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第五話 迷宮の廻廊

「だからこの廻廊を歩けば、向こう側の世界にたどり着く」

 怖じ気づき、無意識のうちに一歩後退る。

 そんな私の横をすり抜け、クロが空汽さんの足元に歩み寄った。

空汽さんはクロを抱き上げ、私が脇に抱えていた『廻廊録』を顎で示す。

「彼が載っているページをよく見るといい。視線の先に、猫の目が光っているだろう」

 あわてて最後のページを開く。

 須藤さんの目線を注意深くたどると、確かにその先に暗闇で光る小さな丸が二つと、闇にまぎれて猫とおぼしきシルエットが描かれている。

 先ほど見た時は、印刷のかすれだと思って見落としていたものだ。

「どうやらあの青年は(そう)猫楼(びょうろう)に誘い込まれたらしい」

「そうびょうろう、というのは?」

 空汽さんは目の前に広がる暗闇を指差した。

「俗に化け猫と呼ばれる類の、魔力を持つ猫たちの世界だ」

「化け猫⁉」

「蒼い猫の楼閣、という字を書く。ここから徒歩で三十分ほど。運が良ければ辿りつくと言いたいところだが、君が一人で行けば間違いなく道に迷うだろう」

「……ん?」

 館長の物言いに不穏なものを感じた。まるで私が「そうびょうろう」という場所に行くことが前提になっているような――――?

「だからクロに案内してもらうといい。彼が迷い込んだのは人間にとっては帰らずの迷宮だが、猫にとっては第二の故郷だともいえる場所だからね」

「待ってください、まさか私が行くんですか⁉」

「当然だ。新しい仕事を覚えてもらうと言っただろう」

 そう言って、脇に抱えていたクロを床に下ろす。

「別に私は、彼が戻ろうと戻らなかろうとどちらでも構わない。ただの人間にとってこの廻廊の奥は帰らずの迷宮だ。迷い込めば大抵、野垂れ死ぬか発狂する」

 突き放すような声に、冷水を浴びせられたように体が冷え込んだ。

「彼が勝手に立ち入り禁止の場所に足を踏み入れ、廻廊に迷い込んだのに、私には助ける義務も義理もない。君が助けに行くというなら、止めないというだけだよ」

「そんな。勝手にって……」

 分厚い眼鏡の奥の目は、今までになく冷ややかだった。

 きっと空汽さんは本気で、須藤さんがどうなっても自分には関係ないと思っている。

 確かに立ち入り禁止の地下に入ったのは、須藤さんの落ち度かもしれない。

 それでも彼が無事に戻らなければ、周囲の人たちがどれほど胸を痛めるか。家族が、友人が欠けるということが、周囲にどれほどの衝撃と不幸をもたらすか。

何故「関係ない」などと、平然と言えるのだろう。

「人が一人いなくなるということが、どういうことかわかってるんですか?」

「知っているよ」

「いいえ、わかってません」吐き捨てた私に、空汽さんは何も答えなかった。

 目や鼻の奥がちりちりと熱をもつ。見損ないましたと、口までせりあがった言葉を半ば無理やり喉の奥に押し込んだ。

「行きます。空汽さんが行かないなら、私が須藤さんを連れ戻しますから」

「では出張手当を弾もうか。くれぐれもクロとはぐれないようにね」

 怒りが半分、やけくそも半分に廻廊へ再び足を踏み入れる。

 その瞬間、全身が総毛立った。黴臭く生ぬるい空気が、体中にまとわりついてくる。

 底の見えない闇の中で、一メートル先すら満足に照らせない懐中電灯はあまりに心もとなかった。

「これだけは覚えておくといい。この廻廊で何を見ても、何に遭っても、決して恐怖に囚われてはいけない」


 ――――いいですか。決して心を、恐怖と憎しみに囚われてはいけませんよ。


「……え?」

 わずかに低められた空汽さんの言葉と同時に、脳裏で空汽さんの声ではない、高く澄んだ声が甦る。目の前がかすかにくらんだ。

 以前も誰かに、私は似たようなことを言われた記憶がある。

「恐怖、私欲、憎悪、悲嘆、動揺……平常心を失った人間に、魔は容易くつけこんでくる。せいぜい気をつけてくれたまえ」

 話の続きに、ハッと我に返る。

「その蒼猫楼というのは、どんな所なんですか?」

「とある姉妹が治める猫たちの世界でね。姉はコロッセウムのような円形闘技場を、妹は古代のパルテノン神殿のような白亜の宮殿を望んだが、猫に石造りの建物は不向きだと、金華猫たちが木造の楼閣を建てた。猫草に囲まれた赤い楼閣だ。クロについてゆけばわかる」

「猫草……」この非常事態に、一体なんの冗談だろう。

 猫草に囲まれた「猫たちの世界」。それだけ聞くとなんだか微笑ましく、メルヘンチックな場所のような気もする。けれど目の前の偏屈な館長に、メルヘンやファンタジーを愛好する趣味があるとは思えない。

「閉館時刻は無理だろうが、日付が変わるまでには帰ってきたまえ。誰かに話しかけられたら、黄昏堂館長の名代だと名乗るといい」

「わかりました。いってき――――」

 背後から聞こえる声が遠くなったような気がして振り返ると、入り口を閉じられたのか、そこにはただ真っ黒な闇が広がっていた。

 つい今しがたまで、私のすぐ背後にいたはずの館長の姿が忽然と消えている。

 彼だけではない。地下書庫に通じる扉はおろか、壁や天井すらどこにも見当たらなかった。そんなわけがないと、焦って手を振りかざしても空を切るばかりで、何の感触もつかめない。

 早まっただろうか。呆然と立ち尽くす私を、クロがついと顔を上げて見る。

 不可視の暗闇の中で、金色の瞳が煌々と光っていた。小さな光だが、不思議と懐中電灯より心強く感じる。それに――――ここがどこかわからなくとも、戻ってこられる保証なんてなくても、きっと十二年前よりはマシだ。

大きく息を吐き、顔を上げた。ぐずぐずしていても仕方がない。

「行くしかないか。クロ、須藤さんのところまで連れて行ってくれる?」

 声をかけると、クロは私にくるりと背を向けて歩き始めた。小さな背中をあわてて追いかける。

 おっかなびっくり歩き出したものの、自分たちがどこを向かって進んでいるのかわからなかった。相変わらず真っ黒な闇に周囲を囲まれ、懐中電を周囲にかざしても何も見えない。それでも歩き続ければ、少しずつ暗闇に目が慣れてくる。真っ黒な体をしているにもかかわらず、クロの姿だけはなんとか視認できるようになってきた。

 そうして十分ほど経つ頃、前方からぽつりと青白い光と、人影らしきシルエットが見えた。それらは上下に小さく揺れながら、徐々にこちらに近づいてくる。

 それらに気を取られていると、足先で何を蹴り飛ばす感触がした。

 足元を懐中電灯で照らせば、そこに転がっていたのはA5ほどのサイズの本だった。

「……本? 誰のだろ、これ」

 灰色の表紙は無地で。タイトルはおろか著者名も分からない。

少し迷ってから、それを拾った。顔を上げれば、人影はすぐ近くまで迫っていた。『廻廊録』に描かれていた怪物の姿を思い出し、体が竦んでしまう。

「おや、人間の気配がすると思えば」

 しわがれた声でそう言って、人影は四角いランタンを私に向かってかかげた。闇に慣れた目に青白い光がまぶしく、思わず目の前を手で覆う。軽い会釈だけでやり過ごそうとするも、相手は私の行く手を遮るように目の前に立ちはだかった。

「お嬢さんや、そんなに急いでどこへ行くのかえ?」

 そう尋ねられ、指の隙間からこっそり相手を盗み見た。

 恰幅が良くのっぺりとした顔の、見知らぬおじさんだ。顔から胴体と見分けのつかない首にかけて、ぶつぶつと大きなイボがたくさん盛り上がっていた。ずんぐりと太い体型の割に、妙に手足がひょろりと長い。

 海老茶のスーツに、同色のハンチング帽をかぶっている。スーツも帽子も少しクラッシックな感じのするデザインだ。とりあえず相手が怪物でなく、身なりのきちんとした人間であることに胸をなで下ろした。

「蒼猫楼というところへ。黄昏堂の館長の、名代で来ました」

 相手を窺いつつ答えると、お爺さんはにわかに顔色を変えた。

「黄昏堂? まさか、あの若き魔術師(ウィザード)の……」

「あの、今なんて?」うまく聞き取れずに尋ねると、おじさんは「おや?」と私を見る。恰幅がよい体格や、のっぺりとした顔からは年齢が窺えない。中年のおじさんにも、初老のお爺さんにも見える。

「まさか何も知らぬのか? お前さんが仕える黄昏堂という館には、それはそれは世にも恐ろしい悪魔が憑いておる」

「あ、悪魔……?」「ごらん、これを」

お爺さんはおもむろに上着のボタンを外し、首元をはだける。イボだらけの浅黒い皮膚に、星の形をした焼印のような赤紫の痣がくっきりと盛り上がっていた。

「この五芒星は(わし)があの館で、悪魔に刻まれた焼印じゃ。蔵書を盗もうとした罰でな。十年の月日を経た今でも消えることはない」

 ざっと音をたてて、自分の顔から血の気が引くのを感じた。蔵書の窃盗は犯罪だから困るけど、それを理由に来館者に焼き印を捺すなんて尋常ではない。

「悪魔の機嫌を損ねた日には、お嬢さんも焼印を捺されてしまうことだろう。おお、これは綺麗な肌をしておる。さぞ焼印が映えるじゃろうて」

 のっぺりとしたえびす顔が、にんまりと笑みを浮かべる。

 衝撃で鈍った思考回路の片隅で、その笑顔に違和感がよぎった。

「怯えずともよい、儂が蒼猫楼まで連れて行ってやろう」

 低くひび割れた声で言って、私に向かって手を伸ばす。

 一瞬、足が竦んで反応が遅れた。大きな手が目の前に迫る。

 伸びてくる手をなすがまま眺めていると、視界の端に黒い影が横切る。

「ぐあっ⁉」クロがお爺さんに飛びかかったのだと、一拍遅れて気付く。

 右の太腿を爪で引っかかれ、服が音を立てて裂けた。お爺さんはあわててクロを振り払おうとしてバランスを崩し、丸々と太った体が後ろにつんのめった。彼の手からすっぽ抜けたランタンが放物線を描き、固い音を立てて地面に転がる。

「……ぐげええぇっ‼」

 けたたましい悲鳴が空気を震わせる。仰向けにひっくり返った恰幅のよい体から、クロは素早く飛び退いた。

「す、すみません!」とっさに謝罪した声がひっくり返る。しかし私やお爺さんなどお構いなしに、クロは脱兎のごとく駆け出してしまった。

「クロ⁉ 待って、勝手に行かないで!」

 呼び止めるも、止まってくれる気配はない。パニックになったのも一瞬、ここでクロとはぐれるのは怖いと気付く。

 ごめんなさい、と心の中で再度お爺さんに謝罪し、踵を返す。クロを追って一歩踏み出した瞬間、なんとなく後ろ髪を引かれて後ろを振り返る。

 しかし、そこに先ほどのお爺さんの姿は見当たらなかった。かわりにランタンのそばで倒れていたのはウシガエルのような、巨大な茶色い蛙だ。

いぼだらけの首元には、見覚えのある星型の痣がひとつ。

「う、うそっ⁉」

 ランタンのそばでひっくり返った蛙に、お爺さんのえびす顔が重なった。突拍子もない思いつきに、まさかと首を振る。あのお爺さんはどう見ても人間だった。

 けれどあの蛙はまるで、お爺さんと入れ替わるように現れた。

 もしかすると私は、とんでもない場所に来てしまったのではないか。無鉄砲に須藤さんを捜しに来たことを盛大に後悔するも、今更遅いに違いなかった。



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