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第二話 シスターの相談

「ちょっと相談したい本があるのだけど、よろしいかしら?」


 質問を持ちかけられ、すかさず気を引き締める。利用者の方が求める本を、いかに正確に提供できるか。それは図書館司書の腕の見せ所だ。

「ぜひ! どんな本でしょうか」

「おかしなことを聞いてしまうのだけど。眠くなるというのかしら……読むと眠れるような本って、お二人はご存知ないかしら?」

 しかし思いもよらなかった質問に、少し面食らってしまう。

「眠くなる本、ですか?」

 不眠症にでも悩んでいるのだろうか。少し憂いを帯びた優しげな顔はいつもと変わらないように見えるし、空汽さんのように病的に青い顔をしているわけでもない。

 空汽さんも怪訝そうに口を挟む。

 露骨に面倒そうな顔をしつつも、来客用の椅子をカウンターの前に置いた。自身もカウンター内の椅子に腰を下ろすと、行儀悪く足を組む。

「不眠でお困りのようには見受けられませんが……とりあえず、お掛けください」

「ありがとう、館長さん。困っているのは私じゃないの。よく日曜日のミサにいらしてくださる方のお子さんの、大学三年生の男の子で」

 西日に照らされた二人の影が、絨毯の上に細く伸びる。少し抑えた声で、シスターは事情をぽつぽつと語りはじめる。それは彼女の知人の息子さんがここ一ヶ月ほど、深刻な不眠症に苦しんでいるらしいというものだった。

「その息子さんがね、夜眠れないそうなの。睡眠障害というんですって。日中に意識を失うように眠ってしまうことも多くなって」

 家族や友達も心配し、何か悩みでもあるのかと尋ねても、本人が頑なに口を閉ざして何も言わないのだという。

「いつ意識が飛ぶかわからないからって、息子さんはアルバイトをやめて、趣味のバイクにも乗らなくなってしまったの」

「その方、今まで睡眠障害になったことは他にあるんですか?」

 思わず口を挟んでしまった。

 不眠症には私もずいぶん悩まされたから、なんだか他人事(ひとごと)とは思えない。

 しかも他人に悩み事を話せないというあたり、根が深いものを感じてしまう。

 シスターは大きな青色の瞳をついと上に向けた。

「どうかしら。そんなお話、今回初めて聞いたけれども」

 日ごとにやつれていく息子を案じ、両親は病院で精密検査やカウンセリングを受けさせるも、検査結果に異常は見つからない。

 医師からは原因がわからず、おそらく精神的なものだと言われたそうだ。

 が、当の本人に治す意思がないらしい。病院に行くのを嫌がり、もらった薬も頑なに飲もうとしないのだという。

「そこまで深刻な状況なのに、本人が治療を受けようとしない理由は何ですか?」

 空汽さんが表情を変えず、淡々と尋ねる。

「わからないの。どれだけ聞いても、家族にさえ何も話そうとしないらしくて」

 理由がわからず、本人が治療しようとしないなら、手の打ちようがない。でも日常生活に支障が出ているのに、頑なに治療を拒むのはなぜだろう。

「ご家族がすでに読み漁っていらっしゃると思いますが、うちには快眠セラピーや睡眠改善、ストレス解消を謳うようなハウツー本は置いていません」

 少しは気の毒そうな顔をすればいいのに、空汽さんは仏頂面で断言する。

「それは重々承知の上ですよ」

 臙脂色のショールを羽織り直し、シスターは肩をすくめた。

 確かにこの無愛想な館長のいうとおり、この館には一般の人に向けて書かれているような、医療関係のハウツー本はない。

「でも、ほら。ここは奇書館なのでしょう?」

 老婦人の整った顔に、いたずらっぽい笑みがひらめく。

「それはあなたがた来館者が、勝手にそう呼んでいらっしゃるだけです」

「読んだら呪われる本みたいに、読んだら眠ってしまう……みたいないわくつきの本、あるんじゃないかしら」

「カトリック教会の修道女が、そんなオカルトじみたことを口にしていいんですか」

 呆れ顔の空汽さんに、シスターは子供のようにいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「まあ。館長さん、私よりよっぽど信心深くていらっしゃるのね」

 シスターのいう通り、世の中には読むと「精神に異常をきたす」とか「死ぬ」だとか、どこまで本当なのかはっきりしない「読むと何かが起きる」系のいわくつきまとう本はある。

 有名なものが日本三大奇書の一作、読めば精神に異常をきたすと言われる夢野久作の『ドグラ・マグラ』だ。

 他にもゲーテの『若きウェルテルの悩み』も名高い。作品に触発された数多くの若者が、主人公を模倣して自殺するという社会現象を引き起こしている。それは文字通り「ウェルテル効果」と呼ばれ、一部の国や地域でこの作品は発禁処分となった。

 空汽さんを横目でちらりと見る。

 一日に何十冊もの本を軽く読破し、奇書館の膨大な所蔵の内容と位置をほぼ完ぺきに把握する、超人的な頭脳を持った彼なら、何かいい方法を知っているのではないか。

 しかし空汽さんは仏頂面を崩さず、大きく息を吐いた。

「生憎、私は無神論者なので。そして読めば眠くなるような本など、うちにはありません。仮にあったとしても、そんな危険物を貸し出すことはできません」

「まあ、そうでしょうねえ」

 さほど落胆した様子もなく、シスターは肩をすくめた。

 開館中に堂々と居眠りする空汽さんのような人もいれば、シスターのお友達の息子さんのように不眠症で苦しむ人もいる。世の中、うまくいかないものだ。

「ご期待に添えず、申し訳ありませんが……」

 館長が椅子から腰を浮かせると、シスターは枯れ枝のような手をぱちんと打つ。

「そうだわ!」

 カウンター越しに、空汽さんの鼻先へずいっと顔を近づける。

 空汽さんは無表情のまま、詰められた距離と同じ分、上体をそらしてのけぞった。

「ここに連れて来てもいいかしら?」

「……その不眠症の大学生を、ですか?」

「ええ」

 青白い顔に、露骨に面倒そうな表情が浮かぶ。

 空汽さんは最後まで渋い顔をしていたが、結局、その大学生の男の子が二日後に黄昏堂に来るという結論に落ち着いた。

 この不思議な私立図書館を見物するだけでも、少しは気が晴れるかもしれない。

 シスターはそう判断したらしい。

 嫌そうな顔をする割に、不思議と空汽さんは声高に反対もしなかった。 

 諸手を上げて賛成したわけでもなかったが、曰く「蔵書に縁があるのなら、私が嫌だと言ってもここに来る」らしい。

「それでは、明後日の三時以降に来てもらってください。相良君が案内します」

 当然のように案内役を一任され、少し面食らう。まさか新規の来館者がいる日に居眠りしたりしないと思いたいが、絶対あり得ないと断言できないのが悲しいところだ。

 私が了承すると、話は終わったとばかりに空汽さんは席を立った。

「では私は事務室に戻ります。今日はどうせ他に来館者も来ないだろうし、どうぞごゆっくり」

 素っ気なく言いながら、来館者を残して二階へ戻っていってしまう。

 デリカシーのなさに少し頭を抱えたくなった。どうせ私がシスターに応対している間に昼寝する気なのだろう。

「すみません、いっも無愛想で」

 館長の足音が聞こえなくなってから、こっそり謝罪する。

 シスター・マチルダは「いいえ」と首を小さく横に振った。

「館長さん、もしかして気を利かせてださったのかしら」

「え?」

「……実はもうひとつ、湊ちゃんに相談したいことがあったの」

 シスターは小さく息をつくと、膝の上に置いていたトートバッグから本を取り出す。

 それは黄昏堂の蔵書ではなく、手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さなサイズの「聖書」だった。

 黒い表紙を開き、(しおり)(ひも)がはさまれたページを私に向ける。左側のページの端がよれて、三センチほど破れてしまっていた。

「園の子が破ってしまったのだけど、修理の方法がわからなくて。普通の本ならともかく、こんな薄いページにテープを貼ると、貼ったところが破れやすくなってしまうんじゃないかと思うの」

 シスターのいうとおり、セロテープやメンディングテープで破れた箇所を補修すると、本を痛め、劣化の元になる。

 聖書を受け取ると、背表紙も外れかけていた。

 本文に使われているのは薄葉紙(うすようし)、その中でも「インディア・ペーパー」という、辞書や聖書などページ数がかさむ書物に使われる紙だ。薄く軽い分耐久性が低く、破れやすい。黒い合皮の表紙はわずかに色あせ、ページも全体的に日に焼けてよれていた。長く読み継がれているのだろう。

「本を直す専門のテープもあるらしいけど、どこに売っているのか、どういう種類のものを使えばいいのかわからなくて」

 確かにシスター・マチルダのいうとおり本のページを補修する専門のテープはある。

 だがページの紙が薄く、使用頻度の高い聖書なら――――

「テープより和紙で修理した方がいいと思います」

「和紙で? どういう和紙を使うの?」

 ちらりと壁に掛けられた時計を確認する。シスターが帰ったら休憩をとろうと思っていたから、ちょうどいい。休憩時間中に充分直せるだろう。

「よければ、ここで修理してしましょうか。シスター、お時間はありますか?」

「私は大丈夫ですけど……いいの、湊ちゃん?」

「大丈夫ですよ、そんなに時間はかからないので」

 助かるわ、と顔をほころばせるシスターにつられて、私も自然と心が和む。

 内線で空汽さんに許可をとって、二階の作業室にシスター・マチルダを案内した。

「本の修理をする和紙は色々あって、辞書や文庫本みたいに薄い紙の破れを補修する場合は典具帖紙(てんぐじょうし)という種類のものがおすすめです」

 実際に利用する和紙を取り出し、破れたページに重ねてみせる。

「けっこう薄い紙を使うのねえ。紙というより、なんだか繊細なレースみたい……」

「そうなんです。典具帖紙は世界一薄い和紙と言われていて、そのおかげでページの上に貼っても本文がうまく透けて見えるんですよ」

 本の修理だけでなく、文化財や古文書の修復にも使われる和紙だ。

 ページの後ろにワックスペーパーを敷いて、水で溶いたでんぷん糊を破れた部分にうすく塗る。繊維にそって破った和紙を、その上にそっと貼り付ける。

 水分を含んだ典具帖紙は透き通り、下のページからきれいに文字が浮かび上がった。シスターが小さな歓声をあげる。

「すごいわ湊ちゃん、書籍修復士だったのね」

「いえ。私は少し習った程度で、あまり大層なことは」

 子供のようなに喜んでもらえると、嬉しくも少し照れくさい。

 乾いた脱脂綿で上から押さえ、余分な水分を吸い取る。ワックスペーパーを重ね、和紙を製本用のへらでおさえ、毛羽立った破り口の繊維をページになじませる。

 本を閉じて重石をのせれば、あとは乾くのを待つだけだ。

 私の手元をじっと眺めていたシスターが「あら」と製本用のへらに目を留めた。

「ずいぶん年季が入ったへらねえ。偉いわ、若いのに使い込んでるのね」

 感心したように言われ、重石のレンガをのせようとしていた手を止めてしまった。

「……いえ。これは祖父のものなんです」

「おじいさまの?」

「はい。書籍修復士だったので」

とっさに口をついて出た嘘に、胸の内がちくりとする。

 確かに祖父は書籍修復士だ。本を修復する技術も、大半は祖父から教わったものだ。

だがこのへらは祖父と同じく、修復士だった父の形見だった。

「今日中には完全に乾くと思います。明日、帰りに教会まで届けましょうか?」

「そんな、何から何まで申し訳ないわ。修理のお代は」

「お金なんていいですよ。道具も和紙も、私の私物ですし」

「でも、せめて材料費だけでも」

 あわてるシスター・マチルダに笑って、水溶き糊のついた筆をバケツで洗う。

「大して難しい修理じゃないですし。それに、こういうのはお互い様じゃないですか」

 そう念を押すと、シスターは子供のような顔で口をすぼめる。

「ごめんなさいね、何から何まで」

 色あせた表紙に目を細め、枯れ木のような細く節立った手で、愛おしそうに小さな聖書をなぞる。休憩時間は無くなってしまったけれど、修理して良かったと思える。

 来館者の特別扱いは良くないかもしれないが、優しい人には優しくしたくなるのが人情というものだ。

「次は自分で直してみようかしら。典具帖紙という和紙と、でんぷん糊でしたね」

「本の種類によって、使う和紙や糊の硬さも変わってくるんです。私でよかったらいつでも相談してください」

「奥が深いのねえ。ありがとう湊ちゃん。でも……」

 そこで言葉を区切ると、シスターは少し表情をかげらせた。

「私じゃ不器用だから、きっと湊ちゃんのように綺麗には出来ないかもしれないわ」

 そう呟くシスターの手には、よく見ると無数の古い傷跡があった。

「シスター。本のページをボンドやテープみたいな他の接着剤ではなく、でんぷん糊を使うのは、何故かわかりますか?」

「それは……自然の素材だから、紙に優しいとか?」

「それもありますが、もう一点。失敗してもやり直せるからです」

 私の言葉に、シスターは不思議そうに顔を上げた。

「やり直せるの?」

「霧吹きで水をかけて湿らせれば、でんぷん糊で貼った和紙は簡単にはがせます。修理箇所を乾かせば、最初からやり直せるんです。私も最初は全然うまくできず、父に何度も教えてもらいました。でも回数をこなせば、自然と出来るようになったので」

翳っていた表情が、少しずつ明るさを取り戻してゆく。

「だから失敗しても、うまくいくまでやり直せばいいんです。私でよければ、コツもお教えしますから」

 そう付け加えると、シスターは皺だらけの顔をくしゃりと緩めて笑った。

 シスター・マチルダを玄関まで見送って事務室に戻ると、案の定昼寝をしていた空汽さんが、むくりとソファの上で体を起こした。

「ご苦労だったね。いい加減、休憩をとるといい」

「え? 私、休憩はもう」

「来館者の応対は業務だよ。勝手に休憩時間にカウントされては困る」

 仏頂面でいうと、再びソファに体を埋めて目を閉じてしまう。

 もしかして、気を遣ってくれたのだろうか。

「……ありがとうございます。じゃあ、十五分だけ休憩させてもらいます」

 礼をいうも、館長から返事はなかった。苦笑し、自分のデスクに戻って読みかけの本を開く。

 しばらくすると、ソファから小さな寝息が聞こえ始めた。


 翌日の夕方、無事に直った聖書をシスター・マチルダの教会が経営する児童養護施設に届けた。

「まあ、直したところがほとんどわからないわ。それに背表紙も外れかかっていたはずなのに、もしかして直してくれたの?」

典具帖紙は乾くと透き通る。和紙の繊維にそってヘラでページになじませれば、修理の跡はほぼ目立たないし、本文も読める。

外れかかった背表紙も、おまけにくっつけておいた。

「背表紙はおまけです」

「すごいわねえ、本当に魔法みたい! 本当にありがとう」


――――すごい、お父さん。魔法使いみたい‼


不意に昔を思い出し、目の前がくらりと歪んだ。

「湊ちゃん?」

「あ、いえ……そう言ってもらえると、直した甲斐があります」

シスターはふっと目尻を下げて微笑んだ。

「破いてしまった子が、泣きながら私にこっそりと告白してくれたの。わざとじゃないんだし、古い本だから仕方ないと言っても気に病んでしまって……でも明日には、きっと笑顔を取り戻してくれるわ」

 お礼にと、園の子と一緒に焼いたというココアクッキーを持たせてくれる。

 まん丸に型抜きされた生地に、教会らしく十字の形が描かれており、まだほんのりと温かかった。

「ありがとうございます。おやつにいただきますね」

 破顔したシスター・マチルダが、ふと顔を引き締める。

「湊ちゃん。明日、よろしくね」

「へ?」

 すっかり忘れていた。そういえば明日は、彼女が相談した不眠症の大学生が黄昏堂に来る予定の日だ。

「あ、はい。力になれるかどうかはともかく、うちの図書館を少しでも楽しんでもらえるよう、ご案内しますね」

「ありがとう。なにぶん難しい子かもしれませんが、よろしく頼みますね」

 間の抜けた返事をする私の手をそっと握り、シスターは少し含みのある言葉を残す。

「どうか湊ちゃんに、聖カタリナの守護がありますように」

 そう呟くと、老いた修道女は祈りを捧げるように、私の手の甲にそっと額を寄せた。


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