第十一話 蔵書印のない本
【お知らせ】
明日4月7日、宝島社文庫より『私立図書館・黄昏堂の奇跡』(※本作の改題)が発売です!
紙の本と電子書籍版も同時発売となります。
とても素敵な一冊に仕上げていただきました。是非ともお手にとっていただけますと幸いです。
詳しくは活動報告をご覧ください!!
何卒よろしくお願い申し上げます。
それでは突然の宣伝、失礼致しました。
どうぞ本編をお楽しみください。
第二部「赤朽葉の随想篇」スタートです。
おれの人生の旅路も、今や冬枯れ、黄ばんだ落葉の朽ちて散るときを迎えた。だが、老境を飾るべきものは、名誉も愛も、従順につかえてくれるはずの子や孫も懐かしい友の群も、もはや望むべくもない。それどころか、あるのはただ呪詛の声──大きくはないが、深い呪いの声、それでなければ口先だけの美辞麗句、虚しい追従の声ばかり。
(シェイクスピア『マクベス』)
私がその本を見つけたのは、黄昏堂で曝書が始まって、ひと月ほど経とうとしていた頃だった。
四月も中旬を迎え、日ごと強さを増す陽気に初夏の気配を感じる時期。
町外れの雑木林の奥にぽつりと建つ、地元の人から半ば本気で「幽霊屋敷」と勘違いされている少し場違いな洋館――――こと私立図書館・黄昏堂は、曝書の真っ最中だった。
曝書とは、ざっくり言えば「蔵書点検」である。
行方不明になっている本はないか、並び順は間違っていないか、修理や修復が必要な本はないか。空汽さんや須藤さんと手分けして、館内の蔵書を順に点検してゆく。
実際に点検するのは一階の開架書庫の分だけだが、それでも気が遠くなるような作業だった。
厄介なことに、黄昏堂の蔵書管理に「デジタル」の文字はない。私たちは来る日も来る日も、たった三人で四十万冊に近い蔵書を全て人力で点検する作業に追われていた。
もともと覚悟していた私はまだしも、アルバイトとして入ったばかりの須藤さんはさすがに気の毒だった。最初は活き活きとしていた目が、日を追うごとに暗くなってゆく。
「相良さん。この作業、あと何日くらい続きそうですか」
気まずそうに尋ねる声が低い。
気持ちは分かる。
曝書――蔵書の点検とは、確認作業の果てしない繰り返しだ。慣れていない人、特に須藤さんのように体を動かすことが好きな若い人には辛いことだろう。
「そろそろ折り返し地点だと思いますよ」
元気づけるつもりで言ったが、須藤さんの顔は更に曇った。
「ってことは、まだ半分……」
「進捗はどうかね」
書架の影からぬっと、黒ずくめの館長――空汽さんが顔を出す。
「わっ!?」
驚きのあまり、須藤さんは振り向きざま背後の書架(※本棚)に背中をぶつけた。そのはずみで棚が揺れ、本が何冊かずるりと滑り落ちる。
「大丈夫ですか」
「いてて……すみません」
須藤さんがぶつけた肩をさすりながら、本を拾った。私も一緒に床に散らばった本を集め、須藤さんが拾った分も受け取って棚に戻す。
「ん?」
しかし戻そうとした棚の奥に本が一冊、並べられた蔵書たちの影に隠れるように横向きに、背板にもたれかかっていた。
取り出すと、革や古くなった紙特有の香りの中に、かすかにお香のような甘いにおいが鼻をかすめる。
枯れ葉のようにくすんだ臙脂色の、おそらく牛革製の装丁が施された上製本だ。サイズはA5ほどひとまわり大きく、正方形に近い形をしていた。
タイトルは金箔押しで、やけに古めかしい草書体で『秋霜記』と銘打たれている。ただ不思議なことに、表紙にも背表紙にも作者名はない。
かなり上質な造りの本だ。大量生産されたものではない。
おそらく特注品なのではないかと思っていると、須藤さんが目を丸くして本の下側をのぞき込んだ。
「あれ? この本、黄昏堂の蔵書じゃないんですか?」
空汽さんがかすかに眉をひそめる。
本をひっくり返してみると、確かに地の部分にあるべきものが見当たらなかった。
「本当だ、蔵書印がない」
私たちが今いる1階の書庫内に収められた蔵書は「万抄院文庫」と呼ばれ、一般の来館者にも貸し出し可能だ。それらは他の本と区別をつけるため、万抄院文庫には本の下側の断面、地や罫下と呼ばれる断裁部分に「万抄院文庫」と朱印が捺されている。
誰かが間違って自分の本を棚に差してしまったのだろうか。
それともこちらのチェック漏れで、蔵書印を捺し忘れてしまった本だろうか。
確認しようと辞書のように分厚い目録をめくったその時、真っ黒なスーツに包まれた腕がにゅっと私の目の前を遮るように伸びてきた。
少し驚いて顔を上げれば、いつになく難しい顔をした館長と目が合う。
「空汽さん?」
何の断りもなく私の手から臙脂色の本を取り上げると、空汽さんはパラパラとページをめくった。
「これはうちの蔵書じゃないね」
「じゃあ、誰かが間違って棚に差しちゃったとか」
須藤さんの問いには答えず、パタンと本を閉じる。気のせいだろうか。ほんの一瞬、分厚いレンズの奥の瞳に険しい光が浮かんだように見えた。
「私、利用者の方に確認してみましょうか?」
黄昏堂の利用者は十人にも満たない。シスター・マチルダのように毎月のように来てくれる人もいれば、数カ月に一度くらいしか顔を見せない人もいるが、一人一人に確認しても大した手間にはならない。
しかし空汽さんは本を脇に抱え、首を横に振った。
「いや、持ち主には心当たりがある。これは私が預かっておくよ」
そう踵を返すと、空汽さんは書庫を出て行ってしまう。
書庫の中に残された須藤さんと私は、どちらからともなく顔を見合わせた。
館長の靴音が遠ざかると、ややあって須藤さんがぼそりと呟く。
「……空汽さん、もしかして怒ってますか?」