延命あげは
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
君は長生きをしたい人だろうか?
僕はそんなに長く生きていたくないなあ。この数十年で、自分なりには何度死を選んでもおかしくない修羅場を、潜り抜けてきた実感がある。ニュースとかでも自殺してしまう人のことを聞くと、「戦ったんだなあ」と思っちゃうのさ。
高齢者を敬うっていう概念も、その根源の一端はここにあるんじゃないかと思う。肉体的、精神的に、僕たちを追い詰めて首を刈らんとしてくる、数々の死神たち。それらに屈することなく、あの御年まで命を永らえてきたんだ。もう生きているってだけで、英雄じゃないか?
昔に比べると、私たちの寿命はだいぶ延びている。定年後の時間を有効に活用しようと試みる、セカンドライフなども、聞くようになって久しい言葉だ。けれど……その命、うす〜く引き延ばされただけだとしたら、どうする? 衰えた身体を引きずり、輝く精神の可能性を愚直に思う自信が、自分にはあると、君は本当に思っているだろうか?
ひとつ、長命に関する話を、聞いてみないかい?
我々人間は、命に限りがあることを常に自覚していた。だからこそ、その証を残すことに、やっきになった人々がいるのは、知っての通りだろう。
自分の学んだ技を弟子や書物などに託し、後世に己の精神の命脈をつなごうとする者もいる。逆に華々しく散って、自分の生き様という肉体の躍動を、居合わせた皆へ鮮烈に刻み付けんとする者もいる。
だが、いずれも自分が与えた影響を、直にその目で確かめることはかなわない。たとえ死にゆく先が、天の上でも地の下でも、この世を見渡せる術がそこにあるとは限らなかった。
確かなのは、今、自分が持っているまなこと、その視界。そのため、死んでしまうことを良しとせず、この世にいられる時間をできる限り伸ばすという考え。「養生」を考える人々が現れ始めることになった。
とある楽隠居もまた、長命への願望を持つ者だった。
娯楽を探求する彼にとっては、猿楽の鑑賞もまた、重大な使命のひとつ。しかし、自分が昔から追いかけていた役者も、老いとともに舞台を去り、また新しい役者が後を受け持つことが多々あった。
同じ演目でも、演者次第で趣が異なってくる。その千変万化する趣のすべてを味わいたいと切望する彼だったが、すでに両親を見送り、病と戦によって、もともと8人いた自分の子供は、半数がこの世を去っている。
――人はいずれ死ぬ。だが、自分が関心を持つもの。自分とつながりを持つもの。そのすべてが完全に絶えてしまうまで、どうにか生き続けたいものだ。
彼は自分こそが、長く続く歴史の生き証人になりたいと、願うようになっていた。自ら手を下し、意のままに歴史を作っていける英雄ではなく、川の流れを橋の上から見下ろす通行人のように、命を見渡す者としてあり続けたい、と。
どうすれば、その大役を果たすだけの命を得ることができるのか。彼はその手掛かりを、自分が住まう家の裏手にある、大楠に求めた。
先祖代々、自分の一族を見守る続けたという大楠は、樹齢千年とも、二千年とも伝わるもの。その生命力はどこから来ているのか突き止めることが、彼の目的だったんだ。
彼はその一年間、あれほど好んだ猿楽をぐっと我慢し、その時間をすべて大楠の観察にあてた。天気の良い日は、その根っこの付近から。天気の悪い日は大楠に面する家の窓から、すきあらば視線を注いだという。
夏に無数の小さい花が咲き、秋に実をつけ、冬の間も緑を守り通し、春の息吹が過ぎ去ろうとする時、一斉に葉を赤々とさせながら散らし、新しい若葉たちを迎え入れる……。それらが始終、特徴的な臭いに包まれて、穏やかに推移していく。
泰然自若に過ごしていく楠に対し、楽隠居はなかなかその長寿の秘訣を探り出すことができない。いまひとつ、決め手を欠く変化の数々を眺めているうちに、体調を崩したてしまった日が、何度かあったんだ。
――淡々とした時間の中では、「芯」は探れぬ。演目と同じだ。苦境、異状……それらに接する時こそ、ことの真価が垣間見える。
安穏の秘訣を得るため、異変の来訪を待ち望む。何ともちぐはぐな狙いを帯びた時間が過ぎていく。
数年後、ようやく彼はそれと思しき瞬間に立ち会った。
これまで夏に多くの花を咲かせてきた楠が、その年は葉を茂らせたまま、ほんの爪の先ほどしかない小さい花を、ひとつもつけることがなかったんだ。もしや、と思いつつ秋まで見守っても、やはり実をつけるには至らない。
ついに枯れる時が来たのか、と待ち受ける楽隠居は、一日一日を待ち遠しく過ごすうちに、楠へ寄ってくる珍客を目にすることになる。
広げた手のひらほどの大きさで、頼りなくふわふわと上下動を繰り返し、近づいていくのはあげはちょうだった。黒地の羽には黄色と白を基調とした筋や斑点がいくつも見られ、毎年、見かけるものと大差ない姿。
しかし、一羽がふらふらと楠へ近づくと、それを追うように一羽、更にもう一羽と現れて、楠の幹へととまっていく。やがて、その太い胴回りの一部をぐるりと、数えきれないほどのちょうが、こも巻きのように覆っている。彼らは幹に足をかけたまま羽を緩やかに上下へ動かし続けていた。あたかも、花の蜜を吸っているかのような印象を、彼は受けたという。
――だが、彼らが今まで、楠の花の蜜を吸っているところは見かけなかったぞ。ましてや、今年は花も実もつけない、ただの老木が相手だというのに、この執着ぶりはいったい……。
たっぷりと一刻(二時間)ほどとどまった彼ら。今度は波が引くように、ざざっと各々が空へ舞い、飛んでいく。それぞれの身体の影によって、楠は隠され、現れてを繰り返し、すっかり彼らがいなくなると、心なしか茶色い肌に、かすかな輝きが戻ってきたような気がしたとか。
彼らが何か、楠へ力を与えたのではないか。一連のできごとを見守っていた楽隠居はそう感じ、実際に推測は当たることになる。
翌年。楠は楽隠居が見守り続けたここ数年のうちで、最大の実り具合を見せた。計測も行っていた楽隠居は、余る時間に任せ、夏に咲いた花の数、秋についた実の数も数えてみたが、いずれも数年間の成果の中で、頭一つ抜けた首位。同じ樹が為せる技だとは、とうてい考えられなかったという。
――あの、あげはちょうたちが樹をよみがえらせたんだ。あれらと接することができれば、命を取り戻せるのかもしれない。
楽隠居はそう考え、再び、あのあげはちょうたちを待ち受けるべく、楠の根元に屋根のついた小さな天幕を用意し、そこへ住まうようになったんだ。
それから、楠が復活を遂げて三年。楽隠居が観測を始めて十年が経過した時のこと。
再び楠は、花も実もつけないまま、秋が訪れようとしていた。待ち望んでいた状況に、楽隠居は胸を弾ませながら、ちょうたちの訪れを待ち受けたんだ。
やはり、彼らはやってきた。あの時と同じように、次から次へと楠へ集まってくる彼らは、楠の幹を取り巻くと共に、今度は併設された天幕の近くも、ふわふわと浮きながら取り巻いている。
――このちょうたちに触れることができれば、命を取り戻せよう。そして悲願を果たすことができるかもしれない。
楽隠居は天幕から躍り出る。ちょうの囲みは、その驚きようを示すかのごとく、瞬間、その輪を広げた、けれどもほどなく、元のように縮まり出し、ゆったりと楽隠居の周りを舞ったかと思うと、次々にその服の袖へ取り付いていった。
望んだ時を迎えた楽隠居は、せっかくの機会を逃すものかと、地べたにあぐらをかいたまま動かない。ちょうたちのとまるに任せ、じっと時を過ごす。楠にする時と同じく、服の上で羽を上下させるちょうたちだったが、楽隠居はさほど違和感を覚えることはなかったという。
しかし、ちょうたちが去った後で、異変は起こった。
確かにちょうがとまる前に比べ、身体中の疲れが取れている感覚がある。けれど、楽新居はその場から一歩も動けなくなっていたんだ。
彼が地面と触れていた足の部分が、どうにも持ち上げられなくなっていた。大声で人を呼び、助け起こしてもらおうとしたが、結果は変わらず。十数名の人が力を込めて臨んでも、微動だにしなかったという。
集まった人々の力を借りて、どうにか知人たちへ連絡を取った楽隠居。彼らも力を尽くしたがやはり一歩も動かせず。待つより他になくなった楽隠居は、せめて手が動くうちに、と紙と墨を所望。これまでの顛末、およびこれからの記録を書き残そうと努めたそうだ。
命が新しくなったと思しき楽隠居の身体は、食事や排泄を必要としなくなっていた。ただし、どのような暑さ、寒さ、悪天候の下でも逃げ出すことはかなわず、すべてを受け止める羽目になってしまう。
服に関しては、上着こそ、他の人が運んでくれればどうにかなるものの、下はどうにもならない。半年が経つ頃には、鼻をつままねば近づきがたいほどの異臭を放つようになったとか。
それ以前も、それからも、楽隠居を引っ張り上げようとする試みは繰り返されたが、功を奏することはなし。足と地面の間に、細い刀身を差し入れて、くっつけているものを絶とうとしたこともあったが、ろくに滑らせることもできないままとまってしまい、足と地面に挟まれたまま、折れ砕けてしまう始末だったとか。
初めの一年こそ、面白がってみんなが集まったが、以降は楽隠居の血縁や知人のみ。それもじょじょに見せる姿を、減らしていってしまった。身体を拭いてくれる者さえ絶えた楽隠居の髪も服も、乱れに乱れ、のぞいていた肌は茶色く、しわだらけになっていく……。
そんな自分の体の様子を延々と記し、楽隠居の手記は終わりを告げる。手記を回収した家族によると、楽隠居の座っていた場所には、もはや彼の身体はなかったそうだ。
代わりにそこには、背が低く、若々しいいでたちの楠が、たたずんでいるばかりだったという。