間章 白銀の追憶
私の故郷は四方を山に囲まれた、冬になれば雪に覆い隠されてしまうほど小さな集落だった。わずかばかりの民家と田畑、小さな役場と図書館をぐるりと囲まれた限界集落。市町村合併が進む中で、残り数少ない「村」。
そんな過疎と少子高齢化の進む鄙びた場所で、私にとって数少ない楽しみが、父の仕事を眺めていることと本を読むことだった。
父の仕事はあらゆる本の修復だった。壊れてしまった本を直してほしいと来る個人のお客さんから、考古学や歴史の研究のために古書を修復してほしいという、大学や博物館の関係者まで、色々なお客さんがいた。
どんなに古くボロボロな本でも美しく仕立て直してしまう父は、幼い私に魔法使いだった。バラバラにページが外れた絵本も、触れるだけで壊れてしまいそうな何百年前の古書も、父の手にかかれば美しく、鮮やかに生まれ変わる。
父は私が小学生にあがると、簡単な本の修理を教えてくれるようになった。
また仕事の邪魔をしないことや、依頼人から持ち込まれた本や、修理道具に触らないことを条件に、工房で本の修復を眺めることを許してくれた。
けれどそんな穏やかな日常はある日、突然終わりを告げる。
その日は村に、季節外れの雪が降っていた。残雪の上に積もった予報外れの大雪は私たち一家が暮らす、山間の小さな集落を容易く孤立させてしまう。
母はちょうど祖母のお見舞いに、朝から隣の市の病院に行っていた。私は留守番し、父は家のすぐ隣にある工房で、依頼された本を修復していた。
どんな本を直していたかはわからない。神経を使う修復だったのか、珍しく工房への立ち入りが禁じられたからだ。依頼人とトラブルがあったらしく、いつも温和な父が、ピリピリしていたのを覚えている。
とんとんと規則正しく響く金槌の音を聞きながら、私は自分のベッドで寝そべり、図書館で借りたミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでいた。
工房のインターホンが鳴り、金槌の音が止まった。お客さんと父の話し声が、かすかに聞こえてくる。何を話しているかまでは聞き取れない。けれど二人が何かを言い争っているのは何となくわかった。
ほどなくしてバタン、と乱暴に扉が閉まる音が響き渡った。こわごわと本から顔を上げる。お客さんが帰るのだろうか。言い争っていたようだが、何かトラブルでもあったのだろうか。
不安に駆られたその時、外から「ぎゃっ」と、野太い悲鳴があがった。
読みかけの本を置き、とっさに窓を開ける。それきり声は止み、全ての音が雪に吸い込まれて消えたかのように、周囲がしんと静まり返った。
言いようのない不安に襲われた私は、部屋着の上にコートを羽織って外へ出る。
視界に飛び込んできたのは、降り積もった雪を赤く染める、おびただしい血。
真っ赤な血だまりの中心には、父がうつ伏せに倒れていた。
雪に足を取られながら駆け寄り、父の上体を抱え起こす。首元に大きな傷が裂け、そこからとめどなく流れ出す赤い液体が、父に、玄関に積もった雪に滲む。
「お父さん!」
体を揺さぶるも、父は糸が切れた人形のようにぴくりとも動かない。
冷気に混じって漂う、鼻を刺すようななまぐさい鉄錆のにおいに、悪寒が体中を駆け巡る。その時、工房の固定電話が鳴った。
反射的に顔を上げると、工房の入り口の前には見知らぬ人が立っていた。
がりがりに痩せこけた体は背が高く、雪のように真っ白な長い髪が、風にはためいている。細く大きな手や、そこに握られた大きなナイフ、真白い髪や顔、いたるところに赤茶けた何かがこびりついていた。
「誰だ?」
低く尋ねた相手の声が、耳に膜がかかったようにひどく遠く聞こえる。
白髪を揺らし、こちらに歩み寄ってくる人が、男なのか女なのかわからなかった。髪の長い男の人にも、背の高い女の人にも見える。年齢がわからない、仮面のように無表情でのっぺりとした顔をしていた。
枯れ木のように細く白い手に、ナイフが握られている。
「……あの男の子供か?」
白髪の人はナイフを持ったまま、私をじっと見下ろす。まるでガラス玉のような紫色の瞳に、言葉を失い立ち尽くす自分が映っていた。
おそらく父は、目の前の人間に殺された。
痺れた頭の片隅で現状を認識するまで、不思議と時間はかからなかったと思う。
白髪の人は顔色一つ変えず、私に向かって刃物を振り上げ――――そこからの記憶はぶつりと途切れている。