間章 黄昏、河川敷にて
最後のページを読み終え、ぱたんと本を閉じる。さほどページ数は多くなかったが、不思議な読了感があった
あの司書さんが勧めてくれたのは、奇書館の創始者が執筆から製本まで手掛けたという旅行記だった。世界中の書物を求めて東奔西走した黄昏堂の初代館長と彼の妻が、とある奇書を探しに、エジプトへと猟書の旅に出た時のものだ。
館長夫妻が求めたのは『死者の書』の未発見部分、幻の章と呼ばれる古文書だった。だがエジプト中を探し回っても夫妻はそれを入手できず、最後は初代館長の妻が気に入ったバステト像を露天商から買って帰国した……というオチだった。
家で読もうと思っていたが、バスを待っている間にページを開いたら、これが思いのほか面白い。熱中するあまり、一時間に一本しかないバスに乗り損ねてしまった。
次のバスが来るまで四〇分以上もある。暇つぶしにその辺をぶらぶらと散策し、何となく近くの河原に足を向けた。
不意に先日、十数年ぶりの再会を果たした親友の顔が頭に浮かぶ。
母がテトラを拾ったのは海辺だったらしい。だからテトラポッドから「テトラ」と名前を取ったのだと、昨晩、両親から聞いた。
そして一昨日迷い混んだ猫たちの世界や、不思議な灰色の本を思い出す。
「なんだったんだろうな、あれは」
まだ実感がわかない。 本が浮き上がったり光ったり、猫が当然のように喋っていたり。あの不可思議な世界のことを、俺は未だにどう捉えたらいいかわからない。
あの無愛想な館長さんやしっかり者そうな司書さんも、何も言わないから、こちらから聞くに聞けなかった。
俺が轢いて死なせてしまったはずの黒猫も、当然のような顔をして生きている。 怖いし、わけがわからなかった。けれど今となっては、あの摩訶不思議な世界や猫たちのおかげでテトラと再会し、子供の頃の空白の記憶を取り戻せたような気もする。
周囲を見渡せば、夕陽が山にさしかかっていた。今年一番の陽気と言われていただけあって、日中は暖かかったが、日が暮れるとやはり冷える。
紙袋に本をしまい、コートを羽織る。バス停に戻ろうと、立ち上がったその時。
「もし、そちらのお方」
背後から澄んだ声が響いた。何気なく振り返ると、すぐ後ろに見知らぬ女性がいた。
吸い込まれるような青の瞳に、思わず目が釘付けになる。
「俺ですか?」と自分を指差すと、女性はこくりと頷く。
中東圏の方なのだろう。頭と首元を真っ白な薄い布で覆っている。褐色の肌と、宝石のような青い瞳のコントラストが鮮やかだ。
「不躾をお許しください。何を読んでいらしたのですか?」
そう尋ねられ、あわてて紙袋から本を取り出す。
「えっと、図書館で借りた本です」
「図書館と仰いますと、もしやこの奥にある黄昏堂という館では?」
何故、この外国人女性が黄昏堂を知っているのか。もしや関係者だろうか。
「そ、そうですけど……」
おそるおそる頷き、違和感を覚えた。彼女の声を前に、どこかで聞いたような気がする。それも、ごく最近に。
少しの間、彼女はしみじみと俺の手の中にある本を眺めていた。冷たくなってきた風が、ゆったりとした衣装をそよがせる。仄かに甘い、花の蜜のような芳香が漂った。
「……失礼しました。つい、懐かしかったもので」
そっと目を伏せると、長いまつ毛が褐色の肌に影を落とす。
「もしかして、黄昏堂の関係者の方ですか?」
「いいえ。館長とは知己ですが、私もあの館の来客に過ぎません。こちらには、たまに遊覧に来るのです」
なんだか古風な話し方をする人だとぼんやり思う。だが、わざとらしいわけではなく、不思議と彼女にしっくりくる。女性は空を眺め、ぽつりと呟いた。
「ここから見える夕焼けの空の色が、私の生まれた砂の大地にとても良く似た色をしている。だからでしょうか、時折、無性に見たくなるのです」
砂の大地とは、砂漠のことだろうか。
俺にとって砂漠とは、写真や映像でしか見たことのない世界だった。
それでも彼女の言葉で、赤い砂原一面に広がる風景がまざまざと頭に浮かぶ。
もしかすると、彼女はもう故郷に戻れないのかもしれない。何の根拠もないが、不意にそう思った。
不意に、テトラが頭に浮かぶ。もう二度と戻って来らない、小さな白い猫。
悲しみの底に手がつくと、悲嘆は次第に諦観と哀愁に変わった。しんしんと雪が積もるように、寂寥だけが身の内で静かに満ちてゆく。二度と戻ってこない過去のことを、人は郷愁と呼ぶのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
しばらく夕陽を眺めていた彼女が、おもむろに俺の顔を覗き込む。
「随分と熱心に読んでいらっしゃったようですが、この本はいかがでしたか?」
その言葉に、少し違和感を覚える。彼女は一体、いつから俺を見ていたのだろう。足音はおろか、まったく気配を感じなかった。
「……けっこう面白かったです」
言ってから後悔する。我ながら毒にも薬にもならない、つまらない感想だった。
「それは、どういったところが?」
就活の人事面接のような質問に、思わず怪訝な顔になってしまう。
何故、見ず知らずの美女がそんな突っ込んだことをわざわざ俺に尋ねるのか、理由がわからなかった。
しかし本好きというのは、他人が読んでいる本が気になるものかもしれない。
「信仰というか、神様とか死生観が。一見、自分とは馴染みのないように見えるんですけど、根底には同じものがあるような気がして。死に対する畏れとか期待とか、自分の罪への恐怖と後ろめたさとか、考えることは皆、似たりよったりなんだなあと」
館長夫妻は漁書の旅の中で、古代エジプトの様々な文化に触れた。
古代エジプトの文化は宗教は独特だが、多神教の世界観は日本の「八百万の神」にも通じるものがあった。個性豊かな神々や死後の世界。何といっても死者があの世で審判を通過し、楽園へゆくために、『死者の書』というガイドブックまで作られていたというから驚く。
「俺の勘違いかもしれないんですけど、崇拝や畏敬だけじゃない、親しみの眼差しがあるような気がして。それが、なんだかいいなあって思ったんです」
信仰の中に通俗と親愛が息づいていると、黄昏堂の初代館長は著書の中で語った。
突拍子もないようで、どこか人間くさい神様。正義や道徳だけではなく、皮肉や諧謔、不思議、時にとんでもなさがちりばめられたエピソードの数々。
「親しみの眼差し……そうね」
女性は小さく息をつくと、俺に向き直る。
「先の黄昏堂の館長が昔、言っておりました。人とは、言霊から成るのだと。貴方はとても声正しき者。誠実な言霊、そして心の持ち主のようです」
風に煽られ、頭に巻かれた白布がふわりと舞い上がる。
夕陽を見上げる横顔が茜色に染まり、深い青の瞳が一瞬だけ俺を見て光った。
「清き言霊、善き隣人、多くの書物が貴方を導くことでしょう。貴方の人生にいつも、真実と幸運が寄り添いますよう。過去と悲苦に囚われず新しい道を歩むことを、貴方の亡き友も心から望んでいます」
「……え?」
思わず彼女の顔を真正面から見る。鮮やかな青の瞳が、黄昏時の薄暗がりの中で星のように煌めいていた。
「須藤一樹。貴方の言葉には虚偽がありません」
脳裏に浮かんだ可能性を、とっさに理性が打ち消した。でも、と記憶が反駁する。
この声は確か、一昨日の――――
「貴方の罪は存在せず、貴方を訴える告発などないことを、太陽神の娘が証言致します。断罪者アメミットが彼の心臓を喰らうことを、決して許しはしない。この声正しき者と彼に愛される者が、楽園の野へと導かれんことを」
小さな桜色の唇が謡うように、淀みなく流れる川のように言葉を紡ぐ。
それはまさに今読んだばかりの旅行記にも記された『死者の書』の一節、死後の裁判において、陪審の神々が無罪を証言する祝詞だった。
「あなたは、まさか」
「では、そろそろ私は戻らねばなりません。夜が来る前に」
かすれ声で尋ねた俺に、彼女は静かに微笑んだ。
吸い込まれるような瞳に見つめられ、痺れたように体が動けない。女性は何故か堤防道路ではなく、河川敷に広がる枯野に向かって歩き始める。
「どうか、いつまでもお元気で。あの子からの伝言、確かにお伝えしました」
すれ違う直前、呆けたように立ち竦む俺の耳元で、夜の女王はそう囁いた。
静かな足音が遠ざかってゆく。声をかけることも振り返ることも出来ず、しばらくの間、俺は河川敷に立ち尽くしていた。