第六話 蒼き猫の楼閣
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
(萩原朔太郎 『青猫』)
「待って、クロ!」
クロを追い掛けて走っていると、不意に周囲の変化に気付いて足を止めた。
クロが素直にぴたりと立ち止まる。
相変わらず真っ暗な闇しか見えないが、先ほどまでとは明らかに何かが違った。
周りを壁で囲まれているような、空間が狭くなったような圧迫感を肌に感じる。
再び歩き出すと、コツコツと靴音が反響した。まるでトンネルの中を歩いているような音の響き方だ。
あのおじさんは一体、どうなってしまったのだろう。不安で後ろを振り返るが、おじさんが持っていたランタンの光すら既に見えなくなっていた。
加えて、先ほど拾った本を騒ぎにまぎれて持ってきてしまったことに気付く。
「どうしよう……」元の場所まで置きに戻るという選択肢は、正直なかった。
こんな訳のわからない場所から、とにかく一刻も早く戻りたい。
懐中電灯で表紙を照らす。灰色の革装丁がされた小さな本。
表紙や背表紙は全くの無地で、タイトルや作者名すら書かれていない。
ただ裏表紙の右端にこぢんまりと、猫のシルエットが銀色で箔押しされている。
「猫……?」
ページをめくると、中は象形文字のような文字で埋め尽くされていた。
見たことのない文字だった。何語なのか、というか文字なのかすらわからない。
裏表紙をめくって見返しを確認するが、黄昏堂の蔵書印はなかった。
仕方なく、エプロンのポケットにしまう。後で空汽さんや須藤さんに心当たりがないか聞いてみよう。無事にここから帰れたらの話だけれど。
冷たい風がふわりと頬をかすめる。かすかに、土と草のにおいが漂ってきた。
しばらく歩くと、前方にうすぼんやりと灯りが浮かび上がる。
どうやらトンネルを抜けたらしい。靴音は反響せず、足元には踏み固められた土に、わずかばかりの雑草が生えていた。
風が吹き抜ける。群青の空には満天の星と、白い半月が冴え冴えと浮かんでいた。
「ここは……?」
月灯りを頼りに腕時計を見れば、針は七時を指している。
クロはスタスタと、目の前の草むらにするりと潜り込んでいってしまう。はぐれないよう、懐中電灯で照らしながら、ちりちりと響く鈴の音を頼りに後を追う。
背の高い草をかき分けながら野原を抜けると、奥には巨大な赤い楼閣がそびえていた。和風とも中華風とも遠目には区別がつかない、時代がかかった木造の建物だ。
丸い窓から漏れる光が赤い。夜闇に赤く浮かび上がる様は、怪しくも幻想的だった。
猫草に囲まれた木造の楼閣。もしや、ここが空汽さんの言っていた「蒼猫楼」だろうか。何階建てだろう。ぱっと窓を数えただけでも、縦に四つ並んでいる。
お城のようにも、お寺のようにも見える。ぐるりと高い黒木の塀に囲まれた外観は、とにかく壮観だ。大きな門の前には、顔面が削られた獅子の石像が安置されている。
クロが門の前で立ち止まる。そのまま座り込み、じっと動かない。
急に動かなくなった案内役にしびれをきらして尋ねる。
「ねえクロ、ここが蒼猫楼っていう所?」
「如何にも」「えっ?」
しかし私の問いに答えたのは、聞いたことのない低くくぐもった声だった。
「此処は蒼猫楼である。汝は客人なりや?」
とっさに周りを見回す。懐中電灯で周囲を照らすが、声の主は見当たらない。
「人間の娘よ、此処は我らが神祖の坐す処。愚かな只人の踏み入って良い場ではない。分を弁えし賢者のみ、門をくぐることが許される」
やけに時代がかった、大仰な話し方だった。クロがごろごろと喉を鳴らす。
「ふむ、我らが眷属を供に連れたか。ならば相応の手心を加えねばならぬ」
「あの、私は……」
「されど我が門は、正答こそが唯一の鍵」
声は門の内側から響いていた。一方的に喋る声の主が、姿を見せる気配はない。
「問おう。明けに尖り、暮れとともに膨らんでゆくものとは何ぞや」
その謎かけで、おぼろげな確信がはっきりと形をもった。
顔が潰れているが、この像はおそらく「スフィンクス」だ。
ピラミッドの入り口ではなく和風の楼閣の門の前に、まるで狛犬のように置かれたスフィンクスの石像。統一感がないというか、世界観がちぐはぐだ。
「朝と夜で形を変えるもの……?」
抽象的な問いに頭をひねる。最初に浮かんだのは「つらら」だった。太陽が出れば熱で溶けて鋭くなり、日没後は気温が下がって再び太く膨らんでゆく。
間違ってはいないはないが、正解でもない気がした。しっくりこない。
スフィンクスの謎かけといえば、ギリシャ神話に有名な逸話がある。
朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものは何、という謎かけを出され、間違えた者は喰われてしまうという……
「……あれ? もし答えを間違えたら、私どうなるんですか?」
「門をくぐれぬ、それだけだ。人間や鼠は晩餐の食材になるのが通例なれど、我らが同胞に導かれここを訪れたとなればそれは客人。非礼は出来ぬ」
さらりと返された衝撃発言に、全身からざあっと音をたてて血の気が引く。クロがいなかったら、私は死んでいたのかもしれない。
須藤さんは無事だろうか。頭を抱えていると、クロが足元にすりよって来る。なお、と妙にドスのきいた低い声で鳴いて、私のふくらはぎに頭をなすりつけた。
「クロ?」
暗がりに溶けてしまいそうに真っ黒な小さな顔が、じっとこちらを見上げてくる。
頭の片隅に何かが引っ掛かった。この門番は今、クロを「眷属」や「同胞」と呼んだ。空汽さんは蒼猫楼のことを「猫の世界」だと言っていた。
底まで考えて、ひとつの可能性が脳裏に閃いた。
ここが猫たちの故郷だというなら、答えはきっと――――
「……わかりました」
「答えてみせよ」門の内側からくぐもった声が促す。
「答えは猫の目です」
クロの顔を見て気付いた。ここに来る前、クロの目は瞳孔が針のように縦に細かった。黄昏堂の館内……照明が充実した、明るい室内にいたためだ。
今は金色の目が爛爛と暗闇の中で光り、黒い瞳孔は真ん丸になっている。
門の内側から返事はない。不正解だったのだろうか。不安になってきたその時、ぎしぎしと何かが軋む音が門の内側から鳴った。
目の前にそびえる観音開きの門扉が、重々しい音をたててゆっくりと開きはじめる。
「正解である」
門の向こうには、一匹のライオンが悠然と座っていた。
頭部をすっぽりと白い布で覆っている。顔がえぐりとられた門前の石像といい、目の前のライオンといい、顔を隠しているのは何故だろう。
神話では、スフィンクスは人面獣身のキメラと言い伝えられている。
猫と一緒に来ない人間が「晩餐」になってしまうあたり、この楼閣の住民達はあまり人間を快く思っていないのかもしれない。
「その烏猫に礼をいうがよい」
「からすねこって、クロのことですか?」
「然様。主人の意を汲む賢き、善き僕である。しかし娘、この館に如何なる用だ?」
先ほどより幾ばくか穏やかな声が、覆面の下から響く。
普通、そういうことは門を開く前に聞くのものではないだろうか。
それともクロが一緒だから、そのあたりのチェックは緩いのか。
「黄昏堂館長の名代で参りました。ここに、須藤さんという人が迷い込んでしまったと聞いたので、彼を連れ戻しに来たんです」
「ふむ……先刻、不寝番から鼠が紛れ込んだという知らせがあったが、人間は聞いておらぬな。もし人間が迷い込んだなら、おそらく檻に入れられておろう。正門を通らなかった侵入者は檻房に入り、我らが神祖の裁きを待つ。二度とここに忍び込めぬように目を潰して追放、もしくは処刑が通例だ」
「処刑!?」
不穏な単語に背筋が冷えた。晩餐がありなら、処刑があってもおかしくない。そんなことになる前に、何としても須藤さんを見つけ出さなくてはならない。
そんな私の心を読んだように、覆面の獅子は付け加えた。
「虜囚の助命なら最上階に坐す夜の女王に嘆願するがよかろう。汝は運が良い。昼の主は苛烈だが、夜の主は慈悲深い。嘆願に理があるなら聞き入れられるやもしれぬ」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げ、歩きはじめたクロを追って楼閣へと足を踏み出す。
しかし門番とすれ違う瞬間、覆面の下から囁き声が聞こえた。
「だが己の命が惜しくば、陽がのぼるまでにこの館を去ることだ。それともう一つ、赤い猫には気をつけられるがよい」
「赤い猫……?」
振り返るが、スフィンクスは私に背を向けたまま、それ以上何も言わない。
もう少し詳しく聞きたかったが、クロがどんどん先へと進んでいってしまう。
クロを追いかけ、小走りで玄関とおぼしき大きな扉へと通じる石段を駆け上がった。門は閉まっていたが、扉は施錠されていなかった。
この楼閣、警備が厳しいのかザルなのか、今一つわからない。
「すみません。あの、黄昏堂から来た者ですけど」
無断で入るのも気が引けて一応奥に声をかけてみるが、反応はない。
隙間に手を差し込み、音をたてないようにそっと黒檀の扉を開いた。入り口らしき扉を開けば、そこには太い柱と、それをぐるりと囲むように螺旋階段が広がっていた。
部屋の奥には二つ扉があったが、クロはそちらに見向きもせず螺旋階段へ向かった。
幾重にも続く階段を延々とのぼっていると、五分も経たないうちに私の体は悲鳴を上げた。汗だくの全身が鉛のように重い。呼吸するたび喉が干上がりそうになる。
それもそのはずだ。黄昏堂からこの楼閣まで、休憩無しで歩き続けている。女王は最上階だと門番のスフィンクスは言うが、そもそもこの楼閣は何階建てなのか。
クロは疲れを全く見せず、スタスタと階段を駆け上がってゆく。
「ごめ……クロ、もう少しゆっくり」
平面や下り坂ならともかく、手摺りのない螺旋階段を延々とのぼるのはきつい。
そんな私を気遣ってか、クロがぴたりと立ち止まる。
すると上方に、小さな光りがちらりとよぎった。
薄暗い階段で煌々と耀く、二つの黄緑色の光。懐中電灯を向けると、チカッと鏡のように光が反射する。それは一匹の獣だった。虎や豹に似た、しかし虎や豹にしては少し小柄な獣が、階段の上にちょこんと座っている。
危うく腰を抜かしそうになり、すんでのところで踏みとどまった。
「とっ、虎⁉」
「いいえ、僕は山猫です。大山猫のリンクスと申します」
少年のようなハスキーな声が、洞窟のように石造りの階段に反響する。
目の前の獣の口から、確かに声が聞こえた。鳴き声ではなく、喋り声が。
仰天する私を、リンクスと名乗った虎猫が、どこか感情の読めない瞳でじっと見下ろす。薄暗がりの中で、ガラス玉のような瞳が青白く光っていた。
「黄昏堂のお使いの方ですね。女王がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
虎模様の毛並みに、クロよりも一回り大きな体躯をしている。
虎猫は私とクロに背を向けると、まるで人間のように二本の後ろ足で立ち上がった。
クロは迷う素振りもなく、虎猫の後に続いて再び階段をのぼり出す。この虎猫の言うことを素直に聞いていいものか迷ったが、一人で悩んでいても仕方がない。棒のような足を引きずり、二匹の猫の後に続いた。
先ほどスフィンクスは「赤い猫」に気をつけろと教えてくれた。
目の前の猫は虎柄で、赤い猫には見えないし大丈夫だろう……大丈夫だと信じたい。
しばらく階段をあがっていくと、ようやく行き止まりに辿り着く。大きく重厚な扉の手前で、虎猫がぴたりと立ち止まった。
「女王陛下。御客人をお連れ致しました」
目の前の虎猫が人間の言葉を普通に話していることに遅れて気付き、愕然とする。
この楼閣にきてから、私はこの虎猫と門番という二匹に会ったが、二匹とも当然のように日本語で会話していた。感覚が早くも麻痺しているのか、それとも無意識のうちに新しい環境に適応しているのか。
「お入りなさい」
凛と透き通った声が返ってくる。まるで木琴のようによく透る、穏やかな中低音の声だった。思わず背筋が伸びる。
「失礼いたします」
虎猫が扉を開くと、中は視界を遮るように青々と背の高い、葦のような草が生い茂っていた。半円型の天窓から差し込む半月の光が、部屋をやわらかく照らし出す。
猫草の絨毯の上を、猫たちの後について進む。少し歩けば、一番奥に真っ白な天蓋に覆われた一角に突き当たった。天蓋の少し手前で、クロと虎猫が立ち止まる。
「女王陛下、黄昏堂の使いの者が参りました」
天蓋から垂れ下がる黒く紗がかかったカーテンが、内側からサッと開いた。
予期せず目を奪われる。天幕の内側から現れたのは、一匹の猫だった。
青白い月灯りに照らされた体は、宵の口の空のように深い蒼色をしていた。
普通の猫と同じくらいの大きさの体躯は太すぎず細すぎず、優美な曲線を描いており、その毛並みは一部の乱れもなくベロアのように艶やかだ。
吸い込まれるようなライトブルーの瞳と、両耳につけられた小さな金のピアスが、薄暗い部屋の中でひときわ美しい光をはなつ。
「御苦労でした、リンクス。お客様がたも、どうかこちらへ」
虎猫が近付き、恭しく頭を垂れた。大きな青の瞳が、じっと私を見つめる。
吸い込まれるような神秘的な瞳に、圧倒されてしまう。
単なる容姿の美しさだけではない。神秘的な雰囲気と、相手に佇まいを正させるような気品を、目の前の青い猫は兼ね備えていた。
天蓋の中はお香が焚かれているのか、花の密ような甘い香りが漂ってくる。
「ようこそ、我らが楼閣へ。遠路はるばる、ご足労感謝いたします。私はこの館の夜を治める主、名をバステトと申します」
思わず女王を見た。「バステト」といえば、奇書館に飾られている女神像と同じ名だ。
「ええと、黄昏堂館長の名代で参りました。相良と申します」
慌てて自分も名乗る。女王は私とクロを交互に見ると、何かを考えるように軽く目を伏せた。
「そう固くなられませんよう。ごゆるりとおくつろぎ頂きたいところですが、生憎、時間が押しているようです。人間の殿方が、ここに迷い込んでしまわれたとか」
「そうなんです。私たち、その人を連れ戻しに来たんです!」
少し性急な気もしたが、思い切って本題を切り出した。
「黄昏堂の来館者なんです。理由はわからないけれど、突然いなくなってしまって」
焦ってまくし立てる私に、女王は静かに凪いだ目を向けた。
「なるほど、しかし私とてこの楼閣の主。何故その人間がここに迷い込んだのか。その因果を突き止め、その者が解放するに相応しいかどうか、この目で見定める必要があります」
「じゃあ……」
「これからその人間に会いにゆきます。リンクス」
「はっ」虎猫が恭しく頭を垂れる。顔を上げ、宙に視線をさまよわせたかと思うと、緑黄色の瞳が蛍のようにぼうっと光った。
「陛下。どうやら若い人間の雄が一匹、地下牢に入れられておるようです」
女王の耳がぴくりと揺れる。
「牢に? 鼠が紛れ込んだと報告がありましたが、人間を捕らえたとは聞いておりません。今日の不寝番は……確か赫猫でしたね」
心なしか、ライトブルーの瞳が鋭く吊り上がったように見えた。
それに今、女王は「あかねこ」と口走った。スフィンクスから忠告された「赤い猫」のことだろうか。女王たちの言葉にいちいち不安が募ってゆく。
「急ぎましょう。お二方も、どうぞこちらへ」
しなやかな青の体躯がすっと立ちあがった。今までの優雅な動作から一変、女王は機敏な身のこなしで天蓋の中へ駆け込んでゆく。どうやら向こうにとっても、想定していた以上に非常事態だったらしい。入り口が内側からさっと開く。
すぐそばで控えていた白い猫が、すかさず天幕を押さえた。
この猫も虎猫のように、女王に仕えているのだろうか。真っ白な毛並みに焦げ茶の瞳、首に巻かれた赤いリボン。真ん丸な顔とピンク色の鼻が可愛らしい。
天蓋の中は寝室だった。皺ひとつない純白のシーツに覆われた丸い寝台は、明らかに私の部屋のソファベッドより大きい。虎猫が寝室の奥にある扉を開くと、そこには四方の壁がガラス張りになった小部屋があった。家具も何も置かれておらず、寝室に比べると、まるで小さな物置のように狭く、殺風景だ。
その中に女王と虎猫が足を踏み入れる。私も後に続いた。しかし、クロだけがなかなか部屋に入ろうとしない。立ち止まり、天蓋の入り口をじっと見つめている。
「クロ、行くよ?」
手招きするも、いっこうに動こうとしなかった。私たちに背を向けたまま、にゃお、と低い声で短く鳴く。そういえばクロは人間の言葉を喋らない。
ホッとするような、少しだけなら会話してみたかったような。
「良いでしょう。お前もおいで」
女王が手招きすると、天幕のそばで控えていた白猫が駆け込んでくる。
首元の鈴が、りん、と澄んだ音をたてた。クロの首輪につけた丸い鈴とはまた違う、カウベルのような平べったい形をしていた。
「よろしいですか? それでは、扉をお閉めします」
クロが後に続いて入ってくると、虎猫が扉に手をかける。
「へ? は、はい」
奇妙なことに、猫たちはこの狭い部屋から動こうとしなかった。ここから一体、どう檻房へ向かうのだろう。
首を傾げていると、がくん、と足元が揺れた。
「わっ⁉」
「では檻房へ――――地下最下層まで参ります」




