3. 農家に来ておいて、肉が食えると思うなよ?
ちょうど、気難しそうな痩身の眼鏡男性が味噌汁をお椀に盛り付けているところだった。
折り目正しいワイシャツに灰色のカーディガンと、おおよそ肉体労働には向いていなさそうなインドアスタイルだ。
陰気で卑屈な俺とは違い、自分に自信があるのか妙に堂々とした佇まいである。彼は細く鋭い瞳でちらっと俺の存在を確かめると、口を開いた。
「話は聞いている。君が新人か?」
「は、はいっ、天見とうまです。今日からここに、住み込みでお世話になります」
「そうか。明日の食事当番は頼んだ」
「へっ」
「マニュアルを作っておいたから、明朝まで読み込んでおくように」
彼は、自己紹介も早々にカーディガンのポケットから手帳大の小冊子を取り出して手渡してきた。試しにめくると、米粒大の文字がびっしり並んでいた。
「なになに、『食事当番になった者は朝五時に起床し、七時までに朝食の支度と家全体の掃除を済ませておくこと、仏壇に供えるご飯の用意、食器の片付け、休憩時のお茶くみ、ゴミ捨て、食材の買い出し、腐った野菜の処分、ハウスで栽培している苗への水やり(冬季は不要)等も食事当番の仕事である。なお当番は原則として住み込み研修生が一日ごとに交代して行う』――な、なんじゃこりゃ」
つづくページには、仕事の詳細と注意事項がつらつらと書き連ねてある。食事の支度くらいは覚悟していたが、何なんだこの仕事の量は。俺が応募したのは農家じゃなくて家政婦の求人だったのだろうか。
目を回している俺を置いて、マニュアル眼鏡さんはお盆に四つのお椀をのせて颯爽と運んで行った。動作がいちいちきびきびしていてスタイリッシュだ。
後に続いてお茶の間に入ると、赤根さんと芹沢さんはすでに山盛りご飯片手におかずをわしわしと食べているところだった。全員が揃うの待てよ、食欲全開の動物か! と突っ込みを入れるのはさすがに失礼だろうか……。
「あっ、天見くんはおれの隣ね。ほらほら、お兄さんがよそってあげるからいっぱい食べな」
口の周りに米粒をつけた赤根さんは、取り皿に煮物やサラダをてんこもりにのせて自分の隣に置いた。大皿にたっぷり盛りつけられていたはずの料理は、食べ盛りの男二人に食い荒らされすでにほとんど残っていない。
「その前に自己紹介だろ。いつもみたいに」
「あ、そうそう。赤根家恒例、新人さん歓迎・自己紹介回転寿司~! まずはおれ!」
芹沢さんの言葉を受けた赤根さんがすっくと立ち上がった。テレビのリモコンをマイクに見立てて、やかましく自己紹介を始める。
「一番赤根優作、二十四歳! 彼女いない歴二十四年、今一番欲しい物は彼女かと思いきや、意外にも新品のトラクターと冷蔵トラックと三兆円です! 赤根農園の次期社長、塩分揚げ物甘い物とめんこいもの大好きでーす、よろぴこっ」
「う、よ、よろしく、お願いします……」
男前が自虐ネタを織り交ぜながら、やけくそ気味できゃぴきゃぴしている。見るに堪えないというか、痛ましい……。思わず目を反らしてしまった。
次にリモコンを回された芹沢さんが、淡々と話し出す。
「二番芹沢ひとみ、二十五歳。神奈川出身。北海道の牧場に勤めていたが、破産したので自転車で北海道を一周してから山形まで来た。昔は富士山や南アルプスの山小屋でバイトしていたこともある。ここでは主に機械関係と力仕事を任されている。なるべく金のかからない生活を送るのが当面の目標だ。よろしく」
俺は挨拶を返しつつ、芹沢さんの破天荒な生き様に内心驚嘆していた。
でも、すごい安定感がある。まさに頼れる兄貴って感じだ。ずっと家に引きこもっていたら、こんなわけの分からない経歴の持ち主とは巡り合えなかっただろう。唯一のつっこみ所は名前だが、本人は平然としているので触れないでおくことにした。
「芹沢の自転車、すっげータイヤが太くてさあ。雪道でも砂地でもガンガン走れて超格好いいんだよ。んで、八月にここから二日かけてねぶた祭り見に行ったんだよな」
「お前も行っただろう。忘れたのか?」
「そうそう、おれも芹沢の友だちに自転車借りてついてったんだよ! キツかったな~、青森までチャリで三百五十キロ!」
すげー日焼けしちゃった、と楽しげに話す赤根さん。交通費を惜しむのは分かるけど、だからって自分の足で自転車を漕いでまで行くというのはちょっと真似できない。体力も精神力も薄弱な俺は、結局の所自分をいじめ足りないんだろうか。
次にリモコンのマイクをパスされた眼鏡さんは、ノンフレームの眼鏡を指先で押し上げた。
「三番九条仁、二十六歳。宮城出身。仙台に自分の会社を持っているため、この農園と掛け持ちでそちらの仕事もしている。ここでは主に事務仕事を任されている。好きな言葉はPHF、最近興味を持っているのは電子農法だ。よろしく」
「えっ。な、なんで社長さんなのに農業始めたんですか……?」
俺にはとても理解できなかった。最近はネット技術の進歩が目覚ましいため、会社から離れた場所にいても仕事をこなしたり部下に指示を出したりするのは容易いだろうが……だからって、何故わざわざこんな貧乏農家に住みこもうと思い立ったのだろうか。
「そもそも、社長業をしていた僕の父が五年前に病死したのがきっかけでね」
九条さんは表情を崩すことなく、いかにもビジネスマンという感じのよく通る声で語った。
「食生活の偏りと、野菜不足が病因だった。それから健康や食の分野に関心を持つようになって、青果バイヤーや飲食店、生産者の人たちと交流して一緒に仕事させてもらえるようになったんだ」
「で、今んとこはうちの野菜が一番のお気に入りなんだよな! な!」
赤根さんが喜色満面で同意を求めると、九条さんはひどく鬱陶しそうに顔を背けた。赤根さんは、仕事仲間に対しては年上相手だろうが敬語は一切使わない主義らしい。
「こいつのことは人間としては軽蔑しているが、生産者としては一応気に入っている。僕の知り合いの中にも、事業の経営がどうにもならなくなって首を吊った人が何人かいるから……まあ、どうにかしてやりたいと思って」
「はあ、それはまた物好き……じゃなくて、親切ですね」
この不景気に、自分の会社を差し置いて隣県にある農家の心配をしてくれるなんて。慈悲の塊か。菩薩如来か。好奇心にかられて九条さんの本業について尋ねると、なぜか赤根さんが
「いらない物をいらないって言ってる人に口八丁で売りつける仕事だよ」
と意味不明な横槍を入れた。
「詐欺師みたいなもんだよ、一人で一千万も二千万も稼ぎやがって。このセレブリティが! 金持ちは都会に帰れ!」
とさらに無礼な口を利いたため、あわや九条さんと取っ組み合いの喧嘩に発展しそうになった。九条さんの財力や人脈に妬みを抱くのは分かるが、何もそんなにストレートにぶつけなくても。本能のまま思ったことを口走るのが、赤根さんの長所でもあり短所でもあるという感じなんだろうか。
怒り心頭の九条さんは、そこらにあった毛布で赤根さんの顔をくるんで絞り上げた。
「ほら、今の内に自己紹介しなさい。僕がこいつを絞め殺さない内にな」
九条社長から促された俺は、恐縮してぺこぺこ頭を下げた。
「し、新入りの天見とうま、十九才です。新潟出身で、えー、高校卒業してからは家の仕事とか手伝ってました。趣味は深夜ラジオを聞くことと、散歩です。土いじりとか、花を見たりするのも好きです。色々出来ないことも多いと思いますが、頑張ります!」
意図的にニート歴を隠した稚拙な自己アピールに、皆さん温かい拍手を返してくださる。
年上の男の人たちばかりだけど、皆いい人そうじゃないか。ところでここって住み込みの女性はいないのか? まさかの女人禁制? 毛布から解放された赤根さんに聞いてみると、すぐに首を振られた。
「いや、女の子なら前いたよ。一か月で辞めちゃったけど。やっぱ周りに店とかないのがキツイのかなあ。虫とネズミはわんさか出るし、盆地だから夏は半端なく暑いし、冬は余裕で降雪量一m超えるし。トイレは汲み取り式だし。まあまともな神経の子は来ないよね」
「でも雪の下野菜は美味いぞ」
芹沢さんは二杯目のどんぶり飯を片手にフォローを入れた。よく食べるなあこの人。
「そうだなあ。赤根農園で働いてて良いことっていったら、毎日美味しくて新鮮な野菜が食べられるっていう一点くらいかもな。あとは……ない」
「ないんですか?」
「ないよ。ないない。毎日毎日家と畑の往復生活。芹沢は体臭きついし、九条は毒舌だし、全然おれに優しくしてくれないんだよね。おらこんなとこ嫌だー、大気圏から飛び出して、宇宙大僧正になあるうだ~」
赤根さんは支離滅裂な言葉を吐いて引っくり返り、日本酒の瓶を抱いてごろごろ転がり出した。
辛い現実から逃げるには酒の力に頼るしかないというメッセージがひしひしと感じられる。とても人様にはお見せ出来ない子どもっぽい醜態だ。見かねた芹沢さんがちゃぶ台越しに毛布を投げて、見苦しい生き物を覆い隠した。
「新人くん、冷めてしまったが食べなさい。栄養をしっかり摂らなければいざという時体が動かないぞ」
「あ、はい、いただきます」
九条さんの一言により、ようやくご飯にありつけた。む、この煮物、中まで味がしみしみでとろける……それでいて、大根や人参や里芋の素材の味が舌の上でしっかりと感じられる。大根サラダもシャキシャキして食感がいい。黒コショウが効いていてやみつきになる味だ。つやつやの白米も、噛めば噛むほど甘みが口の中に広がっていく。
何もかもが美味い、美味すぎる。健康的な美味が身体のすみずみに優しく染み渡り、涙が出そうだ。
「すごくおいひいれす……全部九条さんが作ったんですか?」
「ああ。この煮物は炊飯器を利用した。炊飯器はいいぞ、無限の可能性がある。最近は無水調理にもはまっていてね。もう少し冬が深まって白菜の美味しい時期になったら、水を一切使わない白菜カレーを作ってあげよう。鍋にこびりついて後片付けが大変だが、味は素晴らしいぞ」
九条さんは褒められたことに気を良くしたのか、熱く野菜料理について語った。
仕事ができる人は料理も上手だという長年の持論が証明され、俺は感動の涙を浮かべたまま夢中で飯をかっこんだ。