第四話 消えた来館者
「……帰っちゃったってことですか?」
「違う」噛み合わない会話をすり合わせようとするも、即座に否定されてしまう。
「じゃあ須藤さん、どこにいるんですか」
少しムッとしつつ尋ねると、空汽さんは辞書のように分厚い本を私に突きつけた。
「おそらく、廻廊にいる」
訝しみながらも本を受け取る。なめらかな紺色の革で装丁された表紙には、くすんだ銀の箔押しで「廻廊録」とタイトルらしき文字が打たれていた。
「これは黄昏堂、正確に言えばこの館に通じる〈廻廊〉の記録だ。防犯カメラ代わりにと、この館の裏口に設置したものでね。廻廊を通る者の姿が記録されている」
言っている意味がよくわからないが、どうやらこの分厚い本は辞書ではないらしい。
表紙をめくる。中のページに文字はほとんど書かれていなかった。ただひたすら、白黒の絵がページいっぱいに載っている。
ひどく精緻なタッチで描かれた絵たちは、まるで白黒写真のようにリアルだった。
暗い道を、人や動物、あるいはそのどちらでもない化け物じみた姿のものたちが進んでゆく。そんな白黒の絵が何ページにもわたって延々と続く。
あるページでは周囲を見回しながら真っ暗な道を歩く、くたびれたスーツを着た中年の男性が。次のページには、百鬼夜行のような異形の化け物の群れが跋扈し、暗闇の中をとある一点を目指して行進している。
いずれもページの右上には日付とおぼしき数字が走り書きされている。
「何ですか、これ。画集?」
更にページをめくると、人間なのかそうでないのか、背中にトンボのような羽が生えた美女が描かれていた。凛と前を向いて、灯りのない道を歩いている。
ある者は蝋燭やランタンの灯りを持って、またある者は真っ暗な闇の中を手探りで。皆一様に、黒一色の闇に包まれた光のない空間を背景に、どこかへ向かっている。
「画集ではない、来館者記録だと言っただろう。最後のページを見るといい」
最後のページとは、奥付のことだろうか。
一度本を閉じ、裏表紙をめくるも奥付はない。更に一枚ページをめくると、今までの白黒のページから一転、今度は色がついた絵が現れる。
「ん?」
そこに描かれていたのは、若い男の人の姿だった。須藤さんによく似ている――というか顔や体格だけでなく服装まで、まる本人を撮影したようにそっくりだ。
ページの上部には今日の日付が載っている。
「この人、なんだか須藤さんに……」
「そう、件の不眠症の青年だ」
突飛な言葉に、なんと返せばいいのかわからず館長を窺う。
「…………どうしてこの本、須藤さんとそっくりな人が描かれているんですか?」
「何度もいうが、この本は来館者の記録だよ。彼はこの黄昏堂の裏口を通ったから、ここに記録された」
古書特有のにおいがかすかに漂ってくる。中の紙は少し黄ばんで、表面がざらついている。紺色の表紙も、よく見るとくすんだ色をしていた。
「裏口って、裏手の関係者用の出入り口のことですか?」
「それは君や私が使う、単なる関係者用の出入り口のことだろう。彼が通った裏口は、地下にある。人外……向こう側の世界からの来館者専用の通路だ」
「じんがい……?」
言われたことをうまく呑み込めず、空汽さんの言葉を鸚鵡返しに呟く。
空汽さんはパラパラとページをめくった。
「人以外と書いて人外と読む。こういう者たちのことだ」
そう指差された先には、一つ目の巨人――まるでギリシャ神話のキュクロプスのような、異様な姿をしたものが描かれていた。人間に近い巨躯だが、頭部にあるのは巨大な一つの目玉のみ。そのあまりに異形な姿はゴヤの絵画『我が子を食らうサトゥルヌス』を彷彿とさせた。
「空汽さん、もしかして私をからかっているんですか?」
「冗談でも妄想でもない、単なる事実だよ。私の言葉を疑うも、つまらない冗談や迷妄だと切り捨てるも、君の自由だ。この来館者は黄昏堂に本を返しにきて、また借りて、この世界とは別の世界へ帰って行った。その際に裏口を通ったから、こうして記録されている。ただそれだけだ」
物分かりの悪い子供を諭すような口調と、語られる内容の乖離に混乱する。冗談を言っているようには見えないが、館長の話はひどく現実離れしていた。
「えっと……とりあえずもう一度、医務室を見てきます」
話に乗るべきか否か判断できず、おそるおそる申し出る。
「そうだね、君が納得出来るまで捜せばいい。トイレも物置も、地下書庫も。今この館にいるのは私と君、そしてクロだけだ。ああ、地下に入るには鍵が必要だったね」
断定的な口調で言ってポケットから鍵を取り出し、作業机の上にのせる。
「マスターキーだ。使いたまえよ。心配なら彼の自宅にも連絡して、彼がちゃんと帰宅したか聞いてみるといい。いないだろうがね」
「…………」
再び本を読み始めた空汽さんに何も言い返すことができず、私はその鍵を片手に医務室へ駆け込んだ。
やはりベッドに人影はない。ソファの上のジャケットやリュックもそのままだ。
半開きのままのリュックがやけに目につく。傍目にも中には財布やタブレットなど、貴重品が残っているのが見えた。
彼以外に来館者はいないとはいえ、さすがに不用心すぎる。
リュックがバランスを崩し、ソファからずるりと床に転がり落ちた。散らばった荷物をあわてて拾う。落下のはずみか、タブレットの画面がオンになってしまう。十インチほどの液晶画面に、煌々と画像が浮かび上がった。
私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。
文庫本のようなレイアウトの、縦書きのテキスト。それは電子書籍の一ページで、エドガー・アラン・ポーの『黒猫』だった。
貴重品を残したまま、長時間の不在。にわかにこみあげた嫌な予感を打ち消すように、私はトイレの個室や書庫、さらに物置を見て回る。
「須藤さん、聞こえたら返事してください」
だだっ広い書庫や、廊下の隅にまで聞こえるよう、半ばやけになって大声で叫ぶ。
図書館司書にあるまじき行為だが、この際気にもしていられなかった。
「須藤さーん!」
しかしいくら声を張り上げても、一向に返事は返ってこない。
膨大な量の本や、防音仕様の分厚い壁が、叫び声を吸い込んで静けさが戻ってくる。まさかと思い地下へ降りる階段の扉のドアノブをひねるが、鍵がかかっていた。
普段、地下に通じる通路は施錠されている。来館者はもちろん、館長以外の出入りは固く禁じられているからだ。貸出も閲覧も、来館者が利用できるのは一階の開架書庫の万抄院文庫のみ。地下に収蔵されている本は、全て「禁帯出」……持ち出し禁止になっている。司書の私でさえ、一度も立ち入ったことはない。
納得出来るまで捜せばいいと言った空汽さんの声が、鼓膜の内側でよみがえる。
鍵がかかっているのに、須藤さんが地下に入れるはずがない。
やけに息が切れ、心臓がばくばくと嫌な音をたてる。まさかほんの一時間ほど目を離しただけで、来館者が行方不明になってしまったというのか。
認めたくない半面、不吉な予想がどんどん膨らんでゆく。
空汽さんから受け取ったマスターキーを、ポケットから取り出した。鍵を差し込むと、内部の歯車がカチャリと回る感覚が伝わってくる。分厚い扉を開けば、奥に広がっていたのは薄暗い螺旋階段と、それらを照らす無数のオレンジ色の灯火だった。
五十センチほどの等間隔で壁からつり下がる、ランタンのようなガラス張りの燭台。円柱形のスモークガラスの中には白い蝋燭が立てられ、先端に小さな炎が揺れていた。まるで中世ヨーロッパの城に迷い込んだかのような、異様な光景に言葉を失う。
しかし絶句している暇はなかった。
足元に気をつけながら薄暗い階段を駆け下りると、ほどなくして扉に突き当たる。
マスターキーを差し込めば、鍵はあっさり開いた。ドアノブを押せば内側から引っぱられるように、分厚い扉が軋んだ音をたててひとりでに開く。
古書とほこりの、甘い独特のにおいが充満していた。
四方の壁を囲んで天井ま埋めで尽くす、アンティーク調の書架。
年季の入った飴色の書架がそびえる壮観な眺めに、一瞬置かれた状況も忘れて目を奪われてしまった。
一見、普通の書庫に見える。
陳列された書物が全て、鎖で棚につながれていることを除けば――――
「これって……」
鎖付き(チェインド)図書。中世ヨーロッパで用いられた保管方法で、文字通り「本を鎖につなぐ」ことで亡失や盗難を防ぐものだ。
初めて見た閉架書庫は思いのほか壮観で、少しの間、状況を忘れて見入ってしまう。
まさかこのご時世に、しかも日本で「チェインドライブラリー」を採用する図書館があるとは思いもしなかった。いくら地下の蔵書が持ち出し禁止だからといって、ここまで厳重に保管するなんて。
ずらりと並ぶ背の高い棚は黒く、一階の開架より天井が低い。そして地下という場所柄か、妙に閉塞感と圧迫感があった。
じりじりと押し迫ってくるような書架の群れに、ごくりと唾を飲む。
不意に視線を感じ、後ろを振り返った。しかしそこに人の姿はなく、一枚の大きなキャンバスが壁に飾られている。
それは写真と見違えそうなほど、精密な筆致で描かれた人物画だった。
私の身丈くらいありそうな大きなキャンバスの中で、美しい女性が微笑んでいる。
中世ヨーロッパの貴婦人を描いたのだろうか。
艶やかな栗色の巻き毛に、クラッシックなデザインの黒いドレスをまとっている。宝石のように鮮やかな緑色の瞳はじっと見ていると吸い込まれてしまいそうで、ぞくっと肌が粟立つ。言葉に尽くせないほどの、鮮やかで常人離れした美貌。
しかし大きなキャンバスに描かれた美女に、どこか既視感めいたものを感じた。この女性を以前、どこかで見たような気がする。外国の女優さんだろうか。
これほど美しい人なら、一度見たら忘れないような気もするけれど――――
ぎい、と扉が軋んで閉じる音で我に返った。
あわてて書棚の端から端まで、消えた来館者を捜索する。しかし奥の物置まで扉を開けて捜しても、誰一人出てこない。地下二・三階も同様に無人だった。
「嘘でしょ? こんなことって……」
壁時計の針は六時半を指している。あと三十分で閉館だ。
途方に暮れ、標本や巻子本が収納されたガラス棚を背に立ち尽くす。
警察に連絡すべきだろうか。彼を黄昏堂を紹介してくれたシスター・マチルダや、彼のご家族に何と言えばいいのだろう。
「だから、館の中にあの青年はいないよ」
背後から平淡な声が響く。振り返ると、クロを抱えた空汽さんがいつの間にか入り口の前に立っていた。
「じゃあ、一体どこに」
「さっきも言っただろう。彼は廻廊に出たと」
すげなく言い放ち、先ほどの『廻廊録』をすっと私に差し出す。
「そろそろ新しい仕事を覚えてもらおうと思っていたところだ。……ちょうどいい頃合いかもしれない」
ほぼ反射でそれを受け取ると、空汽さんは踵を返した。
「あの青年を連れ戻したいなら、ついてきたまえ」
そう言って、部屋の奥へと歩き出してしまう。何がなんだかさっぱりわからないまま、後を追った。
ずらりと壁に設置された書架の前で、空汽さんはぴたりと立ち止まる。
「――――開門せよ、永劫廻廊」
壁の方を向いたまま、低い声で言い放つ。一拍の後、目の前の本棚がぎしぎしと音をたてて動き始めた。
「な、なに……?」
可動式の本棚には見えない。なのに目の前の本棚はまるで自動ドアのように、ゆっくりと右にスライドしていった。重いものを絨毯に引きずる音と、本を棚につなぐ鎖がぶつかりあって立てる金属音が書庫に響き渡る。
扉ひとつ分ほどのスペースが空くと、本棚はぴたりと動きを止めた。
「これは向こう側の世界へ通じる道だ。向こう側の住民たちは〝永劫廻廊〟と呼ぶ」
ほんの数秒前まで本棚と壁があったはずの場所には、まるで切り取られたように真っ暗な空間が広がっていた。
かすかに黴臭く生ぬるい風が、ふっと頬をなでる。
常識的に考えれば物置が空き部屋だろうが、それにしてはあまりに広く暗い。
唖然とする私を尻目に、空汽さんは非常用の懐中電灯のスイッチを入れ、壁の向こう側に足を踏み入れる。
しかし頼りない光は足元を照らす程度で、ほとんど役に立たなかった。
「見ての通り、この廻廊ではこういった照明機器は使い物にならない。せいぜい足元から数十センチ先を照らす程度だ」
そう言って、懐中電灯のスイッチをあっさりと切ってしまう。
喪服のような黒のスーツが保護色のようだ。
病的に青白い顔だけが、黒一色の背景のなかでほの白く浮かび上がっている。
不意に、目の前の男性が真っ暗な空間に溶けてしまいそうな気がした。気付けば自分も壁の「向こう側」に片足を踏み入れ、スーツに包まれた腕を掴んでいた。
「あ……す、すみません」
「心配せずとも消えたりしない。暗いから先を見通せないだけだ」
強烈な違和感と悪寒が、一泊遅れて背筋を駆け上がる。慌てて手を放すと、空汽さんは地下書庫に戻ってきた。
ぽっかりと口を明けた書架の一部には月も星もない真夜中のように、ただただ真っ黒な闇が広がっている。どれだけ目を凝らしても、床も天井も見えなかった。
片足だけ踏み込んだ瞬間、まるで本棚の向こう側に入った分だけ、体が世界から「切り離されている」ような、奇妙な感覚に見舞われた。
圧倒的な浮遊感と、頼りなさに飲み込まれてしまうような。強いてたとえるなら、水中に潜っている時の感覚というのが一番近い。
「ここは何ですか? ……地下だから、こんなに暗いんですか?」
違うだろうなと思いながらも尋ねると、案の定、空汽さんは即座に「違う」と否定した。懐中電灯を私に渡し、革靴の踵でコツコツと床を叩く。
「単なる地下でも倉庫でもない。廻廊だと言ったはずだ。そして、この廻廊には様々な呼称がある。常世、冥界、鬼門、霊道、隠世、黄泉、魔道……中には異世界や異次元、あの世だという者もいた」
必死に目を凝らすが、やはり真っ暗な闇以外何も見えない。
足下はおろか、行き止まりや壁が見えないのだ。
最後のページに描かれた須藤さんと、黒く塗りつぶされた背景が脳裏に浮かぶ。
目の前に広がる暗闇への、奇妙な既視感。懐中電灯を向けても、頼りない人工の光はたやすく闇に飲み込まれてしまう。
「この廻廊は一種の境界線だ。廻廊の奥には私たちが普段暮らすこの世界と隣り合い、境界によって区分され、時に干渉し合う世界がある」
深淵を覗くものはまた、深淵にも等しく覗きこまれていると言ったのはニーチェだっただろうか。本棚の奥に広がっていたのはどんな光も塗りつぶしてしまうような、まるで深海のような漆黒の闇だった。
「だからこの廻廊を歩けば、向こう側の世界にたどり着く」
怖じ気づき、無意識のうちに一歩後退る。
そんな私の横をすり抜け、クロが空汽さんの足元に歩み寄った。




