間章 罪と罰
「……?」
すうっと鼻をかすめた異臭に目が覚める。
血のにおいと獣のにおい。そして肉の腐ったような、なんとも言いがたい悪臭があたりに充満していた。
悪寒が背筋を這い上がった。泥のような眠気が瞬く間に引いてゆく。
周囲を見渡すが、真っ暗で何も見えない。
ここは一体、どこだろう。重たい体を引きずって、両手で周囲を探りながら慎重に歩くと、右手の甲を何か硬いものにぶつけてしまい、鋭い痛みが走った。
鈍い金属音が反響する。目をすがめれば、目の前には格子状の柵があった。四角い隙間から、かろうじて腕が一本通るくらいだ。
「確か、俺……」
幽霊屋敷……ではなく黄昏堂を見学している最中に発作を起こし、医務室のベッドで目を覚ましたことまではハッキリ覚えている。
帰ろうとしたその時、どこからか一匹の猫が現れた。それを追いかけていたら、図書館の地下に迷い込んでしまい――――
「起きたぞ。鼠が起きた」
聞いたことのない、低くしゃがれた声が響く。
「っ⁉」
突然、格子の向こうに赤い火の玉が現れた。反射的に後退るとバランスを崩し、床に尻もちをついてしまう。
「ハハッ。転んだ、転んだぞ」
鈍い痛みに呻くと、低く濁った、嘲るような声がかぶさった反響した。
橙色の炎に照らされ、一匹の猫が暗がりに浮かび上がる。
火の玉に見えたのは、しっぽの先端で松明のように燃える炎だった。まるで蝋燭のように、猫はその長い尾を高く掲げる。
熱くないのだろうか。異様な姿に現実感がうまくわかず、妙に的外れなことをぼんやりと思う。毛色がやたら赤い。赤茶けているというより、血のように真っ赤だ。
薄暗がりの中で爛爛と赤く光る二つの目玉が、品定めするように俺を見つめている。
「さてこの鼠、どうしてやろうか」
猫がにやりと牙を剥き出す。真っ赤な猫が当然のように人間の言葉を喋っていることに気付き、今更のように混乱が襲ってくる。
目の前の情景も自身の感覚も、なんだか寝ぼけているように現実感がない。
寝不足でとうとう頭がいかれたのかもしれないと、混乱する一方で、どこか他人事のようにも思った。
「焼いて喰おうか。それとも腹を裂いて、腸をすすってやろうか?」
三日月の形に横に裂けた口からは、杭のように太く鋭い牙と真っ赤な舌が覗いた。
「ここに人間が来るのも久しぶりだ。少し痩せこけてはいるが、体はでかい。それなりに喰いごたえがありそうだ」
真っ赤な目をすがめ、異形の猫が俺をじっと見る。
「……俺を喰うのか? 俺が猫を殺したからか?」
尋ねると、灼けるような痛みが喉に走った。声がすれて息が切れる。
「殺した? そんなことは知ったことじゃねえ。だいたい俺はなァ、お前が生まれるよりとっくの昔に死んでる」
赤い猫は後ろ足で顎を掻きながら、つまらなそうに言い放つ。
その姿を見ると、異形でも、尻尾に火がついていても、やはり猫だと感じた。
「そういうわけのわからん小理屈は、いかにも人間様のモノの考え方だなァ」
「じゃあ、どうして」
「ここじゃお前は弱いからさ。人間なぞ鼠と同じだ。浮世じゃ人間様が我が物面して往来歩いてるんだろうが、ここじゃ只の人間なんざ鼠と同じ、喰われる側だ。それに俺は、何より人間が大ッ嫌いだ」
炎がゆらりと揺れ、石畳の床に異形の影が伸びる。
「女王様の裁量を待つまでもねえ。お預けくらう前に、とっとと喰っちまおうぜ」
赤い猫の後ろから別の声が響いた。俺を囲い込むように、いくつもの小さな光が一斉に、暗がりに浮かび上がる。
「さっさと殺せ! ばらして喰っちまえ!」
「一人占めするんじゃないよ。肝はこっちに寄こすんだからね!」
「俺は目玉を喰いてぇなあ」
それらは暗闇で光る、無数の獣たちの目だった。ぎゃあぎゃあと、煽るような言葉と鳴き声が矢継ぎ早に飛んでくる。鼻の曲がるような獣臭が、一段と濃さを増した。
咆哮やうめき声までもが混然一体となって、にわかに部屋は喧騒に包まれてゆく。
何故、今まで気付かなかったのか。赤い猫の背後に、いつの間にか部屋を埋め尽くすように何十匹、いや何百匹もの獣がずらりと集まっていた。
小さな子猫もいれば、天井に届きそうな大きさの獅子もいる。
ライオンや虎、豹らしきものもいる。背中に鳥の翼がついている猫や、頭が三つある獅子、首から上のない虎など、動物と呼べるかわからないものまで。
しかしどれだけ周囲を探しても、まるで自分を誘い込むように黄昏堂からここまで連れてきた猫の姿がどこにもない。
「あ……」
暗闇で煌々と輝く無数の目玉は皆、俺を虎視眈々と見ている。
これは夢だろうか。それとも罰なのだろうか。
ひとつの命を奪っておきながら、今日までのうのうと生きていた報いか。
人を殺せば法で罰せられる――――では猫を殺したら?
少なくとも俺は今日まで、誰にも裁かれることなく、罰を受けることもなくのうのうと生きていた。
腕一本がやっと通る格子の隙間を、赤い猫は難なくすり抜ける。
壁に背中をぶつけた俺に、猫はゆっくりと近づいて来る。目が赤く、炎のように煌々と輝いた。尾の炎はゆらめき、音をたてて膨れ上がる。
恐怖が体の内側を、ひたひたと侵食してゆく一方、この期に及んで自分が現実から切り離されているような、ふわふわと覚束ない感覚もあった。
憔悴から自暴自棄になっているのか、とうとう感覚がおかしくなったのか。
それとも頭の片隅ではまだ、目の前の光景が夢か幻覚だと思っているのか。
ただ心のどこかで、自分でも持て余していた罪悪感に、罰という形で幕が下ろされることに安堵していた。
不意に気付く。俺はきっと、誰かに罰されたかったのだと。
自分の過失でひとつの命を奪った罪を、開き直ることも忘れることもできず、行き場のない自責と罪悪感だけが膨らんでゆく日々が、苦しかった。
わずかばかりの睡眠時間にさえ、猫が轢かれる夢を見る。
それに耐えられず、最近は眠ることすらできなくなっていた。
発端は二ヶ月前、バイトの帰りに猫を轢いたことだった。
突然車道に飛び出してきた猫を避けられず、真正面からぶつかった。
それ以来、ハンドルを握れば猫を轢いた時の感触が手のひらに生々しく甦るようになった。猫を見るたびどうしようもない恐怖と罪悪感に襲われ、吐き気や過呼吸を起こす。
どうしてこうも自責の念に苛まれるのか、今でもよくわからない。
蚊や害虫は平気で殺すし、飲食店のバイトで生きた魚介類を捌いたこともある。
故意ではなく過失だ。しかし轢いてしまった猫を思い出すたび体が強張る。
日に日に眠れなくなってゆく中で、感覚が麻痺してゆくのに反比例するように、罪悪感と恐怖だけがいたずらに肥大してゆく。
ここで目の前の、化け物のような猫に喰われたら、どうなるだろうか。
自分がいなくなったら、やはり家族や友人たちを、それなりに悲しませてしまうのだろうか。しかしそれ以上に、猫を殺した人間が猫に殺されるのという結末は、妙に筋が通っているような気もした。
「なんだ、思ったより怖がんねえぞ。つまんねえなぁ、こいつ」
赤い猫の体が、どんどん膨らんでゆく。みちみちと音をたて、口が顔一面に裂ける。
やけに赤い毛並みだと思っていたのは、真っ赤に爛れ、所々が盛り上がった皮膚と肉だった。まるでひどい火傷のようで、痛ましさに正視できず目を逸らす。
「おぞましいか? 俺をこんな形にしたのは、他でもねえお前ら人間様だろうがよォ」
違うと言おうとした瞬間、頭の片隅で何かが引っ掛かった。
前に、これと同じものを見た気がする。
真っ赤に染まった体、えぐれて爛れた皮膚に、露わになった血と肉のまだら色。むせかえるような血の臭い。
ずきん、と頭の奥に鋭い痛みが走った。
赤い猫。赤々と血の色に染まった猫。
以前にも、そんな猫をどこかで見た。
手のひらに残る嫌な衝撃と手応え。短くくぐもった悲鳴。
骨や肉がひしゃげた音、ぐにゃりと脱力した小さな体――――
突然、心臓が早鐘を打ち始める。加速してゆく動悸に引きずられるように、目の前が揺れた。息がうまく出来ない。
猫たちの騒ぎ立てる声が、耳に膜がかかったように遠く聞こえる。
じりじりと赤い猫に距離を詰められ、壁際に追い込まれる。逃げ場はない。牢の外はぐるりと猫たちに取り囲まれている。
ぶわりと、猫の真っ赤な体が一回り大きく膨れ上がった。
「!」
血と獣の臭いがひときわ濃くなる。鋭い爪がすぐ目の前に迫った。
とっさに目を閉じ、襲ってくるであろう痛みに身構えた、一瞬の後。
どこかで聞き覚えのある鈴の音が、りん、と耳朶を打つ。
突然、水を打ったように辺りが静まり返った。おそるおそる目を開くと、鋭い爪が俺を狙ったまま、ぴたりと目の前で止まっている。
「何事ですか」
凛と澄んだ低い声が、空気を裂くように響き渡った。




