4. やっぱり大根って、美味いんだよなあ
大満足の食事を終えた俺は風呂を使わせてもらい、濡れた髪をタオルで雑に拭きながら二階に用意された自分の部屋に入った。
学生時代の赤根さんが使っていたという畳敷きの六畳間には、兄弟がいた名残なのか木製の二段ベッドが置かれている。小さな折り畳み式の机とストーブ以外に、特に家具は置かれていない。
押入れを開けると、予備の布団類の他に一昔前のゲーム雑誌や少年漫画誌がぎっしり詰まっていた。どうやらここに赤根少年の青春が閉じ込められていたようだ。
「うわ、新連載『紅玉のキアーヴェ』! なっつかしー、この頃はあんなにアニメがヒットするなんて想像もつかなかったなぁ。絶対序盤で打ち切られると思ってた」
初々しいタッチのキャラが大きく描かれた、迫力のある漫画雑誌の表紙。
有名漫画の第一話にちょっとテンションが上がり、雑誌をめくる手が早まる。持参してきた荷物を広げるのもそこそこに漫画を読みふける俺は、背後から忍び寄る影に気付かずにいた。
「見たね? おれの青春」
「どぅわっ、やっぱり!」
ホラーさながらにがしっと俺の肩に両手を置いた赤根さんは、一転してにこやかに首をかしげた。日本酒で酔っているせいか、三割増しで子どもっぽくなっている。
「漫画好き? おれもー。昔はね、よく描いてたんだ」
その気持ちは分かる。心の中で猛烈に頷いた。実はおれも描いていた。
中学時代にネット通販でこっそり漫画家セットを買って、根暗ないじめられっ子が学校一の美少女と恋に落ちる、バカみたいな恋愛漫画を描いて一人で悦に入っていた。おそらく思春期男子のおよそ八十%(俺調べ) が通る黒歴史だ。
赤根さんは夢見心地に、酒臭い口で語り続けた。
「学生の頃は、地底帝国とか、天国とか、平行世界とかさ。ありもしない世界のことを空想するのが好きだったんだ。こんな何にもない田舎で農家なんて継ぎたくなくて。休みなしでしんどい農作業なんてしたくなくて。漫画家になって、好きなことに囲まれて都会で楽に生きたかったんだ。ごめんね、こんなダメ人間が上司で」
この世に楽な仕事なんてないのにね、と赤根さんはらしくない暗い声で呟いた。
この人、相当疲れてる。声のトーンがずしりと重い。はつらつとした男前ではなく、ボロボロになったかわいそうな中年男性と対面しているようだった.
「うちの親父がさ、農業にのめり込みすぎて借金まみれなんだわ。このままじゃ跡継ぎのおれまで返済のために駆けずり回らないといけなくなる。九条を雇ったのも、少しでもここの経営を良くするためなんだけど……人手も足りない、機械も金もない、未来もない。ないない尽くしのこの農家で、君は本当に働いてくれるの? 逃げるなら今だよ?」
赤根さんはひどく不安げに尋ねてきた。
赤根家を初めて目にした時、失礼ながらあまり儲かっている印象を受けなかったが、まさか借金まであるとは……。でも、答えなんてとうに決まりきっている。
「逃げません」
中学から逃げ、高校から逃げ、大学の入学式からも逃げてきた。
強くなろうと覚悟を決めて入った合気道の道場からも、ハローワークからも、他の大小細々とした雑事からも逃げ、面倒な人間関係からも逃げて十九年間ずっと友だち0人のぼっちだった。
もうゲシュタルト崩壊しそうなほど逃亡しまくってきた俺だが、ここで逃げたらもう両親に顔向けできない。有り金全部実家に送金して、どこかの山奥で『生まれてきてすみませんでした』って書き置きして餓死するしかない。
もしも赤根農園が沈みゆく泥船だとしても、最後まで付き合ってやろうじゃないか。
もう俺の居場所はここしかない。これからは何があっても絶対に逃げずに、意地でもここにしがみついて自分の力だけで生きていくんだ。
「絶対逃げません。俺が赤根さんを支えます! だから、格好いい社長になってください!」
初めてこの人に会ったときは、正直眩しすぎて目が潰れるかと思った。
ふわっとなびくやわらかな赤茶色の髪。会う人の心を捕らえる輝く瞳。この人に付いて行ったら、どんなわくわくすることが待っているんだろうと勝手に期待してしまうような、不思議な魅力があった。
この俺が日陰を這うナメクジだとしたら、赤根さんは太陽と大地に愛されてのびのびと育った大輪のひまわり――って、なに詩的な想像してんだ俺は。ああ恥ずかしい。
とにかく、そんな赤根さんが悲しそうに縮こまっている姿は見たくない。だから今までにないほど力強く、こっ恥ずかしいビッグマウスを叩いてしまった。
一拍置いて、赤根さんの肩が震え出した。まさか二十四歳児を泣かせてしまったのではとビクビクしていたが、どうやら彼は笑っているようだった。
「ふっふっふっ、『俺が赤根さんを支えます』って、どっから湧いてくるのその自信……くくっ」
「わ、笑わないで下さい!」
「よーし、そんなに熱意があるならやるか、勉強会だ勉強会!」
何だそりゃ。赤根さんは勝手に俺の荷物を引っくり返して、ノートと鉛筆を取り出した。俺は小学生時の厳しいシャーペン禁止令を引きずるあまり、いまだに強迫観念に縛られて鉛筆を使い続けているのだ。
「レトロでいいね!」と赤根さんは鉛筆を褒め、緊急開催の勉強会を始めた。
「天見くん、うちの野菜食べてみてどうだった? 美味しかった?」
「あ、はい。特に大根の煮物なんて、水気たっぷりで、自然な甘みがあって……口の中で繊維がほろほろって解けて、とろっとろのしみしみで……あんなに美味しいのは、初めて食べました」
頭の悪そうな擬音を駆使して、いかに大根が美味しかったのかを力説していると、赤根さんは褒められた子どものように照れて嬉しさ全開の笑顔を見せた。
あ、この人はたぶん、自分が褒められるよりも、自分が育てた野菜を褒められるほうが嬉しいタイプだな。
「そう、美味しい野菜ってのは甘みがあるんだよ。テレビでよく、芸能人が何食べても『あまーい』連呼したりするだろ? でも実際さ、白菜も大根もトウモロコシもキャベツも、きゅうりも人参も、変に癖のある味より甘みがあった方が人気あって売れるんだよ。レタスとかには苦みをウリにしてる品種もあるし、辛味大根ってやつもあるけどさ。まあ消費者は基本的に甘みを求めてるわけ。で、どうやったらそういう美味しい野菜を作れるかというと、まずは農薬を減らすところからだね」
「はあ……たまに土臭かったり、苦かったりする野菜がありますけど、そういうのってつまり農薬を使いすぎてるっていうことなんですか?」
「まあそうだろうね。前にうちが借りてた畑で、元の持ち主が一週間に一回は鶏糞バラまいてたっていうところがあったんだけど、そこで人参作ったらそりゃあもう立派なやつがどっさり採れたんだ。でも食ってみたら美味くないんだよね。あと、ハウスより露地で育てた方が味が濃くなるね。昔カリフラワーをハウスで作ってみたときがあったんだけど、お客さんからクレーム来たんだよ。『去年買ったカリフラワーは美味しかったのに、今年のはまずい!』って。だからうちでは、トマト以外の野菜は全部露地栽培するのにこだわってるんだよ。もちろんどれも減農薬で、種類によっては無農薬で作ってる物もある。見た目は不ぞろいだけど味には自信あるよ」
赤根さんは時々笑い声を混ぜながら、楽しそうに延々と話し続けていた。
真面目に聞いていたいのは山々だけど、だんだん眠くなってきた。
しかしここは俺の部屋だから、「そろそろバスの時間が」「おっといけない終電が」などと中座するわけにもいかない。結局俺は失礼にならないぎりぎりのラインで適当な相槌を打ちつつ、夜が更けるまで赤根さんの話を聞かされ続けた。
「なんで甘くないの。しかも玉ねぎ入ってるし」
君の作る卵焼きは変だ、と不機嫌になる翌朝の赤根さん。その横に座る芹沢さんはいい食べっぷりで、食べ物なら好き嫌いなく何でも食べるようだった。
「オレの家では卵の殻を入れていた。あれに比べたらかなり美味い」
「あ、ありがとうございます」
初めての食事当番、俺の作った卵焼きと白菜炒めは概ね好評だった。
暗黒の引きこもり時代、仕事で遅くなる母さんの代わりによく料理していたのだ。みんな大盛りの白米と一緒にもりもり食べている。米もおかずも大量に用意しないと、この男たちの腹を満たすのは難しいだろう。昼と夜は何作ろうかな。とりあえず、夜は得意のハンバーグでいいか。
食事を終えた芹沢さんは、市場へ配達に行くそうでさっさと出かけて行った。俺が料理している間、他の人たちは昨日採った白菜や大根などの野菜を箱詰めして配達準備を整えていたのだ。
食後の玄米茶を飲み始めた赤根さんは、ちらっと俺に視線を向けた。
「ところで天見くん、車の運転は?」
「すみません、オートマしか運転できないんです……」
情けない話だが、親に勧められるまま楽な方を選んで、十八の時合宿免許で取ってきたのだ。農業に使う車はほとんどがマニュアルだろう。赤根さんは「ふうん」と頷いて、口元に手をやった。
「そっか。じゃあ市場への配達は、これからも今まで通り芹沢に任せるとして……今日は、スーパーに配達する野菜の袋詰めをお願いしようかな」
赤根さんの話によると、通いのアルバイトに『那須くん』という男の子がいて、彼が毎日近辺のスーパーに野菜を配達する仕事を任されているそうだ。俺は今日一日、彼の手伝いをして仕事を覚えてくるように指示された。
「おれはこれから、他のバイトの人たちと収穫が終わったキャベツ畑を片付けて、トラクターで新しく畝立てしてくるから。何かトラブルあったら連絡して」
赤根さんは携帯番号を記した紙を残して、茶の間から出て行った。残った食器を洗うのは……もしかして俺ですか? なんか亭主関白な家庭のお嫁さんの気持ちが分かるような、分からないような。まあ仕方ない、今日は俺が食事当番だしな。
俺は全員分の食器を一気に片付け、厚手のジャンパーを羽織って作業場へ出て行った。