side.Hi 5話 両肩に刻んだ消えない痕
幸福ではない時間を不快感だけで終わらせてしまうのは勿体ない。流した涙は抑え込めなかった感情で、唯垂れ流すなんて安い扱いはしたくない。
目指す“かっこいい”は、転ばずに無傷で颯爽と歩み行く姿ではない。転んでも擦り剥いた膝の傷と捻った足首の痛みを受け止めて立ち上がり、歩みを諦めない姿だ。
個展三日目の朝は春雨が降っていた。
昨夜未明から降り始め弱まってきてはいるけれど、止んでいない。まだ小雨。
夜勤明け、6時半。三日目オープンまであと3時間半。
私は泣きそうになりながらバイクに跨った。
帰宅後すぐにアパートの狭いバスタブに浸かり、件の考え事に集中しようとしたけれど、思う方向には全く脳が働かない。
古傷の傷口が開いてしまったようだ。
鮮血が流れ出ているような独特の不快感と、何時の頃か始まった過換気症候群が脳の鈍さに輪を掛ける。
熱めに沸かしたはずのお湯が冷めきって肩が震えたことをきっかけにバスルームを出ると、洗面台の鏡に映った両肩の太いライン状の痕が眼に入る。小学校入学後すぐから12年間毎日毎日長時間背負っていたアコーディオン本体のストラップ及びリュック型アコーディオンケースのストラップの痕だ。
私は生まれたときから身体が小さく、小1で初めて背負った電子アコーディオンは今時の軽量モデルとは違い10キロ以上で、慣れるまでどちらのストラップも両肩に食い込むような痛みを伴った。
その上、登下校の際、藍との待ち合わせに遅れたくなくて背負ったまま走っていたものだから、硬い革のそれが肩の皮膚に擦れて擦過傷になり、治る間もなくまた背負い走るから重みが起こした内出血とダブルパンチで、重みに慣れてきてからも常に傷は有り、身体がいまの150cmまで成長する頃には日焼けのような痕になっていた。
私は、私の音を否定され続けても、音楽が好きだった。アコーディオンに出会ってからはより一層楽しくてのめり込んだし、学内の楽器購入用のローン制度を使って9年掛けて小遣いやお年玉で手に入れた白い電子アコーディオンは情の移った戦友で旧友だ。
だからこそ、高3の夏、最後の最後というギリギリのタイミングで、附属の大学に進学することを辞めプロへの道から外れたときは、死ぬかと思った。
親友だと思っていた友人にはいじめの標的にされ、家族よりも近しかった幼馴染とは離れ離れになり、唯一のアイデンティティだった音楽も否定され続けたこの音楽学校での学生生活は、吐血を繰り返す日々だったけれど、それでも音符のない世界はここよりも苦しい場所なのだと。
ここから逃げたら、挫折という烙印を押される。いや、己が押すのだと、怖かった。
では、実際に外の世界に出たらどうだったのか? 言わずもがなだ。
人間誰だって、生きていれば苦しいこと悲しいこと痛いことの一つや二つ、百や二百ある。その中の幾つかがトラウマになることだって、決して私に限ったことではない。長く生きていればいるだけ、傷に障る記憶の残る場所、物、事象は増えていき、その全てを避けようとすれば、もう何処にも行けない。何も出来ない。好きなものも嫌いになってしまう。もっと言ってしまえば、いまこの瞬間に暮らしている家も街も当該地で、引越したり家具家電の全てを買い替えなければならない事態にだってなりかねない。
だから、一つの荒療治を憶えた。 敢えて、その辛い記憶を抉る場所に行き塩を塗る事象に積極的に触れることで上書きを繰り返そう。という方法。
お風呂から上がった私は馴染んだ白いアコーディオンを背負い、まだ誰もいない静かな世田谷公園に向かった。
屋根のある場所でケースから出し、頭で選曲することはせず、指が動くままに、弾きたいように出したいように、奏でたい旋律だけを追って蛇腹を操る。
(初めて弾いた曲はどんな曲だったっけ?)
初めての蛇腹に浮かれ、下手な口笛を吹きながら憧れの3拍子に手を出した。
いつも聴いていた好きなアーティストのオリジナル曲を耳コピで、それこそ好き勝手に雰囲気だけで弾いてみると楽しくて面白くて、心も身体も軽快にステップを踏んだのだった。
アコをきっかけに強制的に脳内タイムリープを始め、テンポを少しずつ速めると思考の速度も増してく。
両手の指をもっと速くもっと速く、と動かすと、頭の中の余計なものが削ぎ落とされていき、極限まで速く動かすと、とてもクリアになった。
やりたいかやりたくないか。
やってみせると努力するのかしないのか。
私なんか皆さんと違って実力のないアマチュアだもん。と、拗ね、怖気づくのか。
私はギャラリーに行くギリギリの時間まで、そうしてアコを弾きながら自問自答を繰り返したのだった。
小雨の中、ギャラリーのドアを開けると、すぐに谷木さんから、お客様がお待ちだよ。と知らされた。
知人友人は基本的にはこの個展の会場で私を呼び出すことはない。となると、やはり件のメンバーのどなたか…膝が笑う。
(違う。違うってば。これは武者震いだ)
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
応接用のソファに腰掛けていらっしゃるのは男二人で、声を掛けると二人は同時に立ち上がる。
「ひいちゃん、久しぶりだね。その節はどうもありがとう」
一人は以前さんだった。
「こっちは左村 蒼くん。ゲームクリエイター。五人目のメンバーだよ」
以前さんも170後半だと思うけれど、紹介された左村さんは、以前さんより10cm近く高い。橋真さんと同じくらいだろうか? 黒のウェリントンのセルフレームの眼鏡を掛けている。落ち着いていると言うより、落ち着き払ったと言った方がしっくりくる雰囲気の人だ。
「左村です。初めまして」
ペコリと会釈され、私も名乗り、先ずは二人に来場の御礼とお花の御礼を伝え頭を下げる。
ゆっくりと頭を上げると左村さんと眼が合って、眼鏡の奥の眼が少しつっているのが見えた。
背筋が伸びるのを感じ、もう一度、ビビっているわけではない。と自分に言い聞かせる。
「アオくん、また怖い眼になってるよ? 折角ひいちゃんと初対面出来たっていうのに」
やばし。以前さんに察知されてしまったかも知れない。
(ていうか、アオ? くん?)
「え~? そうかな? これは怖い顔じゃなくて真剣な顔なんだけどな~」
以前さんに、とてもフラットで親し気のようで、逆に距離のある口調で答え、
「ごめんね? 俺、つり目だからさ~」
私に対しても、さして変わらない口調で、口角を少し上げるだけの笑みを浮かべた。
「ひいちゃん待ってる間に一通り観させて貰ったよ? フライヤーだけでは分からなかったけど、すっごくドラマチックな構成だなって感じたよ」
眼が笑っていない左村さんとは対称的に、眼をキラキラさせて、感動したよ。と繰り返す以前さん。
初対面の時もそうだったけれど、話を聴いているとこっちまで楽しくなってくる。
左村さんは低めのテンションに軽い口調で、碧くん語彙力飛んじゃってるよ。とクスリとした後、やっぱり笑っていない眼で私を見た。
「俺はこの個展で静緋色って人間が分かった気がしたよ。勿論きみの全てではないだろうけど、作品の中にきみを見た。今日来れて良かったと思うよ」
思わぬ真直ぐな感想に驚き、御礼の言葉がすぐに出せない。
「アオくんもそんな殺し文句言うんだね? びっくりした」
「俺だって唯薄く軽くひらひらふらふら生きてるわけじゃないからね、良い物は良いって言うよ。野郎相手なら分からないけどね~」
「そう? 俺の眼に狂いはないって分かったでしょ?」
アオくん、碧くんと呼び合う二人は、あまり私が口を挟む間を与えず、楽し気に軽口を叩き合っていて、気付けば私の緊張も何処へやら。
その後、好きなように私の絵の感想を一通り語り、満足したのか、そろそろ帰るね。と二人は席を立った。
私は入口のドアを開け脇に退く。
先に出た以前さんが、
「あ!」
声を上げた。
訝しく思いながら二人について最後に出ると、
「雨、止んだね」
と左村さんが私を振り返った。
目配せされた気がして目線を追うと、ウェルカムボードの下の水溜りに雨上がりの空に掛かった本物の虹が映っていた。
二人を見送った後、すぐにその映った方の虹を撮影し、HPにアップした。
「ていうか…以前さん、“緋色ちゃん”から“ひいちゃん”に変わってたな」
ぽつりと零れた独り言はとても優しく温かく心に沁みていく。
空を仰ぎ虹を眺めながら、初めてアコを触ったときに弾いたあの曲を5小節だけ下手な口笛で吹いてみた。
両肩を触るとヒリリと痛んだ気がしたけれど、何時の日にかこの痕が消えることがあったのなら、少し淋しいだろうな…と思った。
新しい出会いは何だか少し怖い。
けれど、初対面の瞬間は当然に唯一度のことだから特別で、大切にしたいと思う。
願わくは、相手にも大切な瞬間になってくれていたらと…。
次話、side.Hi 6話 ワクワクすること は4月24日火曜日午前0時 掲載予定