初体験
湊
間に合わなかった。
あんなに一生懸命に自転車を漕いだのに、必死になって走ったのに。
後悔が。
あそこで信号にさえ捕まらなければ、駐輪所を南側にさえしていれば、もしかしたら……。
……けど多分信号をスムーズに通過できたとしても、自転車を南側の駐輪所に停めたとしても、それで十分も時間が変わるわけじゃない。
『ながぐつをはいた猫』の上演中のはず。
結城くんが私に観てほしいと言っていたのは、別の作品、彼が創った紙芝居。
苦しくなってくる。
ここに来るまでに全力だった。普段は使わない力を全部出し切った。まだ息は上がったまま。呼吸するのが辛いし、脚も重い、痛い。
けど、それ以上に心が締め付けられるように苦しい。
結城くんは私の紙芝居の完成を報告に来てくれた。学校内で私に話をすると先輩にまた目を付けられてしまうかもしれないのに、それによってまた酷い目にあう可能性があるのに。
それでも私に紙芝居の完成を伝えてくれた。
それに応えたかったのに。
それなのに、結果は間に合わなかった。
別に今の上演でこの先未来永劫紙芝居はしないということはないはず。来週もまたここで上演されるはず。
だけど……。
不甲斐ない、悔しい、情けない、申し訳ない。
視界が歪んでいく。
涙が勝手に落ちていく。
航
藤堂さんの涙が見えた。
紙芝居を上演する時は眼鏡を外しているから、裸眼では絶対に見えない距離に藤堂さんはいるはずなのに、潤んだ瞳から流れ落ちていく涙が見えた。
そしてその瞬間、間に合わなかったことを泣いてくれているんだと思った。
ならばその涙に報いたい。懸命に走ってきたことは無駄じゃなかったと伝えたい。
が、今のこの状態であの紙芝居を上演することが可能なのだろうか。
さっきの紙芝居を本日最後の上演のつもりでしていたから、もう声と喉がボロボロ。こんなんじゃ絶対に藤堂さんを楽しませることなんか、悦ばせることなんか不可能。
俺が希望するセックス、紙芝居の上演なんか無理。
どうしよう?
迷う。
自分のことのはずなのに、決断できない。
藤堂さんから視線を外し、横にいるヤスコを見てしまう、咄嗟に助けを求めてしまう。
何も言わないでヤスコは俺の顔をただ見ているだけ。
普段は余計なことばかり言うのに、こんな時のヤスコは絶対に指示を出したりなんかしない、自分で考えて決めろと言うはず。
そんなことは骨身に沁みて判っているはずなのに、どうして助けなんか求めてしまったんだろう。
ヤスコの顔はこの状況を楽しんでいるようにも、好きにしろとも言っているようにも見える。
つまり、判らない。
ヤスコから視線を外し、再び藤堂さんを。
さっきはハッキリと見えていたのに、今度はぼやけて写る。
それでもまだ泣いていることだけは判る。
その涙を晴らしてあげたい、微笑ませたい。