side.M 3話 終わった恋は亡霊が如く
例えば全身全霊を掛けた恋だとしても終わりが来て、何かの瞬間に失恋したんだなと実感したとしても、恋心は身体の一番深いところに在り続けて、全てを見透かしたように俺に語り掛ける。
“失恋”と彼女を想う気持ちを真に失うこととは苦しいけどまた別の話だ。
「碧、お前、すっかりうちに入り浸るようになったな」
「入り浸るって、俺だって有難くも忙しくさせて貰ってるんだから浸ってはないよー。仕事が夜明け前に上がれたときだけだよ」
「だからお前さ、浸ってるんじゃねーか」
「いいでしょ。ここに来ればこれが観られるんだし、尊敬する待くんが折角フランスから帰国して店オープンしたのに来れてたのは最初の頃だけで俺も仕事で時間なくなって」
「俺はここが自宅兼職場だから毎日観られるからな」
ここは俺達の七色荘から徒歩5分のビストロ シャルール。我が幼馴染で兄貴分の明乃 待くんが一人で切り盛りするお店。そして、我らが静 緋色ちゃんが持ち込んだアクリル画三枚が飾ってある場所だ。
平日の深夜でもほとんど空席の出ないシャルールが今日は珍しく数人の客だけで、カウンターに陣取った俺は待くんと喋りながらゆったりと酒を飲み、まったりとした時間を過ごしている。
「緋色ちゃんは最近ちゃんと家に帰ってんのか? また倉庫に泊まり込みで描いてんじゃねーのか?」
「全く帰って来ないっていう状態ではないけどね、相当根詰めてるっぽいよ。ダイちゃんのアシだけでも忙しいはずなのに平原のシフトもぎっしりで、寝食の時間なんてないんじゃないかなって心配なくらい」
「そうか、やっぱりな」
ひいちゃんは超売れっ子作家の雨さんこと時雨 何時暇さんの新刊の表紙絵のオファーが白紙になってからいままで以上にハードスケジュールで描いて描いて描いて描きまくっている。それは七色荘の第一回バーベーキューの日に俺達に宣言した自分の絵で絵画展の賞という賞を総なめにして認知度を捥ぎ取ってやるという目標を達成する為だ。
「描く方に必死になることはいいことだと思うんだよ。俺達もそうだけど、それがひいちゃんの一番好きなことで一番やりたいことなわけだからね。アシで背景描くのも勉強になるだろうし。でも、同時に画材費と生活費を稼ぐ為に相応の時間と労力を割いてバイトもしなきゃいけないっていう現状がね、解るんだけど心配だよ」
ひいちゃんはまだプロの画家としての収入は少なく、出費の大半をバイト代で賄っている。
「せめてもう少し割のいい仕事に就いて、休みを増やせればいいんだけどな...」
「そうだ! シャルールに呼べばいいじゃん! 営業、待くん一人じゃきつきつなのは明らかなんだし、ここなら賄い付きだし、給料だって安心でしょ? 何で待くん声掛けてあげないの?」
待くんは店の資金繰りの都合で従業員を募集していないわけではない。むしろ一人二人であれば、けっこうな額の時給なり月給で雇えるはずなのだ。
「緋色ちゃんさえよければいつでもうちに入ってね、とは伝えてある。イタリアンとフレンチの違いはあるが、うちはあくまでも俺の創作フレンチでビストロだ。その味を緋色ちゃんは知ってるし、トラットリア カローレのミラノ本店で修行した後フィレンツェ店では副調理長、東京本店店長兼料理長務めた逸材なら即戦力になる。でも、緋色ちゃんのあの性格から察するに、本当にうちで働き始めたら、きっとシャルールが彼女にとって“職場”になってしまう。“ただ無になれる空間”ではなくなってしまうだろうよ。それに、いまは絵の対価として飲食を提供し、新作の相談に乗ってもらっている常連さんだから大切にしている。ていう、それらしい口実があるが、従業員になったら彼女は途端に俺を雇用主として見て線引きをするだろうから、俺はもうこれまでみたいに彼女を甘やかせなくなってしまうだろうって考えると淋しくてな…」
「そっか…そうだね。ひいちゃんはそういう人かも知れないね」
静 緋色という人間は何時でも全力投球で真面目で律儀で、きっと甘え下手。俺から見たらそれら全てが彼女の美点だけど、同時にそこが心配する要因にもなる。
おまけに藍ちゃんとのギクシャクもまだ続いているように見える。
(二人で克幸さんグッズ買いに行ったんだから、マシにはなってるだろうけど…つーか、あの元カノ襲来の一件を待くんが知ったら大変なことになるだろうな)
待くんはひいちゃんのことを実の妹のように大切に可愛がっていて、ひいちゃん相手だと口調も柔らかくなる程だ。
「碧、お前はどうなんだ? 大丈夫か?」
「大丈夫って何が? 俺は何時だって大丈夫だよ」
待くんが何を訊いているのか、本当は解っている。待くんがこんな風に訊くのは充のことに決まっている。
「お前がそう言うなら訊かないでおくけどな、でも、でもな、碧、俺はお前が苦しいのはやっぱり厭だよ」
和歌名 充、俺の元カノの名前だ。
「相変わらずだよ」
待くんには上辺だけで答えても意味がない。何でも見透かされている。きっと俺以上に以前 碧を知っててくれている。
「もう5年くらいか? 音信不通は変わらないのか?」
「うん。田舎に帰るって言って姿を消したっきり、大学に訊いても教えて貰えないし、充さんは大学の外でも付き合いのある友達いなかったし」
何時の間にか空になったロックグラスを傾けると氷がカランと音を立てた。
「待くん、もう一杯ロックでお願い」
二杯目のウイスキーを注文する。
何気なく右隣を見ると、
『ウイスキーをさ、ハイボールじゃなくてロックで頼むのが大人の男だよね』
ジンライムをちびちびと飲む充の幻がにこりと笑った。
忘れたいことと大切なことはときにイコールだったりするから、人生は厄介なんだ。
今週も一読いただきありがとうございました。
以前 碧は今作のプロットを書き始めた当初から深いところまで生い立ちが見えていたキャラクターです。
だからこそ、碧本人はやはり語りたがらないよな、と思うわけですが、過去もいまも未来も全部合わせて以前 碧の人生なので、今作を書き進める中で欠かせない一片です。




