第十話 地下書庫の秘密
有給が明け、普段通り朝の九時に黄昏堂に出勤した私を、いつもと変わらず無愛想な館長が出迎える。
基本的に会話が少ないのは普段と同じだ。空汽さんが館長らしいことをせず、ソファで寝転んで本を読んでばかりいることも。
しかし一昨日の閉架書庫の「向こう側」の世界のことを、空汽さんが話そうとする気配は一向になかった。相変わらず来館者はゼロだし、ただでさえ空汽さんは本を読み始めると一言も話さなくなる。
気まずい沈黙の中、私は話をするタイミングを完全に掴み損ねていた。
「空汽さん。一昨日のあの不思議すぎる世界は、一体何だったんですか?」
結局、本題を切り出すことができたのは昼食を終えてからのことだった。
「……あの不思議すぎる世界というと、永劫廻廊や蒼猫楼のことを指すのかね」
こくりと頷く私に、空汽さんは念を押すように続ける。
「断っておくが、私とて向こう側の世界を完璧に把握しているわけではない。むしろわからないことの方が多いし、私自身が把握しているつもりでも、曲解や誤解であるかもしれない。それでも聞くかね?」
この館に十年近く住んでいるという館長すら「わからない」という世界。そんな未踏の場所に、私はクロを頼りに足を踏み入れたということか。
今更ながら、無事帰って来たことに心底安堵する。
「君は〝永劫回帰〟という思想を知っているかね」
「……言葉を聞いたことがある程度です。確か、ニーチェの言葉だったような」
「そう。平たく言えば、歴史は永遠に同じことを繰り返すという考え方だ。キリスト教やイスラム教といった一神教のほとんどが、魂や世界を始まりから終わり、生から死、最後の審判へ進むという、直線的かつ非可逆的な物だという終末論を標榜するが」
空汽さんはそこで一度話を区切ると、コーヒーを一口すすった。
「その対極には、ニーチェの永劫回帰や、古代ギリシャの哲学者たちが提唱したイデア論、仏教をはじめとするいくつかの宗教での輪廻や転生という概念がある。魂、世界、時は循環し、永遠にループするという一種の円環的時間意識……」
少し哲学的で難しいが、理解できなくもない。
人生や世界、歴史や時間といったものを、始まりと終わりという「直線」という形でみなすか。または永遠に同じことを繰り返すメビウスの輪のような形……つまり「円環」として捉えるかという死生観の違いだ。
「両者はいずれも人間が、自分たちが今生きている世界と死後の世界を勝手な解釈で想定したものに過ぎない。しかし、本はどちらだと思うかね?」
「へ? 本、ですか?」
話について行くのもやっとな私に、唐突な質問が降ってくる。
しどろもどろな反応に、館長は少し言葉を選ぶように話すスピードを緩めた。
「黄昏堂の初代館長は、後者だと考えた」
「初代館長って確か、空汽さんのひいお祖父さんの」
「よく覚えていたね。曽祖父は本を、いや書物それ自体を一種の霊廟と考えた。ただの物質にすぎない頁の中にはその実、哲学、思想、歴史、数学、科学、物語、神話、芸術といった様々な〝世界〟が閉じ込められている」
淡々とした声が事務室に響き渡る。コーヒーカップを置くと、空汽さんはデスクチェアの背もたれに体を預けた。
「紙面に書き留められたそれらは本がありのままで存続する限り、歪められることなく半永久的に存在し続ける。本とは人が作ったものでありながら、限りなく神に近しい性質を有するのだと、極めて汎神論的な持論を展開したんだ」
「本が……神に近い?」
「だからここは〝館〟ではなく〝堂〟と呼ぶ。曽祖父は本の中に、神と同等の影響力を見出していた。仮に本が一冊この世から消えたとしても、その本が人や世界に与えた影響が消失することはない。書かれた世界は読者に受け継がれ、時に形を変えて拡散され、それに触発された者は新たな世界を生み出してゆく――――」
たぶん、私が話についていけない顔をしていたのだろう。
空汽さんは「例えば」と私の顔を指差す。
「君は蒼猫楼に行く前と、行った後の自分が、全く同じ人間だと思うかね?」
「ええと……」
「いや、今のは質問が悪いか。永劫廻廊の向こう側の世界を知る前と後で、君の思考や認識に変化はないかと聞きたかったんだ」
少し考えてから、私は「確かに」と頷く。
「私、オカルト否定派だったんですけど、さすがに今回の件で少し考え方が変わったかもしれません」
「だろうね。人は何かを知覚した瞬間から、意識はその影響を免れない。知るということは大なり小なり当事者の認識や精神、ひいては生活や人生に変化をもたらす」
知るということは人生に変化をもたらす。その言葉は妙に耳に残り、そのくせストンと腑に落ちた。
固唾を飲む私を横目に、館長は引き出しから一冊の本を取り出す。それは辞書のように分厚い、黄昏堂の来館者記録だった。
紙面に固定された世界と、そこに触れた読者へもたらされる変化。触発された読者が新たに生み出す世界。三位一体の循環が、永遠に続く。確かに本は、正確には本がつくり出す世界は、まるでメビウスの輪のようだ。
「……まあ、本当に彼の持論だったかは怪しいが」
「え?」「いや、こちらの話だ」
何かを誤魔化すように咳払いし、空汽さんは「とにかく」と少し強引に話題を戻す。
「その哲学を胸に大正二年、曽祖父は私立図書館・黄昏堂を創立する。幕末の混迷に乗じて海運業で巨万の富を築いた彼は、五十歳で養子に家督を譲った後、所蔵の蒐集に余生をつぎ込んだ」
奇書館の蔵書は、その過半数が創始者によって蒐集されたと聞いている。
放っておくと寝食を忘れ、一日中本を読んでいる空汽さん。そんな彼のひいお祖父さんもまた、彼と同じ本の虫だったのかもしれない。
「ここまでは猟書家にはよくある話だ。君たちが勝手に奇書と呼ぶ万抄院文庫は、黄昏堂の歴代館長が趣味や実用に沿って蒐集したものにすぎない。だが」
空汽さんは立ち上がると、作業台の上に置かれていた灰色の本を手に取った。
右上には二つ、小さな噛み痕が並んでいる。
「黄昏堂の真骨頂は、地下で鎖につながれた禁帯出の資料にある」
「その本って、一昨日の」
筋張った細い手が裏表紙をめくる。見返しの右上には蔵書印と禁帯印、二つの朱印が捺されていた。
「黄昏堂の地下書庫のコレクションは、少々変わった性質を持つ書物ばかりでね。本が持つ魔力と因縁、そして読者。そしておそらくはタイミング。この三位一体がそろった瞬間、稀に廻廊の向こう側の世界と、こちら側の世界をつなぐことがある」
「それって……」
驚く私からふいと目を逸らし、おもむろに椅子から立ち上がった。
「改めて、閉架書庫を紹介しようか」
施錠された扉を開けば、そこには螺旋階段が伸びている。階段をおりながら、空汽さんは更に説明を続けた。
「永劫廻廊が開く条件はいくつかあるが、そのうちの一つが本との邂逅だ」
石畳の階段に、二人分の靴音が反響する。
いつもは施錠されている、地下書庫へ通じる唯一の通路。階段の両端には真鍮の燭台が並べられている。地下へおりる階段を等間隔で照らす、何本もの青い蝋燭。一昨日は気に留める余裕もなかったが、改めて見ると異様な光景だった。
まるで今しがた火を点けたばかりのように、ほとんど蝋は溶けておらず、いずれも同じ長さを保っている。一体、つ、誰が蝋燭に火を灯したのだろう。
少なくとも空汽さんは昼休憩から今まで、私と一緒に事務室にいたはずだった。
たとえようのない違和感と不安に、胸の奥がぞくりと冷える。
鎖につながれた本たちといい、地下にある何もかもが異質だ。まるで別世界に紛れ込んでしまったような錯覚に、くらりと目がくらむ。
「本との邂逅、それに伴って生まれる一定数以上の霊的な、あるいは精神的なエネルギーが永劫廻廊と、その先に続く世界への扉を開く」
「は、はあ」
間の抜けた相槌を打つ私に、「ただし」と付け足す。
「君も身をもって知ったと思うが、永劫廻廊の向こう側は帰らずの迷宮だ。この館からむやみに失踪者を出すわけにはいかない」
「だから地下を施錠しているんですか?」
何気なく尋ねると、空汽さんは前を向いたままぼそりと呟いた。
「そういうことだね」
地下一階にたどり着く。分厚い扉を開けば、古書独特のにおいが仄かに漂った。
目の前に広がるのは一昨日と同じ風景だ。ずらりと並んだ背の高い白色の書架と、鎖に繋がれた背表紙の群れ。
「地下一階には準禁帯出の蔵書がある」
「準ということは、区別してるんですか?」
「準禁帯出に区分されるのは、極めて〝偶発的〟な誘因で永劫廻廊を開いた本だ。本の側にも人の側にも廻廊を開くほどの魔力や霊力がない場合、ごく稀に当事者たちがもつ因縁や本に影響されて生まれた強い思念、それに伴って発露する精神的、あるいは霊的なエネルギーが異界への道のりを開く時がある」
周囲を見渡して、いくつか気付く。飴色の書架には様々な本が並び、背表紙から伸びる黒く細い鎖が垂れ下がっている。
「あの、空汽さん。鎖に繋がれている本とそうでない本は、何か違うんですか?」
それらは形態も材質もそれぞれ個性があり、作られた時代も国も多様であることは一目瞭然だ。しかし全ての本が鎖につながれているわけでなく、棚に差し込まれただけの本もちらほらあった。
「……その質問に答える前に、地下二階を案内しよう」
地下二階はぱっと見て、一階とほとんど変わらない。背の高い白色の書架に、鎖で繋がれた大小様々な書物たち。扉や壁、絨毯の仕様はほぼ同じだった。
「ここと地下三階の所蔵は全て禁帯出かつ閲覧禁止だ」
ただ、一階より少し物々しい雰囲気を感じた。
ざっと見る限り、この書庫の本は全て鎖につながれている。
「地下二階はほとんどが魔導書か奥義書。その道の求道者、又は然るべき資質をもつ者が手にした時、異界への道を拓く書物が収められている」
「奥義書というのは、どういう」
「具体的には一部のグリモワールやウパニシャッド、異本、外典、聖典、偽典、経典、アヴェスター。挙げればキリがないが、極めて実践的なものばかりだね」
白い棚に並ぶ書物は様々だ。
辞書のように重厚な上製本もあれば文庫本や豆本、いかにも古めかしい和綴じや折本、巻子本や転経器、果ては石碑や木簡まであった。
「すごい……」
専門知識の乏しい私でも、これらの所蔵品の入手が容易ではないだろうことは、見ただけでも何となくわかる。
ここまで膨大な数の稀覯書を、歴代館長たちはどのように蒐集したのだろう。
「相良君」
思わず書架に見入っていたところを、空汽さんの声で我に返る。
「ここまで聞けば地下三階には何があるか、何となく見当がつくだろう」
ごくりと唾を飲み下す。空汽さんが次に言わんとすることは、薄々察しはつく。
けれどそれは――――あまりに荒唐無稽で、現実離れした話だった。
「もしかして、本それ自体が向こう側の世界への扉を開くもの……ですか?」
自分で言っておきながら、あまりの現実感の乏しさに気が遠くなってくる。
私の答えに、空汽さんは目を伏せた。
「その通りだ。黄昏堂はこちら側と向こう側のひずみの、ほぼ真上に建っている。陰陽道では鬼門、神道では霊道、キリスト教では辺獄など、宗教や国、文化により様々な名で呼ばれるが、呼称や区別にあまり意味はない」
ちりん、と鈴の音が背後で鳴る。いつの間に来たのか、クロが地下書庫の扉の前に座っていた。おいで、と手招きすれば、素直に足元まで歩み寄ってくる。
抱き上げると、クロは私の肩に顎をのせ、ごろごろと低く喉を鳴らした。
館長は咳払いを一つして、話を再開する。
「話を戻すが、廻廊の向こう側をあの世……単なる死者や幻獣、怪物、神々の世界だと言い切るのもまた齟齬が生じる」
その言葉で、ふと来館者の記録として描かれたものたちが脳裏に浮かんだ。
一つ目の巨人、背中に薄羽の生えた美女、百鬼夜行のような化け物の群れ。一昨日までの私が、実在するわけがないと思っていたものたち。
「蒼猫楼だけではない。私も把握していないだけで、あの廻廊は様々な場所につながっている。私が説明できるのはここまでだね。何せ、不確定要素の塊のような場所だ」
不確定要素の塊というのは言い得て妙だった。
私だって今聞いた話を全て理解し、鵜呑みにできたわけではない。
ただこの館の厳格な会員制度と、館長が頑なに黄昏堂の知名度を上げようとしない理由が、少しだけ腑に落ちた。歴代の館長たちはきっと来館者を見極め、いたずらに異界への門扉が開くことのないよう、細心の注意を払ってきたのだ。
「利用者を限定するのは、須藤さんのように向こう側へ迷い込む人を出さないためなんですね」
「それが完璧に出来たら楽なんだがね。本が人に引き寄せられるのか、人が本に呼ばれるのか。書物と人の間には、妙に強固な奇縁があるらしい」
空汽さんは大きなため息をつくと、青白い手をドアノブにかける。
「時に本と人との出会いは時に魔術めいて、一種の奇跡、あるいは災禍を引き起こす。今回のように――――」
すると、空汽さんは不意に口を噤んだ。クロがぴくりと顔を上げたその時、階段からかすかにインターホンの音が聞こえた。
「噂をすれば何とやらだな」
クロを抱っこしたまま、螺旋階段を足早にのぼって玄関に向かう。
壁時計の針は、すでに二時を差していた。気付かないうちに、昼休憩から一時間近く経っていたらしい。
玄関の扉を開くと、そこには紙袋を提げた須藤さんがいた。
「こんにちは。その……先日はありがとうございました」
「体調はどうだね」
空汽さんに尋ねられ、照れくさそうに頭をかく。
「あれから昨日の夕方まで、家族に起こされるまで爆睡してたらしくて。ずいぶん頭と体が軽くなりました」
「それは何よりだ」
一昨日のお詫びとお礼にと菓子折りを、なんとクロには高級猫缶のギフトセットを持ってきてくれた。猫缶を嗅ぎつけたのか、来客用のソファに座ろうと体をかがめた須藤さんに、クロが素早く飛びかかる。
「わっ⁉」
須藤さんが目を白黒させている隙に背中をよじ登り、頭の上で体を丸めた。
「こらっ、クロ! すみません、すぐ降ろします!」
あわててクロを引き離そうとする私を、須藤さんは苦笑いしつつ止めた。
「自分はもう平気ですから、好きにさせてあげてください」
「でも……」
「テトラもよく、こんな風に頭にのっかってきたんです。猫が気に入った人間にする挨拶みたいなものですから」
そう言って少し寂しそうな、しかしどこか吹っ切れたような顔で小さく笑った。
結局クロを頭に乗せたまま、曝書の打ち合わせが始まってしまう。
須藤さんは今年で大学四年生になるという。
授業や就活がない時は、黄昏堂を手伝うつもりだと言ってくれた。無理はさせられないけれど、人手が増えるのは有り難い。この莫大な蔵書を有する私立図書館は、人手が多いに越したことはない。
「では再来週の月曜から頼んだよ。肉体労働だから、しっかり体を回復させて来てほしい。服装に指定はないから、汚れてもいい、動きやすい服と靴を着用するように」
「わかりました。何か持ち物などはありますか?」
空汽さんの目をきちんと見て会話する須藤さんを見て、きっと彼は大丈夫だと思った。過去の記憶が蘇って、まだ日は浅い。表に出さないだけで、しばらくの間は葛藤も悲しみも尽きないだろう。それでも彼は自分の足で、前に進もうとしている。
充血した白目やクマが残る目元も、初めて会った時より痛々しく感じなかった。
「あの、空汽さん」
「なんだね」
須藤さんは続けるかどうかを迷うように口ごもったが、ややあって首を横に振る。
「……いえ。なんでもないです」
彼が何を聞こうとしたか、察しはつく。一昨日の摩訶不思議な世界や猫たち、そして須藤さんが持っていた灰色の本。
空汽さんは「魔力を持つ本」だと言っていたけど、それは具体的にどういうことなのか、聞きそびれてしまった。というか、うまく煙に巻かれたような気がする。
打ち合わせを終えたところを見計らい、私はクロを須藤さんの頭から引き剥がした。
「須藤さん。せっかくなので、よければ本を借りてみませんか?」
「いいんですか?」
空汽さんは空になったコーヒーカップを置くと、おもむろに立ち上がった。
「万抄院文庫だったら構わない。じゃあ相良君、後は頼んだよ」
話は終わったと言わんばかりに部屋を出て行ってしまう。扉がバタンと閉まると、須藤さんは私に向き直った。
「何かオススメってありますか? ここの本って結構マニアックっていうか」
来た、と内心身構えてしまう。
レファレンスの中でも一番難しい質問だ。
「どんなジャンルがお好きですか?」
「面白ければ、何でも。だいたい電子書籍ですけど。フィクションでもノンフィクションでも、自己啓発モノでも。歴史やファンタジー、SFも好きです」
読書家だな、と内心冷や汗をかいた。
様々なジャンルの本を読む人は、かえって何を勧めればいいかわからない。なるべく無難で読みやすい本を勧めるべきか。大学の勉強に役立ちそうな本を教えてみるか。
それとも奇書館ならではの、少し毛色の変わった本を紹介するか。
司書としては是非、後者に挑戦したかった。
「うーん、そうですね」
こういう場面に出くわすたび、自身の実力や知識の不足を痛いほど思い知らされる。
きっと空汽さんだったら、相手の好みや求める情報に合わせて、膨大な蔵書の中から適切な一冊をすっと提供できるのだろう。
かと言って、ここで館長を呼び戻すのはなんだか悔しい。
クロを床に下ろしたその時、一昨日の出来事が脳裏をよぎった。
「そうだ。確か、万抄院文庫には――――」