第九話 帰り道
「……本当に、俺の勘違いだったんですか?」
私たちを先導するように歩くクロの後ろ姿を見つめ、須藤さんは腑に落ちない顔で呟いた。
「確かに二ヶ月前の深夜、クロは泥まみれになって帰って来たことがあったよ」
「でもこの猫、内臓が破裂して体中の骨が折れていたような……」
「気が動転して勘違いしたか、過去の記憶と混同したんじゃないのかね」
空汽さんは前を向いたまま、少し億劫そうに答えた。
女王たちに見送られて蒼猫楼を出てから、私たちは空汽さんの後について、かれこれ十分ほど真っ暗な闇の中を歩き続けた。行きに来た道を戻っているのか、それとも全く違う道を歩いているのかわからない。
門をくぐる時、須藤さんはかつての愛猫・テトラと最後の別れを惜しんでいた。
しばらくの間こそ涙ぐんでいたが、もくもくと歩いているうちに落ち着きを取り戻し――そして泣き止むなり、我に返ったように空汽さんに詰め寄った。
この世界は一体何なのか。
先ほどの宙に浮かび上がり、光っていた本。なによりどうしてネコが当然のように喋っているのかなど、今さらそれを聞くのかという質問を立て続けにぶつける。
私も須藤さんに便乗して質問攻めするも、偏屈な館長は「さあね」だの「私だって知らない」など、のらりくらりと返すだけだった。そんな不毛なやり取りをしながら、私たちは相変わらず灯りのない真っ暗な道を、三人と一匹でひたすら歩く。
「確かにこの黒猫……確認したはずだけどなあ」
「まあまあ、須藤さんも今日は色々あってお疲れでしょうし。家に帰ったら、ゆっくり休んでください」
とりなすように水を差してみるも、須藤さんは露骨に腑に落ちない表情をした。
「ご家族に電話して迎えに来てもらうといい。今日はもう電車もバスもないからね」
腕時計を見ると、時刻はすでに十一時半を回っている。バスも電車も、最終便は十二時だ。少し出費が痛いが、タクシーを呼ぶしかない。
「そういえば空汽さん、いつの間に須藤さんの家に?」
「ああ、私じゃない」
「え? じゃあ、なんで須藤さんの子供の頃のこと……」
「君はもう少し物事を穿って見た方がいい。シスター・マチルダならともかく、見ず知らずの男に家族のプライバシーを明かすわけがないだろう。シスターに頼んで、彼のご家族に事情を尋ねてもらった。猫にまつわる因縁がないかと」
このぐうたらな館長が、そんな手回しをしてくれたことは少し意外だった。
須藤さんも驚いたように空汽さんを見る。
「空汽さんは、一体どこまでご存知だったんですか? 、この短時間にここまで須藤さんの過去とか、記憶障害のこと」
「単なる勘だよ」
私を遮って言い張る館長を見る目が、どうにも胡乱になってしまう。
「勘の範囲がおかしくないですか?」
ぼそりと呟いた私に聞こえないふりをして、空汽さんは話をはぐらかすようにクロの顎の下をなでる。須藤さんは白猫のぬいぐるみを、少し恥ずかしそうに脇に抱えた。
「これ、うちから持ってきてくれたんですか?」
「ああ。猫と君にまつわる物品があるなら借りてきてくれとも、シスターに頼んでおいたからね。もう一つ、預かってきた物がある」
片手に持っていた紙袋を須藤さんに手渡す。
「君が幼い頃、毎日のように読んでもらっていた絵本だそうだ」
中からは一冊の古い絵本が出てきた。『百万回生きたねこ』……ぼろぼろの表紙に、黒と灰色の虎猫が描かれている。
須藤さんは懐かしそうに表紙を眺め、小さく鼻をすすった。
「あの時、突然テトラのことを思い出したんです。あんなに大好きだったのに。本当に、どうして今まで思い出せなかったんだろう」
「それは人間の脳が、記憶より忘却の方が得意な器官だからだろうね」
そこで感傷を思いきり現実に戻してくるところが、偏屈な館長らしい。予想外だったであろう回答にきょとんとしていた須藤さんが、ふと寂しそうな笑みを浮かべた。
「……まあ、そうかもしれませんね。今さらですが、ご迷惑をおかけしました。お二人とも助けに来てくださって、ありがとうございます」
改まった様子で立ち止まり、深々と頭を下げる。
「いえ。なにがともあれ無事で良かっ……」
「ちょうどいい。迷惑をかけた自覚があるなら、来週から曝書を手伝ってくれないか。私と相良君だけでは数ヶ月かかるんだ」
「空汽さん‼」
上がっていた株が急降下する。せっかく丁寧にお礼を言ってくれた人に、何故そこで辛辣なことを言ってしまうのか。
確かに奇書館の膨大な量の蔵書を点検するには、途方もない時間と手間を喰う。
人手が増えるのは有り難いけれど、タイミングと言い方をもう少し考えてほしい。
「手伝うのは構わないけど、その〝ばくしょ〟って何ですか?」
「蔵書の整理と点検のことだ。少ないが給料も出そう」
端的に答えた館長に、須藤さんはあわてて首を横に振った。
「そんな。ご迷惑をおかけしたのに、お金なんていただけません!」
「タダほど高いものはないというからね。きちんと給料は払う」
皮肉っぽいというか一言多いというか、空汽さんの話し方はいちいち所見殺しだ。
慣れていない須藤さんがしきりに恐縮している。こうして偏屈館長と並ぶと、彼の初々しさや人の好さが際立って見える。
失った記憶に苦しみ、眠れなくなるまで自分を責めた真面目で優しい人。でも私たちの世界はきっと、そういう人が一番損をする仕組みになっている。
あの白猫はそんな彼を見かねて、猫たちの世界へ須藤さんを誘ったのかもしれない。
「そのかわりと言っては何だが、この本を黄昏堂に寄贈してほしいんだ」
そうスーツの上着のポケットから、先ほどの灰色の本を取り出す。
「それで今回のことは手打ちとさせてもらいたいが、どうかね?」
「自分は全然かまわないですけど。でもその本、歯形がついちゃってますよ」
須藤さんが申し訳なさそうに、表紙のふちを指差した。一見わからなかったが、よくよく見ると丸く小さな穴が二つ並んでいる。
「テトラがくわえて走って行っちゃったもんだから。取り返そうと追いかけてたら、地下に迷い込んでしまったんです。真っ暗な倉庫みたいなところで出口を探していたら、いつのまにかさっきの場所にいて……」
その言葉で、ようやく今回の経緯が明るみに出た。けれど空汽さんはどうして、この本が須藤さんのものだとわかったのだろう。
「構わない。何だったら本の代金も支払おう」
空汽さんは歩きながら、灰色の本をパラパラとめくる。
私はなんとなく、それを横目で覗いて驚いた。わけがわからない文字で埋め尽くされていたはずのページが、ほぼ白紙になっている。
「いえ、本当にお金はいいです。第一その本、人からもらった物だし」
「もらった? 誰にだね」
空汽さんが怪訝そうに片眉をはね上げる。
「それが子供の頃のことだから、よく覚えてないんですよね。外国の本だと思ってたけど、どんな国の言葉とも違うし……」
「……そうかね」
いつになくしかめっ面で、灰色の本を見下ろす。
すると先頭を歩いていたクロが立ち止まり、こちらを振り返った。空汽さんも立ち止まり、すっと左手を宙にかざす。
「開門せよ、永劫廻廊」
聞き取れないほど低くかすれた声で、まるで呪文のように囁くと、かざした手のひらが青白く光った。目の前の暗闇を、四角く切り取るように光が差し込む。
そうしてぽっかりと口を開けた空間の向こう側には、見覚えのある景色が広がっていた。ずらりと並んだ背の高い書架に、鎖につながれた本の群れ。黄昏堂の地下三階、閉架書庫だ。
「さあ着いたよ。二人とも、長旅ご苦労だったね」
空汽さんはそう言って、書庫に足を踏み入れた。私も須藤さんも、、突然目の前に現れた部屋を、唖然と凝視する。
「……空汽さん。あなたは一体、何者なんですか?」
放心したように尋ねる須藤さんに、空汽さんは眼鏡の奥の目をすがめた。
「何者かと言われてもね。見ての通り、しがない私立図書館の館長だよ」
須藤さんが家に連絡すると、ちょうど仕事帰りだというお姉さんが車で迎えに来てくれた。空汽さんはあらかじめ、ご家族の方に「本人に寝かせてほしいと頼まれた」とシスター・マチルダを通して伝えていたらしい。
とはいえ閉架書庫の向こう側の世界で起きた摩訶不思議な出来事を話すわけにもいかない。須藤さんはずっと医務室で寝ていたと、三人で口裏を合わせた。
連絡が遅くなったことを謝罪すると、逆に「弟が長居して迷惑をおかけしました」と、かえってお姉さんを恐縮させてしまった。
気が抜けたのか、須藤さんはお迎えを待っている間にソファで眠ってしまった。
私やお姉さんが何度か起こしてはみたが、全く起きる気配がなかったため、空汽さんが抱きかかえて車に乗せた。
「須藤さん、これからは眠れるといいですね」
お姉さんが運転する軽自動車を見送りながら、空汽さんは小さくあくびをする。
「さあね。一番見たくなかった記憶を取り戻したことで、次は別の感情に苦しむのかもしれない」
ぼそりと返された言葉に、ハッとする。須藤さんが眠っている姿を見て、私は何となく問題解決したような気がしていた。けれど彼にとって重要なのは、むしろこれからなのかもしれない。
「……しかしまあ、あれほど爆睡できるなら大丈夫だろう。そもそも難病指定をされた致死性家族性不眠症を除いて、不眠症で死ぬ人間はいない」
「え、そこですか?」
浮世離れしているくせに、やっぱり空汽さんは妙なところで現実主義者だった。先ほどまで現実離れした「猫の世界」にいたことなど、微塵も感じさせない言い草だ。
「知らなかったのかね。不眠症それ自体に、死亡例は一件も報告されたことはない」
「……初耳です」
その点に突っ込んだわけではないが、それを指摘する気力も残っていなかった。
「君もご苦労だったね。送迎の車を手配したから、乗って行くといい」
「はい?」
思わず顔を上げたその時、一台の車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
黄昏堂の正門前、私と空汽さんの目の前で停車すると、運転席のドアが開く。中から小柄な男性が降りてきた。黒いスーツを隙無く着こなし、白髪をきっちり後ろになでつけている。年齢は六十代の前半くらいだろうか。
一瞬、空汽さんが気を聞かせてタクシーを呼んでおいてくれたのかと思った。しかし目の前の黒塗りの車と運転手さんは、どう見ても一般的なタクシーには見えない。
「あの、こちらの方は」
「彼はうちの施設管理者だ。ダンタ……」
何故か空汽さんはそこで一瞬口ごもった。
「……壇という。雛壇の壇、という字を書く」
「ご紹介にあずかりました、壇と申します。以後、お見知りおきを」
壇さんは小柄な体を折り曲げ、深々と頭を下げる。
つぶらな垂れ目が印象的な、優しそうな顔には見覚えがあった。時々、黄昏堂の庭を手入れしている庭師さんだ。てっきり出入りの業者さんだと思っていた。
だから挨拶程度はしていたけれど、こうして面と向かって話すのは初めてだ。
「司書の相良です。よろしくお願いします」
「色々と聞きたいこともあるだろうが、今日は帰ってゆっくり休むといい。疲れているだろうから、明日は休みにしておくよ」
空汽さんが私の上着と鞄を壇さんに手渡す。壇さんは荷物を受け取ると、後部座席の扉を開けて私を振り返った。
「どうぞ、相良さん」
一見さり気ない気配りだが、何も言わず帰れと言外ににおわされたような気がした。
もう電車もバスもない。今からタクシーを呼んでも時間がかかる。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、明日は有給を頂きます」
空汽さんに聞きたいことも、言いたいこともたくさんある。でも今はもう立っていることすらしんどかった。早く自分の部屋で、目覚ましをかけずに眠ってしまいたい。
「今日は色々と……助けに来てくれて、本当にありがとうございました」
車に乗る直前、改めて頭を下げる。
顔を上げると、虚をつかれたような顔で私を見下ろす空汽さんと目があった。
「礼をいうのは、私の方だろう」「え?」
「それでは、扉を閉じます。お手元、お足元にご注意ください」
目の前のドアがひとりでに閉まり、壇さんがバックミラー越しに私を見る。
「お手数ですが、安全のためシートベルトをお締めください」
座席のシートはなめらかな革の手触りがして、雲のように柔らかい。私がシートベルトを締めると、壇さんはエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させた。
角を曲がる前、ふと気になって黄昏堂を振り向く。黒ずくめの館長は手を振ることもなく、夜の闇に溶けるように、門の前でぽつりと佇んでいた。