海まで25キロ
この作品は、やはり私の作品「河川敷で見えたものは」の対になるように仕立てました。
舞台は荒川河川敷です。
「海が見たい」なんてドラマの台詞みたいな事を言う女とは思わなかった。
「海に行きたい」だったら簡単だ。でも「海が見たい」だったら話は別。遊びに行く訳じゃないんだぜ、見に行くんだぜ、見るだけなんだ。
そんなドラマの台詞のような、詩的なことを言われるとは思わなかった。
海水浴シーズン前の6月終わり。日曜日の昼下がり。
彼女が急に柄にもない詩的なことを言ったからって、オレまでいつもと違うことをしなくても良かった。
いつものように車でかっ飛ばせば良かった。そうすれば、こんなにしんどいことにはなってない。
いつも通りに車で行けば、今頃はのんびり海を眺めていられたはずだ。
今の俺たちは、海まで10キロ以上、漕がないと海なんか見られない。アクセルを踏むんじゃなく、ペダルを漕がないと。
なんでこんな事を思いついたのか、自分でも全くわからない。でもその時は「正しい」と思った。今、俺たちが必死こいてやっている「海を見に行く方法」が正しいと思った。彼女に「海が見たい」と言われた時は。何で彼女も疑問に思わなかったのだろう。
自転車で海へ行くことに。
荒川。長さが173キロ。
俺たちが走っているのは荒川河川敷。家がある板橋区から足立区、墨田区なんかを通って海に着く。目的地は荒川河口。河川敷に延びる道路には河口までの距離を示した標識が1キロ毎に立っている。つまりはこの標識の「キロ数」を減らしていけば海を見に行ける。
言うのは簡単。問題は距離。家から荒川の河川敷まではそんなに遠くない。河川敷まで二人で自転車で行くのは普通だ。いつも俺たちが到着する荒川河川敷の地点から、海までは25キロある。
25キロってどれくらいだ?自転車で、それもママチャリで走るような距離なのだろうか?俺たちは走っている。ママチャリで、海を見に、荒川河川敷を走っている。海まで残り10キロくらい。
「ツール・ド・フランス」みたいな自転車がママチャリの俺たちを追い抜いていく。ものすごいスピードで。要するに、それだけキチンとした装備を持った「チャリンカー」が走る場所なんだここは。それでも俺たちは走っている。海に向かって。
「ねーちょっと待ってよー」走り始めてから、背中越しに聞こえてくるのは、彼女が言ってくるのはこれだけ。で、待っていると、「速いよ」と息を切らせて言う。その繰り返し。
でも、
「早くしろよ」とは言えない。「大丈夫?」としか言えない。彼女は全然大丈夫じゃない顔をしている。今の俺たちには、そんな程度の会話しかないし、多分それ以上のことはできないし、必要もない。
運動するなんて学校卒業以来していないのは俺も彼女も一緒。せいぜい二人でする運動といえば、セックスくらい。
男と女の違いだろうか、俺の方が少しだけペースが速い。
自転車の性能自体は彼女の方が少しだけ上だ。三段変速付き。俺のは無変速。
普段運動なんかしない人間が10キロ以上、走り続けていたら、変速があっても楽にはならないんじゃないだろうか。
「あと10キロだからさ、がんばろうぜ」
あと10キロなのかまだ10キロなのか。
がんばろうってのもなんだか嘘くさい。
別にがんばったところで何ももらえるワケじゃないし。彼女は何も言えないくらいくたびれている。何かを言うくらいだったら、息をしなきゃ、といった感じ。顔中汗だらけ。
暑い。それにしても暑い。
夏じゃないだろうかってくらい日差しが強い。肌がチリチリ焼けるような感じだ。まだ、風はそんなに暑くはなくて、青臭くて少しひんやりしている。
短く刈られた土手の雑草の青臭い空気。日差しを遮るものが何一つない河川敷。
正午に遅い朝飯と昼飯を一緒に食べてから、のんびり家を出てから1時間以上も走りっぱなし。Tシャツが汗で張り付く。
こんなに見事な晴れがムカツク。雲なんかどこにも見えない。
ツーリングとかハイキングとかピクニックみたいな楽しいところが一つもない。ただしんどいことをしているだけだ。
しんどいことまでして海を見に行こうとしている。もっと簡単な方法はいくらでもあったのに。まだ海の「う」の字も見えない。
「帰るか?」そんな言葉が出た。
10キロ地点で引き返せば、往復20キロは減らすことができる。今度車で海に行けばいい。そんな程度の事じゃないのか。
彼女は動いた。走り出す。顔が何か言いたそうだ。でも走っていく。海に向かって。
海へ走り始めてから、初めて彼女の背中を見た。
こんなに細いんだアイツ。
初めて背中を見たような気がする。細い小さな背中が、走って行く。俺も走る。彼女を追って。海に向かって。
それから先の10キロは彼女の後ろを走ることにした。
追い抜くのは簡単だけど、彼女の背中を見ながら走った。プレッシャーを掛けるというのではなくて、そうしかった。
ここまでは俺が先を走っていた。河川敷に降りるのも、標識の距離が減っていくのを見るのも、俺が先だった。
というよりも何をやるにもいつも俺が先だった。きっかけは彼女かもしれないけど、いつも先に動いているのは俺だった。だから今は彼女の後ろを走っている。多分、そうするのが正しいと思った。良くわからないけど。
河川敷を走り始めてから15キロ以上走っている。何回、彼女のことを振り返ったか?そんなこと、ほとんど意識しなかった。
俺が彼女を振り返ったのは、
「アイツ、遅いな」くらいだけだった。
今度は俺が振り返られる番だ・・・。
海まであと5キロ。俺は一回も振り返られなかった。
前屈みの背中、ゴソゴソ揺れる、小さい彼女の頭は、一回も俺を振り返らなかった。
それはそれで寂しい。かなり寂しい。アイツも寂しかったのかも。もっと振り返ってもらいたかったのかも。
「ちゃんと着いてきているかな?」って。「大丈夫かな?」って。
すれ違うチャリンカーやマラソンマンは俺たちのことをどう思っているのかな?ペアなのかそれとも河川敷を走っている全くの他人なのか?
海まであと2キロ。このあたりまでくると海の匂いが風に乗ってくる。
青い風景が広がる。不思議なモンで、先に遮る物が何もなくて、青い空しか見えないと、その先に海があるように思えてしまう。
でも、その通りだ。俺たちは海に向かっている。この先に海がある。
海まであと1キロを切った。
「ねえ、海だよ」
彼女が初めて俺を振り返った。それもこのところ見たこともない、ものすごいピカピカの、子供みたいな笑顔。
あんな笑顔、俺は何をどうやったらしてもらえるんだろう。なんか微妙だ。彼女のピカピカした笑顔は、また前を向いて消えた。
海まで0キロ地点。荒川河口の0キロ地点。つまりここが荒川の終点で、ここから先が海になる。
でも海は全然遠い。
さくさくと足の裏に伝わってくる感触が気持ちいい砂浜もなければ、波打ち際も、むせるような海の匂いも全然しない。
海は河口からまだまだ先の、高速道路か何かの橋のさらに向こうにちょっと見えるだけ。確かに海が見える景色なんだけど、全然先にあって、どうやっても手に届きそうにない。
俺たちが着いたのは、荒川河川敷の道路の終点。
むき出しの地面と簡単な柵があるだけの、終点にしちゃそっけない場所。その先に、ママチャリじゃあどうやっても行けない海が見える。
先に着いていた彼女はサドルに腰掛けて海の方を見ていた。遠く先に見える海を。
ちょっと遅れて彼女の隣に自転車を置いた。海なんかちょっとしか見えないのに、海を見ている彼女の横顔は、今まで見たこともないくらい光って見えた。汗もあるからだろうけど、ドラマで出てきそうな顔だ。
風景を眺める女優のさわやかな横顔。こういうのを「遠い目をした」というのだろうな。女優じゃないんだけど女優に見える。
それにしても暑い。気温はどれくらいあるんだろう。Tシャツが汗で張り付きっぱなしで気持ち悪い。こんなに暑いのによく「さわやかで遠い目をした女優みたいな顔」ができるもんだ。
「帰ろうか」彼女の肩を叩いた。
「ちょっとクサイ」振り向きざまにいきなり言われた。
「近寄らないで」言ってから彼女はさっさと自転車の向きを変えている。さっきの「さわやかで遠い目をした女優みたいな顔」はどこかへ行ってしまった。
「お前が見せたかった海はこれだけか」と言いたげで「つまらない海だね」そんな感じ。
「クサイ?」思わず自分を嗅ぐ。そりゃ、さわやかな良い匂いではないけど、慣れてんだろ、俺の臭い!
彼女に「クサイ」と評されたTシャツをカゴにぶち込んでから自転車の向きを変えた。上半身裸だけど構わないだろう。
彼女の小さな背中を追う。海を見たのは10分もなかったんじゃないだろうか。
なんか。
海に来た感動も、走りきった達成感も、これから家に帰るんだと言ったような気概も、何もなく、俺たちの「海を見たい」は折り返しになった。
海から走ること1時間。俺たちは全くの会話ゼロで、本当に黙々と、ただただお互いの自転車を漕いでいた。彼女が少し後ろを走っている。
今度は意識して彼女を振り返ることにした。でも、なぜだか全然目が合わない。俺が振り向くと彼女は景色を見ていたり、よそを見ている。
余裕があるからよそ見や景色を眺めていられるんだろうけど、一回も目が合わない。そんな一時間。自転車を漕ぎ続けた。
暑い。まだ日が強い。上半身裸がジリジリとしている。肩とか腕なんて真っ赤だ。これは日焼けじゃなくて確実にヤケドなんじゃないだろうか。生まれつき肌が強いから、大した事にはならないだろう。
「ねーちょっと待ってよ」
彼女を待った。必死な顔の彼女が近づいてくる。これもある意味見たことがない。立ち漕ぎの彼女。何が起きた?
「腕、掻いちゃダメだよ~」俺に追いつくなり、息を切らせて彼女は言った。
「腕?」腕がどうしたって?
「赤くなってるじゃん。ダメだって掻いちゃ」
腕って、俺の腕か?確かに赤くなっている。それも日焼けだけじゃなくて内出血を起こしているような赤い俺の腕。
俺は腕が日に焼けると痒くなって無意識に掻くことがある。どうやら無意識に腕を掻いていたらしい。
「ねーヤケドしちゃうよ。服着てよ。背中なんか真っ赤だよ。何で脱いだの?」彼女はカゴに手を伸ばすと「汗でクサイ」と評したTシャツを俺に着させようとした。
「でもクサイって」
「臭くてもいいから着てよ。ヤケドしちゃうよ本当に」
ここまで30キロ近くも走ってくたびれているのか良くわからないが、すごい必死な顔で俺のクサイTシャツを頭に押しつけている。
「ダメ!掻いちゃダメ」俺は自分で着替えができない子供みたいに彼女にクサイTシャツを着させられていた。
こんなことをするために、腕を掻くなと言うために、彼女は俺に追いつこうとしたのか?
いつ、俺が腕を掻くのを見ていたのだろう。
全然目なんか合わなかったのに。
「大丈夫?」彼女が大丈夫じゃないのはわかっている。
一時間も休みなしで走って大丈夫なのは体育系の学生くらいだろう。俺たちは学生じゃない。正直、ちょっと膝の裏が痛い。
それに家を出てから全然水分も取ってない。河川敷というのは自動販売機の一つも置いていない。俺のヤケドなんかより、彼女の体調が心配だ。
彼女は大丈夫じゃないんだろうけど、「大丈夫」という代わりに小さく頷いた。
「おしりが痛い」といいながらさすっていた。
おしり?
痛くなるくらい、おしり大きくないでしょう?
「ちょっとガタガタする」彼女は付け加えた。
「ガタガタって?」
「タイヤが回るとガタンガタンって」
「タイヤが回るとガタンガタン?」タイヤはでこぼこしていないから回るんであって、回るからタイヤというんであって。
まさか?
「ちょっと降りて」彼女の自転車の後輪を指で押してみる。フニャッと柔らかい、あり得ないくらいにへこむ。
パンクだ。
「パンクしてる」これでは彼女のおしりがガタガタにもなる。タイヤの中のチューブの空気入れのところが出っ張っているから、そこが地面に当たってガタガタする。おしりも痛くなる。
「いつから?」河口に着いた時には、そんなことは一言も言っていなかった。ただ「さわやかで遠い目をした女優みたいな顔」をしていただけだ。
「引き返してから」
言葉が出なかった。もし、彼女が必死で追いついてこなければ、俺が聞かなければ、彼女はパンクのことを言ってきただろうか?
「何でもっと早く言わないんだ!」その言葉が出かかったけど止めた。言えないような雰囲気だったから言わなかったんだろう。
「どこかでガラスとか踏まなかった?」そんなことを聞こうとしたけど、それも止めた。
そんなことを聞いたところで、何もならない。俺も同じ道を走っていたわけだし、俺が踏んでいたかも知れない。
たまたま彼女の自転車がパンクしただけだ。
彼女は一生懸命自転車を漕いでいただけだ。何を踏んだからって彼女は悪くない。
パンクは、する。パンパンに張り張りに空気が入っていれば、ほんの小さな、爪楊枝の先っぽくらいの小さな穴でも破裂してしまう。
彼女は何も悪くない。
おとなしく、車で借りて海に行っていれば良かったんだ。
でも、どうすればいい?
「ちょっとこっち」自分たちの自転車を道端に寄せた。土手に大の字になって寝そべった。そうしたかったし、今の俺には大の字に寝そべることくらいしかできなかった。背中が、ちくちくする。
彼女は俺の横で体育座りをしていた。一言も言葉が出ない。会話ができない。
どこを探しても雲なんか一つもない、青一色の台風一過みたいな空がうらめしい。何も悩みなんかないように見える青い空。短く刈られたばかりの土手の芝生をむしる。むしったところでなんにもならない。
くそ・・・。
何でこんな時にパンクなんかするんだ?こんな場所で。何でこんな時に、こんな時こそ俺一人だけじゃないんだ?俺一人だったら、まだ何とかなるだろう。
なんで二人なんだ?一人じゃないから悩んでいる。二人だから困る。
今の俺たちにはまともな自転車は一台しかない。
それでも帰らなきゃ。かといって、まだまだ先の10キロ以上もタクシーに乗って帰るだけの金は持ってない。せいぜい千円札が一枚くらい。家の前でお金を取ってきて払う手だてもなくはないけど、自転車まで乗せて帰れない。こんなの、どうすればいいんだ?
「ゴメンね」風が、その小さい声を俺の耳に届けてきた。今まで聞いたことがない、彼女の声だった。
「ゴメンって?」
「パンクしちゃって」
「それわっ!」
お前は何にも悪くない。パンクしたチャリが、穴が開いたゴムのチューブが悪い。
だって買ったばかりだぞ、三段変速の、アルミフレームの、後ろのブレーキがキーキー鳴らない一万九千円のママチャリ。錆も傷も一つもない買ったばかりのママチャリ。それなのにパンクしやがった。
それもこんな家から遠く離れたところで。
お前は何も悪くない。
悪いのはパンクした自転車だ。こいつさえいなくなれば、こいつさえいなければ。
そうだ、
パンクしたこいつがいなければいいんだ。
「帰ろう」やっと立ち上がれた。
「帰るって?」
俺は答える代わりに、自分のチャリに乗った。
「乗って」
彼女くらい、俺は乗せて家に帰ることはできる。二人乗りなんか良くやってた。それがちょっと距離が長くなるだけだ。
彼女は乗ってこない。突っ立ったままだ。
「自転車は?」
そんなこと、決まっている。
「置いていくんだ」
ここは河川敷。広くてわからないが、ゴミだらけだ。錆だらけのどう見ても走れない車だってある。
パンクして走れないチャリが一台増えたところで、誰も文句は言わない。
ここに置いていけばいい。
「置いてくって?」
「こいつが悪いんだぜ、こんな所でパンクしやがって。こんなの捨てちゃえばいいんだよ」つばを吐いてやりたい気分だった。本当にぶっこわしてやりたかった。
「ヤダ」彼女は駄々っ子のように言った。「捨てるなんてヤダ」駄々っ子は続く。
「嫌ってお前、こいつがパンクしたから悪いんだぞ、買ったばかりでパンクするヤツがあるか?まだ一か月も経っていないんだぞ。どういうことだ?こんな役立たず」
「そうじゃなくて」申し訳なさそうに彼女は言った。
「パンクしたのは、この自転車が悪いかも知れないけど、でも、でも、一緒にこんなに遠くまで来たんだよ。置いてきぼりにしたくない。帰りもみんなで帰る」
「はあ?」お前?今どんなことになってるかわかってんの?
パンクチャリのせいで、みんなで帰れなくなっているんだぜ、というかみんなで帰ると言うより、俺もお前も無事帰れるかもわかんねーんだぜ?このままじゃ。
と、頭に浮かんだありったけの悪口を言う前に、彼女が言った。
「置いていくなんてかわいそうだよ。みんな一緒に帰ろうよ。置いていかないで」
置いていかないで
たぶん、彼女はあれこれ考えたから言ったのではないと思うけど、俺には、
「私を置いていかないで」と聞こえた。
いつも先に行ってしまって、
私はいつも背中しか見えないんだよ、
一緒に、一緒に連れて行って。
置いていかないで。
そう聞こえた。
「わかった」とも「いいよ」とも言わなかった。でも腹がくくれたのは確かだ。
ここから、どうやってみんな一緒に帰るか?それを考えないと。
「みんな一緒に帰ろう」を可能にするのに、俺は何をどうしたらいいんだ?
まだ家まで10キロ以上もある。彼女を後ろに乗っけて走るのは大変だけど。でも、もう一台の動かない自転車は、いくら何でも後ろに乗っけてはいけない。
パンク自転車は、これ以上走れない。空気を入れないと走れない。引いて歩いて帰るという手もある。そんなことをしていたら一体いつになったら家に帰れるのかわからない。
俺たちの前を、自転車やらマラソンやら、競歩やら、散歩やらが横切っていく。
パンクする前は俺たちも風を切って走っていたんだが。自転車ってあんなに速いんだ。自分たちも動いていると、速さって意外とわからないもんだ。
乗っている人が男なのか女なのかも、ぱっと見わからない。俺たちも走っている時は、止まっている人にはどういう二人なのかわからなかったんじゃないだろうか。
奇妙なペアが俺たちの前を通ってゆく。そのペアは、一人は自転車、一人は走っていた。でも、自転車は二台あった。
もう一台はというと、自転車の人間がハンドルとフレームをひっつけてある「Tの字」になっているところを持って引っぱっていた。
思うに、引っぱっている自転車は走っている人が帰りに乗って行くのじゃないだろうか。自転車も人の間隔は同じだ。何とも連携が取れている。二台の自転車とマラソンマンは小さくなっていく。
これだ、これしかない。あの二台と一人をやるしかない。でも、あの二台はパンクしていない。パンクしたチャリの空気を確かめた。
「どうしたの?」
パンクしたタイヤは指で押すとグンニャリとへこむ。完全に空気不足だ。これじゃあそんなにでっかくないお尻も痛くなるわけだ。
でも、いくらパンクしているからって、すぐに空気がなくなるワケじゃないだろう。
「ねえ、引き返してすぐからお尻痛くなったの?」
「ううん、すぐには痛くならなかったけど、だんだん、走っていくうちに痛くなってきた」
なるほど。人が乗っても空気は少しはもつのかも知れない。というより、空気が入っていれば少しの間は走ることができるわけだ。
すると必要なのは空気入れだ。
俺はケータイで探し始めた。デパートを。デパートなら売っている。デパートじゃなくても、ホームセンターでもドンキでも、そんな本格的じゃなくても自転車売り場はあるはず。空気入れもあるはず。
「何探してるの?」
俺はケータイで探し終えると、彼女の肩をつかんだ。
驚いたのは彼女。こんな風に彼女の顔を正面から見たのはない。コクった時もしなかった。
「いい、ここで、こいつと、パンクしたこいつと15分、いや10分待ってくれ!」
「待つの?」
「買い物行ってくる」
「買うって?自転車?」
「違う。空気入れ」
「空気入れ?だってパンクしてるんだよ?」
「パンクしていても、すぐに空気は抜けないよ、空気が抜けるまで走るんだ」俺の言うことが彼女はすぐに理解できなかったらしく、まだ不思議そうな顔をいている。
「とにかく行ってくる。10分、10分で絶対に戻ってくる。絶対に戻ってくる。それまでここを動いちゃダメだよ。待って、違う。動かないでくれ、頼む」彼女の肩から手を放して、顔の前で手を合わせた。
「頼む、10分だけ俺に時間をくれ」目をつぶってお願いした。
10分あればなんとかなる。本当に10分だけ待って欲しい。
彼女の冷え性の手が、俺の両手をゆっくりと開いた。目を開けると、ゆっくり開いていく手の間から彼女の小さな顔が見える。
とても穏やかな彼女の小さな顔があった。もう困っても、怒っても、悩んでもない、穏やかな、今まで一回も見たこともない穏やかな彼女の小さな顔があった。
「行ってきて」穏やかな声。「待ってるから、この子と一緒に」
「待っててくれる?」
「10分とかじゃなくて、待っているから。気をつけて行ってきて。こんな所でケガでもされたら、本当にどうしたらいいかわかんなくなっちゃう。行ってきて。待っているから」
自転車に空気を入れていてこんなにわくわくしたことはない。それでもこの空気はどっちにしろ抜けてしまうのだけれど。
どれ、入ったかな?指で押してみるとガチガチだ。空気はパンパン。自分の自転車にも改めて空気を入れる。前輪も後輪も。
これで少しの間は走れる。少しの間だけ。
俺はパンクしていない自分のチャリにまたがって、パンクしている彼女のチャリのハンドルとフレームがひっついている「T字」の所を持った。
「乗って」
彼女は空気を入れたばかりの自分のチャリに乗ろうとした。「いや、こっちこっち」俺が彼女に乗って欲しいのは自分の自転車の後ろだ。
「こっちって?」彼女は自分のチャリと僕のチャリの間で突っ立っている。
「乗って」もう一回言った。「大丈夫。二人乗りくらいできるよ」
「でも」彼女は「みんな一緒に帰る」のに俺が何をしようとしているのかわかって困っていた。
まさかこんなしんどいことをこの男が、自分の男が、するとは思っても見なかったのかもしれない。
「さあ乗って」三回目で彼女は静かに俺のママチャリの後ろに乗った。さすがに後輪が沈む感じがする。彼女の手はどこを持っているんだろう?サドルの下の辺りかな?
「ねえ、無理しないでよ」
「スタートだけ助けてくれない?」肩越しに言った。こうなると真後ろの彼女はおでこと顔の上半分くらいしか見えない。
「どうやるの?」
「脚で押してくれればいい。あの、アレ、魔女の宅急便でプロペラがついてたチャリのシーンがあったでしょ」
「うん」
「あんな感じ。キキみたいにやって」
「わかった」
ちょっとした共同作業。さあやるぞ。
「じゃあ行くよ」さすがに重い。そうとう力を入れないとペダルが下がらない。俺ってこんなに脚の力なかったっけ。
フワっと浮いたような感じ。彼女の脚がスタートを助けてくれた。ゆっくりとゆっくりとスピードが上がっていく。彼女の後押しで、やっと走り出せた。
右手で二人乗りの自転車のハンドルを、左手で彼女の自転車を持って走る。背中に彼女を乗せて。
「ねえ、大丈夫?」彼女は不安なんじゃないだろうか。片手ハンドルの二人乗り。転んだらケガが大きくなるのは彼女のほうだ。
「怖い?」
「そうじゃなくて、先長いよ」
そうだ。まだまだ先は長い。家に着くのが何時間先なのかまったくわからない。でも走り出してしまうと、不思議とペダルの重さにも慣れてくる。彼女の体重が載った自転車のペダル。
「さあ、みんなで一緒に帰るよ」
河口から18キロ。パンク地点から8キロしか走れていない。
たったの8キロだけど、もう体が言うことを利かない。ヘロヘロだ。太もも、ふくらはぎはいつ攣ってもおかしくない。
痙攣のちょっと前で押さえているのがせいぜいだった。彼女の自転車を持っている左腕はパンパン。右手は逆さ「くの字」で固まっている。
まだまだ走らなきゃいけないのに、体はおかしくなっていた。ただペダルを踏む機械みたいになっていた。
いっそのこと体中の感覚がなくなってしまえばいいものを、疲れているからなのか、普段よりも敏感になっている。
風が強い。ものすごい向かい風。寒くもなってきた。太陽が沈み始めると急に寒くなった。
いくら暑い暑いっていっても、まだ六月だ。昼と夜じゃ大違い。寒い向かい風の中を走る。ちっとも進まない。本当に家にたどり着けるのか?
手が伸びてきた。彼女の手だった。彼女が抱きついてきた。
今までサドルを持っていた彼女が体をぴったりくっつけてきた。
冷え症の彼女の手がとても温かい。背中が暖かい。
彼女がいる。俺のそばに彼女がいる。
こんなにハッキリと彼女の温度を感じたことは今までなかった。
ここまで俺は一人で走ってきたような気になっていた。
でも、彼女がいる。
「寒くない?」
「寒くないよ」寒いはずがない。俺は、ただ前だけを見てペダルを漕いでいた。
河口から25キロ地点。河川敷から離れる。
ここからは10分も走れば家に着く。彼女の自転車に何回目かの空気を入れ直す。10分くらいだったら、パンクしていても走れるだろう。空気を追加すれば良い話だ。町中を河川敷と同じように二人乗りで、自転車を押しながら走るのは危ない。ここからはそれぞれの自転車で家まで走る。
「疲れた?」
「いや?」不思議と疲れを感じない。ただ、体中の水分が全部抜けてしまったような感じだった。カラカラだ。
自転車が、ペダルが軽い。一人乗りの自転車はちょっと味気ないというか、物足りないというか。
二人並んで家まで走る。
「ねえ?」
「うん?」
「デパートでパンク直してもらえば良かったのにね」意地悪そうな顔で彼女が言った。
あれ?なんでそんな簡単なことに気がつかなかったんだろう?
そういえば、そうだ。あの時は二人乗りで帰ることしか思い浮かばなかった。海に行くのに、自転車に乗っていくのが正しいと思ったように。
「思いつかなかった」冗談とかじゃなくて、本当に思い浮かびもしなかった。
「バカね、バカ」
「バカバカ言うな」
「パンク直しちゃえば、ラクだったのに」
「しょうがないだろ、思いつかなかったんだから」
「お尻も痛くならなかったのに」
そんなどうでも良いことをたくさん話しながら走った。パンクしている彼女の自転車に合わせてゆっくりと走る。
「ねえ?パンク直せるよね?」
「パンク?」パンクなんて、遠い昔に一度直したことがあるだけだ。
「直せるよね?」
「うん」
夜の町を走る。家まで走る。
二人で走る。みんな一緒に。
家までもうすぐだ。
読了ありがとうございました。