おまけ 4
湊
土曜日のお昼過ぎ、ヤスコさんの運転する車で例の自転車屋さんに。
今日はこないだとは違って結城くんも車に同乗。
一緒の車に乗るのはちょっとうれしいけど、でも少しだけ不満が。
それは結城くんの座っている席。
結城くんは助手席で、私は一人後部座席。
どうせだったら隣同士で座っていたいような気もするけど、もしそうなっていたら多分、というか絶対に心臓がどうにかなるくらい速くなっていたはず。
それに軽自動車だから、もしかして狭い車内で体が触れておかしな状態になっていたかもしれない。
だから、これで良かったのかも。
でも、いつの日か一緒に肩を並べて、そして体が触れるくらいに位置で車に乗ってみたいなと考えていたら、いつの間にか自転車さんに到着していた。
航
「あれ? 航くん、身長が急激に伸びたんじゃなかったの?」
ショップのドアを開けた早々に、店長の古河さんに言われる。
なんで俺が急成長したと勘違いしたのか、そのことに対する回答を頭の中で導き出したとほぼ同時のタイミングで、古河さんの声が再び。
「俺はてっきりあのロードに航くんが乗るとばかり思っていたんだけどな」
そう、あの時ヤスコはロードバイクのことを話していただけ、誰が使うかまではちゃんと説明していなかった。
「じゃあ、アレに誰が乗るの? というか、航くんいいの?」
「……うんまあ……藤堂さん入って」
まだドアの外にいる藤堂さんを店内へと招き入れる。それから、
「藤堂さんが……彼女があのロードに乗ることになったんだ」
まだちょっと未練のような感情が俺の中に残っているけど、それでも藤堂さんに乗ってもらうと決めたんだ。
「そうか。……まあ、航くんがそう決めたんなら俺がとやかく言うことないよな。それに、この子ならサイズはほぼピッタリだし」
長年の商売の勘のようなものなのか、古河さんは一目で適応するサイズを見抜くことが。
「うん、俺もそう思う」
湊
ヤスコさんが車を駐車場に停めに行っている間に結城くんは店内へ。
どうしようか? と、迷っているうちに中から結城くんが呼ぶ声が。
自転車さんの中に。
お父さんと同じくらいの歳の人と結城くんが会話を。
その奥には、白色からピンクへとグラデーションしていく自転車が。
まるで桜のはなびらみたいで、
「きれいな色」
航
藤堂さんの呟きが俺の背中に。
まあそうだよな、普通は。
形とか色に目がいくよな。
でも本当は、そこだけじゃなくてもっと別の部分のも興味を持ってもらいたい。
カイセイ4130Rのパイプを使用したフレームに、美しいラグのデザイン、コンポには7700系のデュラエース、そしてホイールはデュラのハブを使った手組の物。
他にもあの人のこだわりが結構詰まっている一台なのだが、そのことを説明してもあまり理解してもらえるとは思わない、さらにいうと興味のない人間に延々と話しても煙たがれることをこれまでの人生で幾度となく経験している。
「けど、どうしてピンクなの?」
そんなことを考えていた俺の耳に藤堂さんの声が。
確か教えてもらった記憶がある。
「それは、パンターニ……」
伝説のクライマー、マルコ・パンターニの名前を口に出した瞬間、俺の脳内にパンター二の映像が浮かんでくる。あれ? パンターニはこんなカラーのバイクには乗っていないよな。一番有名なのは98年のツールのだけど、それはチェレステに黄色だし、その前のジロのカラーも違うはず……。
……だったら、この色は何処からきたんだ?
「古河さん、知ってる?」
「いや、俺も出来上がったフレームを組むの手伝っただけだから、何でこの色にしたのかは聞いていないな」
「それはね、アイツの若気の至りの色なの」
車を駐車場に停め、遅れて入店してきたヤスコが。
「どういうことなんだ?」
「演劇をやっている人間はアカ、共産主義って言われていた時代が大昔にあったのよ。今じゃそんなこと言われないけど、それでも私達よりもちょっと上位の世代は、偶に年配の人から言われることがあったらしいし、それに演劇関係者でも中にはそういう思想の連中もいるのよ。まあそういう人は大抵古い人なんだけど、その人らと揉めたのよ、アイツ。その時からイメージカラーを桜色にしたの。反発心というか、その手の古い人間を皮肉るために。それまでは海外好きだったけど、一転して日本大好きになったしね」
知らなかった。
芝居をしていた人間がそういう目で見られて時代があったことも、それからあの人がそんな古い人間とやり合っていたなんて。
「それでか、なるほど」
合点がいったかのように古河さんが。
「何がなるほどなの?」
「いや昔は、カンパで組むのが夢とか言ってたんだよな。それがいざ組む時には絶対にシマノにするって意見を翻したからさ」
カンパというのはカンパニョーロ、イタリアのメーカー。
「それがどうしたの?」
と、これはヤスコ。
「国内メーカーに拘ったわけだ。そういえばさ、GOKISOのハブでホイールを組もうかという話もあったんだけど値段が折り合いつかずに、結局俺の使っていたのを流用したんだよな」
GOKISOというのは国内のパーツメーカー。性能はすごく良いけど、価格がお高めで有名。でも、憧れのメーカー。
ちょっとだけ古河さんと自転車談義と昔話で盛り上がってしまう。
だけど話をするために来たんじゃない、今日の主役は藤堂さん。
このまま 放置とまではいかないけど、それでも一人蚊帳の外状態にしておくのは。
全く話についてこれずに、店内を所在なさげに見回しているし。
いきなり乗るなんてことはできないから、まずは跨ってもらって、それからポジション出しを古河さんにしてもらおう。
湊
「……あの……この自転車って……お幾らぐらいするものなんですか?」
店内を見ている時に、ふと売り物の自転車の値段が目に飛び込んできた。
私がほぼ毎日乗っている自転車よりも数倍も高いのばかり。あの自転車だって、お父さんが三年間使うものだからと言って、高くて丈夫で、そして安全なものを選んで買ってくれたのに。
「えっと……古河さん?」
結城くんも知らないみたいだ。
「たしかフレーム以外は以前の物を流用したり、俺とか他の連中の古いパーツを譲り受けて移植したりしたし。工賃もいらないくらい、ほとんど自分で組んだからな……ホイールは俺が手組したけど。でも安いよ。フレーム代金の二十万ちょっとくらいかな」
私の自転車の五倍もの値段。
そんな自転車が安いだなんて。
そんな自転車に……。
「……乗れません。……やっぱり結城くんが乗ったほうが」
そう、そんな高価で大事な自転車は絶対に結城くんが乗るべきだ。
「残念だけど、そうもいかないのよ湊ちゃん」
「どういうことですか?」
ヤスコさんの言葉に聞き返す。
「航、ロードバイクの横に立ちなさい。……ほら、早く」
最初は言うことを拒んでいた結城くんだったけど、促されて渋々移動を。
細身のかっこよくて、そしてきれいな自転車と結城くん。
合っていると思うのにな。
「脚の長さが足りないでしょ。上のパイプ、トップチューブって言うんだっけ、それを跨ぐくらいじゃないとサイズが合わないらしいの。詳しいことは知らないけど、ロードバイクという代物はサイズが合っていないと、ビックリするくらい乗り難くて不快になるらしいのよ。ね、古河さん」
「うん、小さいフレームなら工夫の余地は結構あるけど、大きいのは難しいからね」
「だから、気にせずに乗りなさい」
「……でも……」
それでも気が引けてしまう。高価な物ともいうのもあるけど、それ以上に結城くん差し置いてというのは。
「ほら、航も、アンタもなにか言いなさい」
「このままにしておくよりも藤堂さんに乗ってもらいたい。あの人なら、道具は使わないと意味がないって言うはずだし。……それでこれは俺の勝手なお願いだけど……この先もし、俺の身長がこのロードに乗るのに適するくらいまで伸びたら、その時は返してもらいたい……だから、その間は藤堂さんにあずかってもらいたい」
「……うん」
大事に、大切に乗るから。そしていつの日か結城くんにこの自転車をバトンタッチする。
その日を、私の身長に結城くんが並ぶ、追い越す日を楽しみに待っている。
「それで古河ちゃん、今からこれに乗れるの?」
「乗ることは可能だけど、まさか女の子とは思ってもいなかったから」
「女なら問題でもあるの? 身長的には問題ないんでしょ」
「スプロケはジュニアカセットに交換してあるからムチャクチャ重すぎるということはないはずだし、フロントも52-39だけど慣れるまでインナーギア中心で走れば行けると思う。山や峠に行かなければ問題ないはずだけどな。でも、サドルがね」
「サドルなら、あるじゃない」
「ああ、そうか。骨盤の形状が異なるから女性用のサドルがあるんだったんだ」
ヤスコさんと店長さんの会話に結城くんが。
「何、乗れないの?」
「乗れないことはないけど、結構痛みや違和感が出るらしいから、ウチで買う女性のお客さんにはレディースサドルをお薦めしてるんだ」
「だったらソレに交換してよ」
「在庫がないんだ。それにまあ種類もあるし、合う合わないもあるし」
「どんなのがあるのよ?」
「えっとね……ちょっと待ってて」
そういうと店長さんは店の奥へと。しばらくしてから数冊のカタログを持って。
世の中にはこんなにもいろんな形の自転車の椅子があるんだ。
それに、ものすごく高いのもあるし。
「気に入ったのあった?」
「……これなんか……でも、高いんですよね」
白地に水色のラインの入ったかわいいの……でも、高い。私のお小遣いでは、ちょっと。……他の買える範囲の物にした方がいいのかな。
「じゃあ、古河ちゃんこれ頂戴」
悩んでいる私の耳にヤスコさんの声が。
「これを注文でいいの?」
「違う。頂戴。サービスしてよ、ほらこないだ手伝った時のバイト代ももらっていないんだしさ」
「いや、これだと完全にこっちが赤字になる」
ヤスコさんと店長さんの攻防が。
そんな中で結城くんは展示してある売り物の自転車を楽しそうに見て回っている。
私もよく分からないけど、その横で一緒に。
私のためにヤスコさんが奮闘してくれている中で申し訳ないような気持ちもあるけど、それでも好きになった男の子の横にいられる幸せをちょっとだけ楽しんでいた。
攻防の結果、サービスしてもらえるということに。おまけにバーテープいうものまで。
その代わり、お店の宣伝のモデルに私がなることがいつの間に決まってしまっていた。
 




