても、交わることは決してないのですよ」

 諭すように紡がれてゆく言葉に、白猫は名にも答えない。

 ただ哀しそうな目で、じっと女王を見つめ返す。

「お前は今、友とこの地で穏やかに暮らしたいと言いましたね。この人間の天寿が尽きるまで、他の猫から身を隠して共に生きると。私の答えは否です。この世界を治める者として、争いの種子を埋めるような真似を、認めることなどできません」

 目の奥が、じわりと熱を持つ。

 白猫を抱きしめる須藤さんの姿が、ぼやけて滲んだ。あわてて袖で目をぬぐう。

「……ごめんな」

 かすれた声が、何度も白猫へと語りかける。

「ごめん、テトラ。ごめん……」

 白猫は何も言わず。ただ須藤さんの肩に顎をのせ、腕の中にじっと収まっていた。

 彼がどんな顔をしているのか、私の位置からは見えない。

「人はいつも我々を飼い馴らそうとする」

 それまで黙っていた昼の女王が、不意にこぼした。

「その手を払いのける者もいれば、受け入れる者もいる、だが種の違いとしがらみを越え、互いを同胞と認め合って共に生きる者たちも、わずかながらも確かに存在するのだ。それは理屈でも摂理でもなく、互いの魂が呼びあうままに」

 夜の女王はどこか感情の読めない目で、彼女の姉を一瞥した。

「昼と夜が表裏一体であるように、現と冥の境など脆いもの。お前は本当にそれで良いのだな、愚妹よ」

「私はこの楼閣の主です。摂理と秩序を守らねばなりません。そして全てが語られた今、そろそろ判決を下さなくては」

 その一言で、はたと我に返る。

 すっかり忘れていたが、須藤さんの命運は女王の裁量にかかっていた。

 この聡明そうな夜の女王が、須藤さんの過去や白猫の気持ちを情状酌量に加えるとは限らない。

 むしろ白猫を諭した言葉からも、自分の本分に私情を加えないタイプに見えた。

 壁に伸びた女王の影が、燭台の灯が揺れるのにあわせて小さくゆらめく。

「……全て、ねえ。その前に一つ、我らが女王様にお聞きしたいんですがねェ」

 唐突に、赤い猫が口を挟んだ。

 にやにやと笑みを浮かべた顔に、嫌な予感がする。

 須藤さんの肩に顎をのせていた白猫も耳を立て、ぱっと顔を上げた。

「人間の言い分は聞いても、そいつに殺された猫の言い分は聞かないんですかい?」

 静観から一変、わかに、集まった猫たちがどよめいた。

「そうだよ。確かにバステト様は少し人間寄りだ」

「何を言おうと、その人間が同胞殺しであることに違いはねえんだよな」

 薄暗い地下牢に、獣たちのひそやかな声が満ちてゆく。

戸惑いと怒り。人間への憎悪や、女王に対する不満や不信――――

「目には目を。我々を殺した者はすべからく死罪であるべきでしょう、女王。たとえ、どんな理由があっても」

 背中にコウモリのような黒い羽を生やした灰猫が一歩進み出し、重々しく進言する。

「死罪って……そんな」

 目の前が暗くなる。赤い猫のたった一言で、場の風向きががらり変わってしまったのをひしひしと感じた。

 バステト様が場の空気に流されるようなことはないと、思いたいけれど。

 人間とは違う物差しを持つであろう彼らに、情状酌量という概念があるの、私にはわからない。

「殺された猫ですか、良いでしょう。落命が半年以内なら、まだ魂はこの楼閣に留まっているはずですね」

 女王が後ろに控えていた虎猫を振り返る。

「さすが、我らが女王陛下」

 赤い猫は芝居がかった動作で膝をつき、皮肉交じりにかしこまる。

 同族である被害者の猫の言い分と、加害者かつ余所者である人の言葉。分があるのは明らかに前者だ。そして公平と秩序を重んじる女王は、片方の言い分だけで審判を下すことを潔しとはしないだろう。

「では早速、楼閣の中にいる者を全てここへ連れてくるように」

「……あのう、陛下。その殺された猫ですが、すでに目の前におります」

 虎猫がしどろもどろに口を挟む。女王が怪訝そうに振り返った。

「目の前? それは、どういう……」

 暗い室内で仄かに光る緑黄色の目が、気まずそうにこちらを向く。

「あの猫です」

 猫たちの視線が一斉に私の足元へ……足元で退屈そうに座っていたクロに集中する。

「え? うそ、クロが?」

 はからずも間抜けな声が漏れ、あわてて口を閉じた。空汽さんはいつもと変わらず無表情に、私の足下に座った愛猫を見下ろす。

「へえ、そいつはいい。是非とも話を聞きましょうや」

 我が意を得たりとばかりに、真っ赤な双眸が爛爛と輝く。

 女王はクロの前に歩み寄ると、飼い主に似て表情の乏しい顔をじっと見た。

「お前はどう思いますか? この審判に際して、自由な発言を許可します」

 そんな女王をちらりと一瞥すると、クロは喉を鳴らすような声で低く、短く鳴いた。

「は?」と素で聞き返した女王に「なーおぉ」と更に間の抜けた返事をすると、後ろ足で顔を掻き始める。仮にも女王様の前で、緊張感の欠片もない。

「おまっ、ふざけんな‼ どうせその横にいる男の差し金――――」

「お黙りなさい」激昂した赤い猫を、女王がすかさず制止する。

「お客様への暴言は許しません。ですが、お前は本当にそれで良いのですか?」

念を押すように尋ねられるも、クロはそっぽを向く。にわかに周囲がどよめいた。

「空汽さん、クロはなんて?」

 こっそり尋ねると、つれない答えが返ってくる。

「さあね。生憎、私は猫語を翻訳する知識は持ち合わせていない」

さも常識と言わんばかりに返されると気まずい。私だって好き好んでメルヘンチックな質問をしたわけではないのだ。

「被害者がそういうのなら、私が裁くことは何もありません」

「おめえ、本当にそれでいいのかよ! あの人間に殺されたんじゃねえのか⁉」

 とって喰いそうな勢いで赤い猫に詰め寄られるも、クロは大きなあくびを返す。

「勝手に殺してもらっては困る。見ての通り、クロは生きているのだから」

 憤る赤い猫に向かって、空汽さんは冷静に口を挟んだ。

 須藤さんはこぼれ落ちんばかりに目を開き、クロを見つめる。

「……でも俺、土手に埋めたんですけど」

「そのようだね。二ヶ月前の深夜、泥だらけで戻って来たよ。きっと気絶しただけで、運よく死ななかったんだろう」

「い、いやだって……明らかに骨が折れてたし、その右目の上の傷跡も、確かに」

「思い違いだろう。過去の記憶がフラッシュバックして、現実と過去を混同したんじゃないのかね」

 困惑のあまり頭を抱える須藤さんに、何事もなかったかのように言い放つ。

 彼がクロに怯えていた原因がやっとわかった。死んだと思っていた猫が目の前に現れたら、誰だって卒倒するだろう。

「馬鹿な。確かにおぬしは重傷を負ったはずだ。それこそ肉がえぐれ骨も砕け、死んでも不思議はないほどの血を流し……」

 虎猫がわななくように言い、暗がりの中でその両目を光らせた。クロがのっそりと巨体をおこすと、虎猫は怖気づいたように一歩後退る。

「おぬし……いや、お前は本当に我らの同胞か?」

 当のクロはそれには答えず、他人事のような顔で毛づくろいをしている。思わず真っ黒な冬毛をかき分け、体に傷跡がないか確かめた。しかし薄暗い地下牢に真っ黒の体ではよく見えない。

「……くくっ、そういうことか」

 セクメトと呼ばれた昼の女王が、愉快そうにひとりごちる。やがて笑いを堪えきれなかったのか、彼女はけたたましい笑い声を石造りの地下牢に響き渡らせた。

「我々はまんまと一杯、黄昏堂に食わされたようだな? バステト」

「そのようですね」

 夜の女王が不本意そうに返す。何がなんだかわからない私と、私の足元のクロを見渡し、夜空色の毛並みを持つ猫はかすかなため息を漏らした。

「それではバステトの名において、この人間・スドウイツキを解放します。楼閣への侵入も害意からではなく、我らが眷属に導かれてのこと。よって不問としましょう」

 高らかに告げられた判決を聞いた瞬間、どっと体から力が抜けた。

「良かったぁ……」

「では判決が出たところで、我々は帰らせていただきましょうか」

 すかさず空汽さんが切り上げようとしたその時、クロがくるりと体を反転させ、全身の毛を逆立てた。とっさに振り返ると、石壁に映る影が波打つように蠢く。

 赤い猫が、上半身を低く構え牙を剥きだす。鼻筋にしわが寄り、真っ赤な瞳に異様な光が浮かんだ。ぶるりと身震いをすると、全身から真っ赤な炎が噴き上がる。

「赫猫! いけません、鎮まりなさい!」

「危険です陛下、どうかお下がりください!」

 虎猫が何匹かの猫たちを率いて女王をかばうように、赤い猫を包囲する。

 他の猫たちも逆毛を立て、ぐるぐると喉を低く鳴らしはじめた。

「おのれ、血迷ったか赫猫‼」

 虎猫が叫ぶ。クロより少し大柄な痩せた体が、炎をまとって膨れ上がった。

 相手を刺激しないよう、須藤さんは白猫を抱えたまま壁際までじりじりと下がる。

 赤い猫は頭を低くしたまま、臨戦態勢で私たちを――この場に居合わせた人間を順に見回した。須藤さんがあわてて、白猫を自分の背後に隠す。

「……赤猫という言葉がある。火事や放火魔の隠語のことでね」

 緊迫した状況にそぐわない平淡な声で、空汽さんは唐突に呟いた。

「は?」

「猫の体に火をつけて放ち、家屋に燃え移らせて放火する手口からその名がついた」

 思わず猫を振り返った。身にまとう炎や敵意ばかりに気をとられていたが、館長に言われて初めて、炎の切れ目からのぞく血のように赤い皮膚には体毛がなく、焼け爛れていたことに気付く。

「それじゃあ、あの猫は……」

「そう。そうして人間に焼き殺された猫の魂の、なれの果ての姿だ」

 ちりん、と鈴の音が小さく鳴った。

クロが足元をすり抜け、赫猫に向かって歩いてゆく。ぎらぎらと光る真っ赤な目が、じろりとクロを捉えた。危ない、ととっさに叫んだ声が裏返る。

とっさにクロを止めようと腕を伸ばすと、横から館長に掴まれた。

「離してください! クロが」

「待ちたまえ。何か考えがあるんだろう」

 空汽さんの手を振り解く間もなく、炎に包まれた赫猫がクロに跳びかかる。

「クロ!」

しかしクロは怯まず、目にもとまらぬ速さで相手の顔に飛び乗った。

 相手が虚をつかれた一瞬の隙をつき、前足を振り上げ額を引っ掻く。くぐもった悲鳴を上げ、赫猫はのけぞった。クロはすかさず相手の頭を蹴って着地する。

 赫猫を包む炎が、わずかに勢いを削がれる。横一直線に裂けた傷口から、鮮血が床に飛び散った。

「両者とも、そこまでだ」

 静かだが、低く鋭い一喝が背後から飛ぶ。

「判決は下った、赫猫よ。来客への無礼も、我が妹に異論を立てることも許さぬ」

 女王の姉……昼の主が、睨み合う二匹の間に悠然と割って入った。

 足を引きずるように、赫猫は鼻筋に皺を寄せたまま、ずるずると壁際に後退る。

「セクメト様……」

「奇獣の誇りを忘れたか? 弱い獣ほど食いつなぐためだけに生き、ゆえに弱くつまらぬ物ばかりを狩る。貴様はその爪牙を、この楼閣を、家猫にすがって泣くつまらぬ人間の血で穢すつもりか」

 獅子の姿の女神は声を荒らげるわけでも、凄みをきかせているわけでもない。

 それでも炎をまとった猫は、獰猛な瞳に射竦められたように動かなかった。

「下がれ赫猫。貴様が八つ裂くべき人間は他にいる、本懐を違えるな」

 生きながらにして焼かれた猫。

 火をつけた人間はどうなったのだろう。自分の手を汚さないために猫を使った。身勝手な欲望と、姑息な保身のために。ぐらりと目の前が暗く歪んだ。

「…………わかりやした」

 感情を押し殺した低い声で、赫猫は渋々頷く。須藤さんに危害が及ばなかったことを安堵する半面、胸の奥で何かが音をたてて燻ぶった。

 人間を憎み、食い殺そうとした赤い猫。この猫は加害者だが被害者でもあった。全ての人間を憎んで当然の、ありあまるほどの動機があった。

 踏みにじられた者は人生を、心を、時に魂さえ歪められ、復讐を果たすその日まで、恨みつらみを胸の奥に押し込み続けるしかないのだろうか。

 目の前で項垂れる、炎をまとう猫のように。そしてきっと、私のように。

 あの猫がいつか、自分を焼き殺した人間に報いる日が来ればいい。

 衛士らしき猫たちに引き立てられて地下牢を出てゆく赫猫と、一瞬だけ目があう。真っ赤な瞳がじっと、声もなくこちらを睨んだ。

 焼け爛れた背中が見えなくなるまで、私はその後ろ姿から目を離せなかった。

「相良君」

 空汽さんに呼ばれ、我に返る。足元にはいつの間にかクロが座っていた。

「ご苦労だったね。黄昏堂に帰ろうか」

 低く静かな声に、強張っていた全身から力が抜けてゆく。

 いつもと変わらず無表情な顔をしているくせに、眼鏡の奥の瞳はいつになく穏やかな色をたたえていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ