彼女の正義と耐える世界
「いいの?メッセージ来てるけど。」
抱き合った格好のまま、彼女が僕越しにスマホを閲覧しているようだ。
僕の視界は甘栗色に染められ、鼻先をくすぐる彼女の髪から優しく香る淡い薔薇のような匂いに包まれている。この幸せを堪能する他ない現状からすれば、そのメッセージの優先度は限りなく低いと言わざるを得なかった。
「あー。いいよ」
こんな夜更けに、どこの誰が僕に向けてメッセージを送信するのか。とか言いつつも、相手に心当たりは無い事もない。ただ、その想定だとここで応対してしまうのは結構な確率で面倒な事になる。……気がする。
「ねえ、これ誰?」
顔の近くに寄せられた僕のスマホには、見慣れたSNSアイコンとショートメッセージ。
海岸沿いに佇む女性の写真が「今なにしてんのー?」と噴き出しを飛ばしている。ついでに首を傾げるデフォルメ化された熊のスタンプがひとつ。
まずいかもしれない……。
神様ってのはイタズラ好きで、随分と暇なやつで、まるで無邪気に蟻で遊ぶ子供のようだと思った。
近所の公園には日中、神様が何柱も駆け回ってる。
「会社の同期だよ」
さしあたっての問題は、訝しむ彼女への誠意ある対応だ。
まずは事実の提示。誰も傷つかないのは勿論、罪悪感もない最高の一手だ。
「仲良いの?」
……とまぁ、関心は消えないよな。はいそうですかで終わればどれだけ簡単だったろう。
仲か。素直に"良い"、と言えば"良くない"事が起こる。しかし"悪い"と嘘をつくのは悩ましい。意味の無い嘘しか付かない主義だからね。"嘘をついた"という事実は後々を考えると相当なリスクを孕んでいる。出来うる限り「嘘」のカードは切りたくない。
となれば、頭を捻り嘘に抵触しない言葉を選び続けるゲームに興じるとしよう。
「愚痴に耳を貸してあげるだけの関係だよ。彼女は不満をストックできる容量が人より少ないから、定期的に共有してあげないと爆発してしまうのサ」
HAHAHA。アメリカンな笑い方で軽い雰囲気を演出し、軽すぎてそのまま糸の切れた風船のように空を飛んで雲と共に流れろと祈った。
「それだけ?」
飛びかけた風船に10tトラック括り付けたやつは誰ですか。先生怒んないから正直に手をコラー!
僕の肩に乗っていた彼女の頭部の重量が消え、彼女の双眸が少しの表情の変化も見逃すまいと僕の目の前に現れる。
警戒が緩まないな。浮気チェックは複雑化する一方で、追求攻撃が弱まる様子はない。
「うーん、まぁでも能力は高いし尊敬もしてる。性格も明るくて良い子だよ、君と出会っていなかったら可能性はあったかもしれないね。でも僕には君がいるから、そんな可能性は一生起こりえない」
ここはある程度白状してしまおう。そしてしっかりフォローしよう。誤魔化し作戦は早めに見切らないと地獄を見るからね
「ふーん。その子名前は?」
おや。これは意外。
「君が人の名前に興味を持つなんて珍しいね」
「うん、浮気するようなら殺さなきゃいけないから。覚えておかないと」
あら。なるほど、意外でもなんでもなかった。
こういう用意周到な所は素直に尊敬する。考えられる事は、すべて考えて行動しておく主義、なのだそうだ。
「僕、君のそういう所すきだよ。名前はコレね」
スマホを操作し、同僚のプロフィール画面を映す。
「あっさり教えるんだ」
少しばかり驚いた顔を見せる彼女。
隠す必要もあるまい。浮気なんてしないし。万が一、僕の与り知らぬところで情報操作されて浮気したという話しが彼女の耳に入ったら、あるいは僕のドッペルゲンガーが生まれて同僚ちゃんとくっついたら、もしくは彼女を守るためにどうしてもせざるを得なくて。そんな状況になったとしても。
「まぁね。僕に関わりの無いことだし」
という事だ。
「仮定の浮気相手になるほどイイ子なのに?」
しっかり妬いてくれてたようで、言ってみて良かったと思う。
少しばかりニヤリと頬が緩む。
「だってほら、その前に僕が死んでるだろ?死んだ後の世界がどうなろうと知りようがない」
考えなくていいことは、考えない主義なんだ。
「ふふふ。私をよく分かってる、そういうところ好き」
うわーやったー。両思いだー。
ぐはーやられたぜー
そんな休日を無為に有意義に過ごし満喫した3日後。
僕は仮定の浮気相手に会いに行った。
「あれ、わざわざ来てくれたんだ。」
少し嬉しそうにする同僚の女の子。
「ん、まぁね」
「こんな時間に来て、平気なの?」
「適当な事言って出てきたけど、大丈夫でしょ。これ、食べて」
僕は持ってきたフルーツ類を雑にベッド横のテーブルに置き、無造作に腰掛けた。ギシリとベッドが軋む。
「わ、嬉しい。ありがとう!」
そう言う彼女は手を伸ばすも、左足の拘束具のせいで思うように体が動かせないようで、虫のようにもがいていた。
哀れすぎたので、以前好物と言っていたリンゴを手に取り、持ってきていた果物ナイフで皮を剥いてやる。
「怪我は治りそうなの?」
「んー、あと1ヶ月はこんな感じらしい。」
体の所々を包帯で巻き、骨折の酷い右腕と左足はもはや柔軟に動かせないほどにガチガチに押し固められている。
原因が僕にあるとは、露ほどもしらないんだろうな。
「そっか。災難だったね、階段から"落ちてしまう"なんて」
足を滑らせて、駅の階段を転げ落ちた。何を思ってか、そう証言しているらしい。
あるいは本当に賢いこの子は、うっすらと分かっていたりして。
「仕事しなくて済むし、ゆっくり休みなよ。人間、ほどほどに息を抜かないとね」
そう言い残し、居心地の悪くなった僕は立ち上がった。
「お昼休みに抜け出して来るような人が言うと説得力あるねー」
ひらひらとこちらに元気な左手を振り、にこりと笑う。
なんと言うか、やっぱり良い子だ。
「またね」
その言葉に、僕は目を合わせずにお別れを言う。
君が壊されてしまわないように。
「さよなら」
もう、会うこともないだろう。
カテゴリに恋愛なんて、とてもじゃないけど付けられないよね。