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間章 宵闇、黄昏道地下にて

閉館を迎え、相良君が退勤する。

私はそれを見届けてから館内を施錠し、地下へ向かった。

 黄昏堂の地下最下階。地下三階からの隠し扉でのみ通じる四階には、ごく限られた者しか知らない客室がある。通常の来館者とは違う、永劫廻廊を通ってここを訪れる者。おおよそ常人とは言い難い客を応接するための部屋だ。

 扉を開けば、ソファには来客の影が二つあった。

 時代かかった漆黒のドレスをまとう妙齢の美女。その背後で控えるように立つ恰幅のよい、(ひき)(がえる)のような顔をした老爺が一人。

「何かご用ですか」

 率直に尋ねると、来客は豪奢な栗色の巻き毛を揺らして顔を上げた。テーブルランプのくすんだ灯りに照らされ、西洋人形のような美貌が浮かび上がる。

雪のように真白い肌に、薄暗がりで煌々と光るエメラルドグリーンの大きな瞳。

「お久しぶり、館長さん。新しく人を雇ったんですって?」

 目があうなり、来客は本題を切り出す。鈴を転がすようなソプラノの声が、薄暗い客室に響き渡った。

「ええ、司書を一人」

「聞いてないわよ」

「素性がはっきりしている者なので、報告の必要はないと判断しました。以前、蔵書の修復を依頼していた書籍修復士、湯澤浩介氏の娘です」

 端的に答えると、人形じみた美貌に納得の色が浮かんだ。

「なるほどね。それで、その娘さんはどこにいるの?」

「先ほど帰りましたよ。彼女の勤務は七時までなので」

「それは残念ね。じゃあ今度、別館まで挨拶に来させてちょうだい」

「生憎、彼女はあなたと違って暇ではありません」

 面倒な提案を断ろうとするも、来客はさも不思議そうな顔をする。

「まあ。この館で働くなら、オーナーへの挨拶はお仕事の一環ではなくて? 修理をお願いしたい本もあるしね。ぜひ親睦を深めて、色々なことを教えてあげたいわ」

「……親睦を深めていただくのは構いませんが、くれぐれもおかしなことを吹き込まないでください。そこの従者のように」

来客の背後に控える従者を睨むと、老爺はいぼだらけの顔を露骨に引き攣らせた。

 青ざめる従者を振り返り、女主人は小さく笑う。

「何とでもおっしゃい。今回はいくらあなたでも、蒼猫楼の時のようなお節介はできなくってよ」

 思わず眉間にしわが寄り、眼鏡がずり落ちる。来客の顔に底意地の悪い笑みがひらめいた。

「蒼猫楼といえば、ここに来る前バステト様と会ったわ。この前も楼閣に迷い込んだ人間の処遇を巡って、ひと悶着あったんですってね」

「そのようですね」

 舌打ちしそうになるのをこらえ、素知らぬふりで相槌を打つ。今度会ったら、猫の女王たちに黄昏堂の事情をやんわりと口止めしておく必要がありそうだ。

「あなた調整したでしょ、あの子が蒼猫楼に着くのが夜になるように、魔力の気配や永劫廻廊が開いたことに気付いても、わざと時間をおいて」

 それには答えず、出涸らしの紅茶を彼女のカップに注ぐ。

「本当に良かったわね、審判が夜の女王で。獰猛な昼の女王……セクメト様だったら、きっとあの男の子は喰い殺されていたから」

 蒼猫楼は夜がバステト様、昼がセクメト様という二部交替制で治められている。

 かのヘリオポリス神話の女神たちは共にラーの娘で、慈悲と残虐という二面性をそれぞれが体現していた。温厚で慈悲深く、母性の象徴とされる猫の姿をしたバステト神とは対照的に、女神セクメトは復讐と殺戮を司る、獰猛な雌獅子の破壊神だ。

「話を戻しましょうか。あなたは司書さんに、この館のことを一体どこまで伝えたの?」

 来客は含み笑いをして、机の片隅に置いておいた灰色の本を手に取った。

「彼女はオカルト否定派なので、必要に応じて少しずつ説明してゆくつもりです」

 プラトンの哲学に『洞窟の比喩』という論がある。洞窟を出たことのない囚人が、洞窟の外に別の世界があることを認識できないように、人間は自分が属する世界以外に、異なる境界や世界が広がっていることを、容易に受け入れることはできない。

「まあ。ここの蔵書を管理する司書さんが、そんなことで務まるのかしら?」

 澄んだ声が地下の応接室に反響する。

この館の地下に収められている本は全て、目の前の女性の所有物だ。

 あらゆる魔導書や奥義書、聖典、外典、偽典、逸書。だが中でも輪をかけて厄介なのが、来客の背後の本棚にずらりと並ぶ、大小様々な題名のない書物たち――――

「話を戻しますが、何故あの須藤という青年から記憶を奪ったのですか」

来客は机の上に置かれた灰色の本を見遣り、肩をすくめる。

「だって、可哀想だったんですもの」

「そんな気まぐれで、人から記憶を抜き取らないでください」

 間接照明のみに照らされた薄暗い部屋の中で、翡翠のような碧眼が煌々と光った。

「失礼ね、気まぐれじゃないわ。あの男の子、愛猫の骸を抱えて声が枯れるまで泣いていたのよ。九才の子供が背負うには酷だから、大人になるまで記憶をあずかってあげただけよ」

「あなたがそのような人間らしい慈悲を持ち合わせていらっしゃったとは、驚きです」

「あら。私、愛猫家には優しくてよ。それに今回の件、面白かったわ。ちょっと出来すぎな気もしなくはないけど。恐怖症からの神経衰弱。何より死んだはずの黒猫が現れ、封じられていた真実が明かされる……まるでポーの『黒猫』のパロディね」

そう続け、煌々と光る碧眼で私の背後へと目線を移す。

「シナリオを書いたのはあなたでしょう、ダンタリオン」

 来客の視線を追って振り返れば、背後にはいつの間にかダンタリオン――相良君には「壇」と紹介した初老の男が立っていた。

「お久しぶりです、グレイス様。彼が大人になったら記憶を返すと約束してらっしゃったので、そろそろ頃合いかと思いまして」

 人畜無害そうな老爺の顔で、ダンタリオンは控え目に笑う。だが闇の中で一瞬、皺に埋もれた茶色の瞳が青白く光った。

「バエル殿とは一昨日お会いしましたね。廻廊の中で」

 ダンタリオンはティーポットの茶葉を替えながら、来客の背後に控える従者に視線を投げる。いぼだらけの老爺の顔から、瞬く間に血の気が引いた。

「そ、そうでしたかな?」

「まあ。使い(ファミリア)同士、仲がいいこと」

 しどろもどろに口ごもる従者にくすくすと笑い、来客は灰色の本を手に取る。

 題名も作者名もない無地の表紙をそっとなで、目の前の女性は小さく目を閉じた。

『名も無き手記、封じられし追憶よ。我が声に応え、真の姿をここに顕せ』

 朗々と澄んだ声が客室に反響し、本が淡い金色の光に包まれる。

 密閉された地下にどこからともなく風が吹き、閉じられていたページがひとりでにめくれた。白紙のページに燐光が閃き、その下に文字と絵が忽然と浮かび上がる。やがて燐光は消え失せ、中から現れたのは、あらかじめ私が机上に置いた灰色の本ではなく、古びた絵日記のノートだった。

「それが今回の手記の〝原本〟ですか」

「ええ。これはあの男の子が、大好きな家族と過ごした日々を綴ったもの」

 来客はノートを手に取ると、パラパラとページをめくる。エメラルドグリーンの双眸が、まるで獲物を前にした猛獣のように爛々と輝いた。

 数ページ目を通すと、西洋人形のような美貌に恍惚を浮かべて日記を閉じる。

「懐かしい。久しぶりに読んだけど、やっぱりいいわねえ。素直で、何のてらいもなくて、甘くて、柔らかで。猫と陽だまりと、少しだけ涙の匂いがする……」

来客は絵日記の表紙へ、頬ずりするように顔を寄せ、瞼を伏せる。

「あの子はね、いつか愛猫との別れが来ることを、子供心にちゃんと知っていたの。知っていたけど、受け入れられなかったのよ。……なんて幼くて、いじらしい」

 そう囁いて、来客は大切そうにノートを膝の上に置いた。

 本来の持ち主……来週からこの館にバイトに来ることになった青年を思い出す。まさか昔の日記が、見ず知らずの女の手に渡り、このように鑑賞されているとは夢にも思いもしないだろう。

 他人の日記を読む趣味はないが、図らずも中身が見えてしまう。幼い筆致で綴られた日々の記憶と、ほぼ全てのページに白猫の絵が描かれていた。だが「明日はテトラを病院へつれていこうと思う」という一文を最後に、日記は途絶えている。

「大人になったら記憶を返してあげると約束していたの。あの子、覚えていたかしら」

「覚えていませんでしたよ。ただ何か感じるものがあったのか、あなたから授かった手記をずっと持ち歩いていたそうです」

 満足そうに微笑み、革鞄の中に日記帳を片付ける。感傷に浸っていたかと思えば、彼女は何かを思い出したように私に向き直った。

「そうだわ、新しい司書さんが修理してくれた本も見せてちょうだい」

「わかりました」

そう言われるだろうと思って、あらかじめ用意しておいた本を手渡す。

蔵書の中でもひときわ汚損が激しかった十六世紀のイタリアの詩集で、一月ほど前、相良君に修復してもらったものだ。

牛革の装幀には保革油が塗られ、焦げ茶の表紙は光沢と、本革の柔軟さを取り戻している。劣化部位はアクリル樹脂で補強されていた。煤や黴、シミといった汚れは除去され、破れや虫食いは和紙で修復され、皺は跡を残さず丹念に伸ばされている。ボロボロによれて黒ずんでいた小口は、本文の内容や余白を損なわない的確な位置で断裁され、その仕上がりは修復士の確かな技量をひとつひとつ物語っていた。

 パラパラとページをめくって中を確認した来客も、満足そうに頷く。

「さすが湯澤浩介の娘ね、申し分のない仕上がりだわ。楽しみに待っていると伝えて」

「わかりました。ですがこちらにもタイミングというものがありますので、今しばらくお待ちください」

「構わないわ」来客は鷹揚に頷き、ドレスの裾を持ってソファから腰を上げる。

「では、そろそろお邪魔しましょうか。開門せよ、永劫廻廊」

 高く澄んだ声が命じると、ソファの背後の棚がひとりでに軋んだ音をたてて左右に開いてゆく。その奥に覗くのは漆黒の闇だ。

「ご足労、誠に有り難うございました。お気を付けてお戻りくださいませ」

 ダンタリオンが恭しく頭を下げる。厄介な訪問者がやっと帰るかと思うとせいせいした。遠ざかってゆく二つの靴音を聞きながら、ソファの背もたれに背中をあずける。

「そういえば」と足音が止まる。

 怪訝に思って振り返ると、廻廊の中で来客が私をじっと見ていた。従者が掲げたランタンの青白い光が、彼らを常闇から白く浮かび上がらせる。

「あなたは司書さんに私をどう紹介するつもり?」

 人形のような顔に、底意地の悪い笑みがひらめく。

「どうと言われても、事実をありのまま紹介しますよ。ここ黄昏堂の所有者(オーナー)であり、初代館長の妻。つまり私の曽祖母だと」

 コツコツと、来客たちの靴音が出入り口へと向かう。

「もっとも百年近くも昔にあなたが私の曽祖父・万抄院慶春と結婚したと言っても、あなたを見た相良君が信じるかどうかは甚だ疑問ですが」

「かもしれないわね。じゃあ……」

 曽祖母は黒いレースの手袋をはずし、白魚のような手で顔を覆う。

『時よ。汝の糸車を疾く手繰り、我に老いをもたらせ』

 (ルー)()を詠じると、曽祖母の顔からもうもうと白い煙が立ち上った。腰の近くまで伸びた豪奢な栗色の巻き髪が、まるで脱色したように灰色へと色あせてゆく。

「……こんな顔だったら、信じてくれるかしら?」

 楽しそうに嘯いて曽祖母が手を離すと、そこには先ほどまでの美貌はなく、年老いた女の顔があった。幾筋もの皺が寄り、骨格にへばりつくように垂れ下がった皮膚。色あせ張りを失った白髪。白魚のような手も筋張り萎れている。

エメラルドのような碧眼だけが代わらず、薄暗い応接室で煌々と輝いていた。

「悪趣味ですよ」「あら、そう?」

飄々と答える声も、外見相応にしわがれている。老女に扮した曽祖母はにこりと、つかみどころのない笑顔を私に向けた。

魔女め、と声には出さず胸の内で呟く。

もっとも私も彼女のことを言える身ではない。

膨大な蔵書を抱え、時に人外の来館者を迎えるこの館を完全に管理することなど、常人には不可能に等しい。それゆえ黄昏堂の歴代館長たちは一人の例外もなく、とある「鍵」を受け継いできた。

鍵といっても、それは施設を施錠する道具を差す言葉ではない。

七十二柱の悪魔を封じた魔導書、『ソロモンの鍵』。そこに封じられた一柱の悪魔を使役し、館長はこの館を管理する。

それがダンタリオン――――幻影と叡知を司る地獄の侯爵、「書を携える悪魔」だ。

魔女は満足したのか、パチンと指を鳴らす。すると白髪は栗色に染まり、老女の顔は先ほどまでの美貌を一瞬で取り戻した。

「それじゃ、ごきげんよう。司書さんのご挨拶、楽しみに待っているわ」

 不可視の闇に溶けるように遠ざかって行く魔女と侍従の後ろ姿を見届け、私は静かに向こう側とこちら側をつなぐ扉を閉ざした。

 疲れが押し寄せ、半ば倒れ込むようにソファに寝そべる。

「ダンタリオン。今後、来客の予定は?」

「永劫廻廊を通っていらっしゃる方は、特にいらっしゃいません。しかし……」

 テーブルの上を片付けながら、ダンタリオンはそこで言葉を区切った。

「少し先のことになりますが、綺堂様がいらっしゃいます。おそらく例の事件の件で」

 思いがけず聞かされた懐かしい名に瞑目する。

「……そうか」

ティーカップを手際よくまとめてワゴンにのせ、ダンタリオンは給仕服の胸ポケットから何かを取り出す。相良君が「クロ」に買ってきた、鈴つきの青い首輪だった。

「それはそうと、相良さんからいただいたこちらのお品はいかが致しましょう。正直なところ、慣れないものを巻くと首が窮屈でして」

「常に装着しろとは言わないが、彼女の前では付けていてやってくれ。失くしたと勘違いして、また新しい首輪を買ってきそうだ」

 ダンタリオンは人畜無害そうな老人の顔に、困ったような笑みを浮かべ、首輪をポケットに戻す。

「この先も変わらず、何人にも正体を悟られないよう振る舞え」

「かしこまりました。では、仰せの通りに」

 恭しく頭を下げると、ダンタリオンの足元に伸びた影が音も無く膨れ上がる。そうして小柄な老爺が、あっという間に漆黒の影に包まれたのも束の間。

 ちりん、と鈴の音が部屋に響く。

膨張した影が霧散すると、中から姿を現したのは老爺ではなく、漆黒の毛並みに金色の目を光らせる一匹の黒猫だった。


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