8. 田舎の休日は、車が必需品!
翌朝、俺はせっかくの休日なのに五時に起きてしまった。
もう体内時計が起床時間を変更してしまったのか。部屋の中が寒いので、ひとまず温かな毛布を被って二度寝する。
皆さんもう起きて仕事してるのかな。壁も床も薄いので、階下で赤根さんが大声を出しているのがはっきり聞こえる。「おれ一人で定植とか無理!」とか、「九条、納品書どこ置いた?」とか喋りながらバタバタと忙しなく動き回っている。
それに覆いかぶさるような九条さんの小言と、朝食を作る包丁のリズム。なんだか寝ているのが申し訳ない。
昨晩赤根さんは、那須くんをはじめとするバイトの皆さんがいるから仕事の方はどうとでもなると言っていたけど。まあ、俺ごときがいなくたって仕事はスムーズに進むか。
落ち着かなくてトイレに起きると、階段下で芹沢さんと鉢合わせた。おはマッスル。
「おはようございます……」
「おはよう。今日は何か、オレに頼みごとがあるらしいな」
会って早々、そう切り出された。ああ、これは赤根さんが何か根回ししたんだな。
「あ、えっと、実は俺、三度の飯より温泉大好きでして。この近くに有名な温泉があると聞いて、ぜひ地元の方に案内してほしいなーと……」
「そうか。オレは地元の人間ではないが、この家で一年以上過ごしているから近隣のことは大体知っている。一緒に行くか。ついでに名物のそばも食おう」
「わあ、やったああ」
台本通りことが進み、俺は大根芝居で喜びを表した。
赤根農園がある山村市は、バラ公園と板そばを観光資源として大々的に打ち出しているらしく、駅前の案内板にもでかでかと書いてあった。
俺はどちらかといえばそばよりラーメン派だが、『名物手打ちそば』の看板を目にすると食べたくなるのが人間の食欲心理というやつで。温泉にそばという渋好みの組み合わせも、中々いいんじゃないかと楽しみになってきた。
ダブルでお休みをもらった俺と芹沢さんは、朝食を食べ終えてから出かける支度を整え、そろって車に乗り込んだ。
さあ出発……しようとしたら、後ろから走ってきた赤根さんによって後部座席のドアを開けられた。ドスン、と段ボールに入った結構な重さの荷物を置かれて車体全体が軽く揺れる。
「芹沢、飲食店からの注文忘れてた! ちょっとこれチェッポに届けてきて!」
「分かった」
芹沢さんは理解したようで、すぐさまアクセルを踏んで出発した。みるみる赤根家から遠ざかり、最上川の上にかかる橋を通過する。
今日も綺麗ですなあ、最上川。朝日を浴びて白くきらめく水面は、底の砂利が数えられるほど透き通っている。信濃川よりも水質がいいような気がするぞ。
景色を見てばかりいるのもなんなので、気になっていたことを尋ねてみた。
「あの、チェッポってなんですか?」
「ああ、なじみのイタリア料理屋だ。メニューにうちの野菜を使ってくれている」
その答えを受けて、試しにスマホで『チェッポ 山形』と検索してみるとそれらしい店のサイトが出てきた。
『山村プラザ1F、洒落た雰囲気のイタリアンレストランです。地元産食材を使った、こだわりの創作メニューをご賞味ください』
――『洒落た雰囲気』って自分で言っちゃったよ。自画自賛か。でもまあ確かに、これは洒落てる。木目調のクラシカルな調度品が目を引く店内写真に、俺のお洒落センサーがびんびん反応した。いかにも若い女子が好きそうな店だ。
女子ってイタリアンも野菜も好きそうだし、絶対どこかに出会いのチャンスが転がってるだろ。もう少し格好に気を使えば良かったと、己の身なりを反省した。
今の俺はといえば、無難な黒いパーカーにジーンズという洒落っ気の欠片も無い中学生男子のような服装である。寝ぐせの残った髪に、大きめのショルダーバックも絶妙にダサい。
それにひきかえ後部座席に鎮座している野菜たちは、これから麗しき異国の料理に変貌するのだろうから非常に羨ましい。どうか俺の分まで華麗にドレスアップして、女性たちの舌を喜ばせてほしい。
「こんな素敵なレストランに野菜を使ってもらえるなんて、夢が広がりますよね」
「そうだな。飲食店に卸す野菜は袋詰めしなくて済むから、楽だ」
あ、そっちの意味でありがたいのか。確かに、スーパーに並べる分とは違って注文された分を段ボールに直接詰めて持って行けばいいもんな。
学校や老人ホームに野菜を卸す契約ができればもっといい、と芹沢さんはさらに続けた。やはりこの人も、スーパー用にちまちま袋詰めするのが嫌だったようだ。
野菜を大量購入してくれる場所があれば、こちらの仕事も格段に減る。赤根さん、何卒ご検討ください。
会話が途切れ、しばらく車内には静かな時が流れた。芹沢さんは無口な人だが、沈黙が続いても不思議と気まずい雰囲気にはならなかった。
気まずかったのはほら、那須くんとスーパー巡りした時。あの時はどんなに換気しても「あれ、ここもしかして毒ガス流れてる?」と錯覚するほどの息苦しさだった。
国道を突っ走って市街地に入ると、次第に車通りが多くなってきた。通学中の学生たちから迸る青春の輝きは俺にとって猛毒で、過去の傷口が開かないよう目を反らして平静を装った。俺のおかしな動きに芹沢さんが反応を示す。
「天見、何が気になる物でもあったか?」
「い、いえっ。あ、あの西沢バラ公園のバラってたぶんもう散ってますよね。惜しかったなー、見に行きたかったのに」
「そうか。夏と秋には満開になるから、見たければ来年の夏まで待てばいい」
時々見かけるバラ公園の案内板には、山村市のゆるキャラであるバラの妖精・ヤママが描かれている。来年の夏まで、俺はここで頑張れるのだろうか。目標とか未来のビジョンとかが全く見えてこない。来年の自分を想像してみても、濃厚な白い靄がかかって何一つつかめそうになかった。
昭和を感じさせる布団屋やら判子屋やら和菓子屋を通り過ぎた先に、突如として地方都市に似合わぬガラス張りのハコモノが出現した。あれが謎の施設「山村プラザ」か。こんな田舎町にあんなデカい建物おったてるなんて、どういうつもりなんだ。少々贅沢すぎないか。
思わずこの街の財政状況を心配してしまうほど洗練されたビルディングの中には、児童館や図書館、会議室、その他謎のルームたちが詰め込まれているらしい。イタリアンレストラン「イル・ディ・チェッポ」は、山村プラザの一階に店を構えていた。
駐車場で車から降りた俺は、荷物持ちを買って出た。野菜満載の段ボールを抱えて芹沢さんの後ろを歩く。彼は山村プラザに入って、開店準備中のチェッポの前で店主に電話をかけた。しばらくしてシャッターが内側から開き、店主が顔を覗かせた。
「きゃー、ひとみちゃんっ! 久しぶり! どーしたの、最近配達に来るの那須くんばっかりだったから寂しかった~」
お、お美しい。中から現れたのは若い女性だった。しみ一つない肌にほどよく施されたメイク。上品に整えられたロングヘアに白いワイシャツ。薄くストライプのはいったタイトスカートから伸びる美脚は、灰色のストッキングに包まれている。
俺がここ最近会話した女性は年中すっぴんの母親しかいないので、突然のエンカウントに動揺して視線が泳ぎまくった。
「最近仙台への配達で忙しかったので。那須の奴はしっかりやってますか」
「ええもう、わたしがあと三十才若かったらアタックしちゃいたいくらいよ~!」
な、なんだと。この人一体いくつなんだろう。外見も声も若々しいが、よく観察してみると、想像できないほどの修羅場をくぐり抜けてきたベテラン感がある。
野菜の箱を抱えたまま棒立ちになっていた俺は、芹沢さんの視線に気付いて慌てて頭を下げた。
「あ、は、初めまして! 赤根農園に新しく研修生として入りました、天見とうまです!」
「あら、かわいい新人さん。私はチェッポのオーナー、三ヶ瀬です。気軽に『ミカちゃん』って呼んでくれていいのよ♪」
紅いネイルに彩られた指を立ててウインクするミカちゃん。仕草や言葉づかいからそこはかとなく年代が感じられるような……ああ、なんかもう、よく分からないけど年の差とか関係ないんで付き合って下さい。でも稼ぐ自信は無いので養ってください!
俺は押し寄せる女性フェロモンにくらくらしながら、厨房から出てきた料理人に注文分の野菜を預けた。そして「お茶でも飲んでいかない」とのお誘いにまんまと乗って、開店前の店内でティーをいただいて行くことになった。うーん、俺史上最上級のお洒落体験。
しかし我慢ができないほど小腹が減っていたので、紅茶に手を付ける前からお茶請けのマドレーヌにかぶりついた。オレンジピールの風味がきいてたいへん美味い、美味いが待てのできない駄犬のようで羞恥心が湧く。
食い気全開の子どものような俺の横で、大人の二人はゆったりと紅茶を口に運んでいた。
「どう最近。野菜育ってる?」
「いえ、今年は夏の定植が全体的に遅れたので、生育状況は芳しくないですね。優作が面倒がって薬をふらないので、葉物も虫食いだらけです」
「あら、いいじゃない無農薬野菜。オーガニックオーガニック♪」
「それはそうですが、消費者は虫食いを嫌うので。キャベツや白菜の外葉を一つ一つ剥いて誤魔化すのが面倒です」
「大変ね。わたしなら虫食い野菜は喜んで買うのに。健康な野菜の証拠だから」
生真面目に低い声で内部事情を語る芹沢さんに、ミカちゃんはロールケーキを切り分けながら微笑んだ。うおお、女神に見えるよおお。
「大体ね、今の消費者は農作物の見た目を気にし過ぎなのよ。見た目が悪いけど美味しい物より、見てくれが良くてまあまあの味の物の方がよく売れるなんておかしいわ」
ケーキカッターを片手に熱弁をふるうミカちゃん。ごもっともです。拍手喝采を送らせていただきたい。ミカちゃんはノッてきたのか、ずいっと俺に顔を寄せてきた。胸元からコロンの甘い香りがふわんと漂い、危うく失神しかけた。
「ねえ、とうまくんも分かるでしょう? 『ふーん、普通に美味しいね』っていう物と、『うわ、これ美味しい!』っていう物の違いが。見た目がどうあれ、後者の方が売れるべきなのよ! わたしはね、赤根農園の野菜の美味しさを一人でも多くの人に伝えたくてこのお店で使ってるの。だって一口食べた瞬間からファンになっちゃったんだもの!」
「おおお……」
俺は泣きそうになった。那須くんの前で流した恐怖の涙ではない、感動の涙だ。
例えば、昨日試食したスイートキャベツ。雷に打たれたような美味だった。あの味を他の人にも伝えることが出来たら、必ず買ってもらえる自信がある。だってすごく美味いから。
もしスイートキャベツの評判が広まって、ブランド野菜として確立できたら。それによって販路が拡大できたら、きっと農園の経営も安定する。明るい未来が広がる! おお、神様仏様キャベツ様っ!
「み、ミカちゃんさん、ありがとうございます……赤根農園の野菜、おいしく料理してくれて。お客さんに、出してくれて、ありがとうございます……っ!」
感極まって目に涙を浮かべ、俺は女神様に何度も何度もお礼を述べた。ミカちゃんは驚きと困惑の入り混じった笑顔を浮かべ、母親のようにハンカチで俺の目元を拭いてくれた。
「ふふ、何だかすごい子が来ちゃったわね。ひとみちゃん、あんまりこの子に厳しくしないであげてね。褒めて褒めて伸ばすのよ」
「はあ。まあすぐに辞められても困りますから、当分は親切にするつもりです」
芹沢さんは淡々と不吉なフラグを建てた。一定期間越えたらスパルタになるってことか? おお怖っ。
帰り際、料理人のお兄さんからも「おれもファンなんだ、これからも頑張れよ!」と男らしく握手された。やっぱり、調理する側から見ても赤根農園の野菜は一味ちがうようだ。手の痛みより嬉しさの方が何倍にも膨れ上がって、俺の胸を満たした。
そのまま赤根農園に戻った俺たちだったが、赤根さんからの熱いビンタによって本来の目的を思い出し、Uターンして温泉へ向かった。何もぶつことないじゃんか、親父にもぶたれたことないのに!