side.Hi 3話 不安でも怖くても、進んだ先に…
何事も“初めて”というものは心に深く刻まれ易い。
けれど、心に刻むということは、時に覚悟が必要だと思う。
ずっとずっと、先の見えない未来まで、抱えていく覚悟…
1995年 3月
父親の仕事の都合で生まれ故郷の神奈川県川崎市からここ、茨城県若宮市の港町に引越して来て3か月。気に入りの海の見える丘公園で何時ものように一人、眼下に広がる海を眺めていると、水面に掛かる大きな虹を見つけた。
「あ! 虹だぁ!」
思わず漏れた感嘆の言葉に、
(え? いまだれの声? かさなった?)
反射的に声がした方向に身体ごと向けると、海側の、公園を縁取るように立てられている白い柵の前、少し離れた所に居る小さな男の子と眼が合った。
「あ!」
また重なった。
私と同じくらいの身長…もしかして、歳も同じくらいなのか?
他人と関わるのが苦手な私にしては珍しく、自分から近付き、声を掛けてみる。
「きんじょの子?」
首を傾げると、
「うん。きのう、東京からひっこしてきたんだ」
「へぇ、そうなんだ? わたしもすこしまえに神奈川からひっこしてきたんだ」
一言二言だけ言葉を交わすと、きれいだねぇ。と改めて二人並んで虹を眺める。
暫くして、
「それ、そのかばんからみえてるの、なに?」
今度は男の子の方から話し掛けられた。
私はトートバッグを肩掛けしていて、男の子が指差しているのは、いま練習している曲のピアノピースだ。
「リチャードクレイダーマン、渚のアデリーヌ」
「リチャード? なにそれ?」
「ピアノピースだよ。 すぐそこのピアノきょうしつにかよってて、レッスンのあとは、いつもここでおむかえまってるの」
みせて? と手を出され、トートバッグから出そうとすると、
「見つけた! もう、一人で勝手にうろうろしないでって言ってるでしょ?」
公園の入り口の方から突然大きな声がした。
二人して反射的にそちらに視線を投げると、また大きな声で、
「心配したでしょーが! この辺、坂ばっかりなのに、走ったぁ。もうおばさんなんだから勘弁してよ」
肩で息をしながらこちらに駆け寄って来たのは、すらりと背の高いきれいな大人の女の人で、どうやらこの子を捜しに来たらしい。
「この人、さちさん。ぼくのおかあさんだよ」
紹介された女の人は、私を見て、
「こんにちは。一人で来たの? 大人は一緒じゃないの?」
心配してくれたのだろう。
「はなさんのおむかえ、まってるの。ありがとう。だいじょうぶです」
「そう? じゃぁ、私達は行くね? うちのと遊んでくれてどうもありがとうね」
お母さんに手を引かれ、帰って行く後ろ姿を見送っていると、
「ぼく、あい。きみは?」
振り返り声を張った。
「ひいろ」
私も声を張り答えると、あい、と名乗ったその子は、大きく手を振りニカッ、と楽しそうに嬉しそうに笑った。
その翌日、保育園の正門の前で一日ぶりの再会を果たした藍の肩には、保育園の黄色いショルダーバッグとは別にトートバッグが掛かっていて、
「ぼくもひいろとおなじピアノ、ならうことにしたんだ」
と、クレイダーマンの真新しいピアノピースを見せてくれたのだった。
2018年 3月21日 19時50分
11年越しの再会ということは心に溜め込んだ想いも11年分。
中々泣き止めない私に、困惑するわけでもなくドラマティックな言葉を掛けるわけでもなく憎まれ口を利くわけでもなく泣き止めと催促するわけでもなく再会にテンションが上がっている風でもなく、穏やかな顔で眼の前に居る私を唯見つめ続けている男。私達が4歳の頃に出逢って以来、同じ保育園、同じ小学校、同じ中学、同じ高校。フランスはマルセイユに引越し離れるまでの12年間を本当に毎日毎日、雨でも風でも雪でも猛暑でも極寒でも健康でも病気でも怪我でも、塞ぎ込んでいるときでさえも隣に居た。
どこからどう見ても、唯一無二の幼馴染の西日藍。本物で実像だ。
電話を切ってロビーに戻って来たら、何故か一人のお客さんを前に号泣している私、という現場に驚き慌て心配してくれる谷木さんに
「驚かせてすみません。僕、こいつの、緋色の幼馴染の西日藍と言います。事情があってかなり久々の再会でして…」
と、まともに喋れない状態の私の代わりに藍が説明してくれると、突っ込んで訊くことなく、唯一言だけ、良かったね、緋色ちゃん。と、微笑ましいものでも見たという顔でカウンターに鍵を置いて出て行った。
ギャラリーに二人きりになってからも、私はすぐには泣き止めず、散々ばら泣いた後にゆっくりゆっくり平静を取り戻していった。
藍が貸してくれたハンカチで自分で涙を拭う。
「お前さぁ、背、縮んだ?」
漸くまともな会話を出来るようになったこのタイミング、第一声で言うことなのだろうか?
「変わってないわ! 藍が伸びたんでしょ?」
拍子抜け…いや、これが藍で、これが私達幼馴染だ。
「あと1cmで190の大台だったんだけれど、緋色はギリ150だっけ?」
「小学生までは自分だって私と変わらなかったくせに、調子に乗るなし」
本当にもう、この男ときたら身長以外、何も変わらない。少なくとも、私の眼には、制服にベースを背負った、至極当然が如く私の隣を歩いてくれていた藍のまま映っている…それなら、私は? 私は藍の眼にどう映っている? 私は、変わっただろうか?
「クローズ間際に悪かったな。仕事、おしちゃったけれど、花も自分で届けたかったし、どうしても初日に来たかったから」
「大丈夫。むしろゆっくり話せるし、良かったよ。つかさ、何がどうしてここに居るの? フランスは? 陣さんと幸さんは、また陣さんの転勤で二人で帰国したって、華さんから聞いたけれど」
私は離れてからの藍のことを何一つとして知らないのだ。
SNSを始めた頃に一度だけ考え得るあらゆるユーザー名で藍の存在を捜したけれど、ヒットせず、そもそも藍はSNSなどやるタイプではないと思い直した。以降、PCやスマホの一つでもあればワールドワイドにアンテナを伸ばすことの出来る社会だというのに、サーチエンジンに藍の名前を入力することはしなかった。
きっと、していたらもっと、苦しかった。
「やっぱりそうか……どっから話すかな…親だけ帰国して俺はフランスに残ったことは知ってるんだよな? そうな…マルセイユの高校卒業した後、パリで一人暮らししながら大学通い始めたんだ。でも、3年のときに中退して、パリの、ドラマの制作やってる事務所で脚本の勉強しながら制作アシスタントしてたんだ。そっから3年弱して、色々あって、別の事務所に脚本家として入れることになって、向こうの短編映画でデビューさせて貰って。その1年後、去年の夏に日本の企業からも仕事貰えるようになって、いまはパリ在住で、日本と行ったり来たり」
「ちょっと、ちょっと待って。てことは、まさか、まさかまさかのプロの脚本家? 藍が、六人目のメンバー⁈」
「あぁ、正しくは三人目だけれど、まぁ、そうだよ。橋真さんがパリでの仕事ついでにうちの事務所まで来てくれてさ」
「橋真さんって作曲家の?」
「そう。日本のテレビドラマでご一緒させて貰ったことがあるんだよ」
「サラッと言ったけれど、日本のドラマ⁈ 藍が脚本書いた⁈ 一旦待って。えーと、取り敢えず整理しよ……藍はパリで頑張って、フランスだけでなく日本でも働く売れっ子脚本家で、橋真さんや以前さんや錚々たる方々とユニット組んで、最後のメンバーになるかも知れない無名の画家志望のフリーターの力量を確認しに来た? て、そゆこと? 待って待って。静緋色の名前は何時聞いたの? 静が私だって、分かってた風な登場だったよね? 全くの偶然?」
この超展開に脳が中途半端に追いつているような追いついていないような…ついつい畳み掛けてしまう。
「緋色、お前が訊きたいこと、全部答えるから、取り敢えずそこ腰掛けていい?」
「あぁごめん。どうぞどうぞ。腰落ち着けて話そう」
ロビーのソファに腰掛けた藍の隣に私も並ぶ。
「緋色、お前は俺の11年を何も知らないみたいだけれど、俺はお前のこと絵に関しては知ってるよ? うちの親が帰国して、お前の実家の近所の、あの家に戻って親同士はまた付き合いが再会したから親経由で緋色の近況聞けるかもって期待したけれど、全然で…お前、高校卒業して以来、華さん達とロクに連絡取ってないだろ? だから、プライベートなことはほとんど知らないし、ネットを駆使しても、基本緋色自身が発信していること以外は知り得ないし、つか、お前の預かり知らぬところで俺が何でも把握していたら気持ち悪いだろうしな」
藍と私が仲良くなったことをきっかけに、昔から西日家と静家は家族ぐるみの付き合いで、藍のご両親の陣さんと幸さんと、うちの親の敦史さんと華さんはご近所さんに戻ってからまた親しくしているらしい。けれど、私は地元に寄り着かず、私はどちらの家の近況もほとんど知らないし、私の近況も最低限しか知らせていない。
「藍なら気持ち悪いなんて思わないよ」
私は即答した。
藍は、そう? と、苦しそうで痛そうで、誤魔化すように笑い、私が画家を目指すようになってからの個展や賞、シャルールの絵のことなど、以前さんに聞く前から知っていたと、訥々と話してくれた。
「最後のメンバーは画家がいいって以前さんが考えているのは知っていたけれど、あのビストロのオーナーが以前さんの幼馴染だなんて知らなかったから、すっごい画家見つけたって緋色の名前聞いたときはびっくりした。マジで…」
「静って聞いてすぐ私だって分かったの?」
「そりゃ分かるだろ。よくある名前ってわけじゃねーんだから…」
言葉を一旦切り、藍は俯いてしまった。
(私の名前、忘れてなかったんだ…)
「もしかして、もしかしてだけれど、シャルールに私の絵、観に来てくれたことあるの?」
「あるよ。個展も一回目のときから来てる」
「何それ⁈」
思わず口調が強くなってしまった。だって、そんなことほんの少しだって考えもしなかった。ほんの少しだって知らなかったから。
バッ、と顔を上げ、
「どうやって連絡しようか、お前ともう一度話せるようになるにはどうしたらいいかって、分かんなかったんだよ」
藍も語気を荒げた。
「ごめん。本当にびっくりしてテンパって、だから怒ってるわけじゃなくて、そうじゃなくて……ありがとう」
「お、おう。今日、逢えて良かったよ」
折角再会出来た幼馴染と喧嘩したくはない。唯、感情がぐちゃぐちゃで困惑しているだけで、本当は逢えて嬉しいと、それだけを伝えたいのに。
藍は立ち上がり、仕切り直したいのだろう。少し不自然に明るい声で笑う。
「なぁ、そろそろ静緋色の第三回個展、観てもいい? もう閉めたいか?」
「ううん。まだ閉めないから、ゆっくりじっくり観てって下さいな」
私も意識的に明るい声で笑った。
(藍、本当に来てくれてありがとう。だって、今回の個展は、藍にこそ観て欲しいと思って描いたものだから)
憎らしいくらいの羨ましいくらいの長身の長い脚でズンズンと奥へと進んで行く藍の背に、
「あぁ、やっぱちょい恥ずかしい」
「だからお前の個展は初めてじゃないから、今更だろ?」
(いやいや、今回のは過去のそれとは違うんだよ)
待てを掛けようとしても、身長差40cmの私の短い脚では無駄な足掻きなのだ。
いざ展示作の前に立つと藍は口を閉じ、真剣な眼差しになった。
一枚一枚、集中して観てくれている横顔に、隣に居るのが邪魔なのではないかとすら思ってしまう。
少し距離を取って、私の絵を観る藍を見つめる。
半分進んだところで、藍が口を開いた。
「お前さ、どうするか決めたのか? 俺達とのユニットの件」
眼は絵に向けたままだ。
「まだ迷ってる。藍が居るって知らなかったし、それどころか、今日あのお花を戴いて名前見るまで以前さん以外、どなたがメンバーなのか、一人として知らなかったしね。以前さんと藍とあの四人がメンバーなんでしょ?」
「以前さんも緋色もおっちょこちょいだな」
クスっと笑って、次の絵に進み、また黙り込むので、私もまた距離を取って黙ることにした。
最後の一枚を観終わると、一言も発することなくロビーに戻って行く藍を追い掛ける。
そのままギャラリーの入口のドアに手を掛けた藍に、思わず、
「ちょ、帰るの?」
声を掛けた。
「ウェルカムボード」
「え?」
要領を得ない私を他所に、外に出て、ウェルカムボードをまじまじと見つめてから、
「これ、これさ、もしかして、太陽光を反射させることで完成する作りか?」
(藍、もしかして気付いた?)
「え、あぁ、そう、だよ?」
気付いて欲しいけれど気付いて欲しくないあることに、藍が気付いてしまったかも知れない。
「マジかぁぁぁぁ。ちっくしょ……日中は時間作れないんだよな……なぁ、緋色、陽が当たってるときの写真撮ってないのか?」
「……撮った、よ?」
(やばしやばし。ほぼほぼ気付いてるよ、これ)
「見せて!」
「いや、それがさぁ…」
「何? 撮ったんだろ? 見せろよ」
詰め寄られ、私は渋々、午前中にアップした写真を見せることにした。
「太陽の傾きで変化するから、1時間置きに写真撮ったんだ。ほら、これ」
PCを立ち上げ、HPを開くと、藍が食い入るように液晶を覗き込んだ。
「もう一周して来ていい?」
断るのも不自然極まりない。けれど、照れ臭い。私はロビーで待つことにした。
それから暫くして戻って来た藍は、すっかり平静さを取り戻していて、そろそろ帰るわ。とだけ言った。
「私も一緒に出る。この後バイト、夜勤だから」
「これから夜勤? 大変だな? 何のバイト?」
「平原家具って知ってる? そこの工場の出荷担当。普段は早朝にして貰ってるんだけれ
ど、個展の期間中と前後は夜勤の方が都合が良いからね」
「平原家具なら知ってる。結構おっきい会社だよな? 場所は?」
「榛名。こっからなら歩いても行ける距離だけれど、そんな時間もないから今日は電車乗
る」
藍は新宿のホテルに帰るということで、私達は最寄りの渋谷駅まで一緒に歩くことにした。
「家は何処なんだ? バイト先の近く?」
「そう。徒歩15分くらい」
「てことは、シャルールの近く? 榛名は住んで長いのか?」
「ううん、まだ1年くらい。前の会社辞めてフリーターになるときに、絵を描くことに一番の重きを置けるようにってことで引越して来たんだ。シャルールは徒歩10分くらいのご近所」
徒歩10分の距離はあっという間で、藍がネットでは知り得ないと言っていたプライベートな近況を二つ三つ話せばもう着いてしまう。
ハチ公口に着くと、
「緋色、俺も憶えてる。ありがとう」
唐突にくれた言葉に狼狽する私に構わず、
「もし緋色が入ってくれたら、俺は歓迎する。じゃ、またな」
藍は随分あっさりと私に背を向け、JRの駅構内に消えて行った。
私は一人その場に立ち尽くす。
(こんなことって…)
そう。今回の個展のテーマは大切な人達への感謝。その人達によって生かされた私の人生を表現したものだ。
ウェルカムボードのステンドグラスが陽の光を反射し映し出す虹は、藍と初めて出逢ったあの日あの瞬間に一緒に見たそれで、アクリル画は、あのとき笑ってくれた藍から始まり、数少ない友人や待さん等との思い出が続く。
最後の、一等大きなキャンバスに描いたのは、11年前、空港で見送った藍の後ろ姿。
藍との別れは、人生で一等淋しく苦しく辛い事象で、ずっと真向から向き合うことの出来なかった記憶だけれど、私が自身の足跡を描こうとするとき、藍の存在が最初と最後にくるのは至極当然のことだ。
あの日、出逢えて良かったと。
もう隣にあなたは居ないけれど、心の奥に大切に仕舞ったあなたとの時間と、皆のおかげでどうにかこうにかやっている。
生きていくことは、それだけで大変で、私は涙越しの歪んだ世界ばかり見てきたけれど、それでも、それでもね、静緋色は元気です。
あの後ろ姿に、追いつき追い越せるように、私は先に進むのだと、絵で語ることにしたのだ。
藍が眼にすることはないという前提で。
月並みの表現だけれど、人生は本当に何が起こるか分からない。
けれど、きっと、きっと、すべては繋がっている。
日々、数えきれない程の取捨選択を繰り返して、私は“今日”という日に辿り着いたのだ。
であれば、藍との再会をどう運ぶのか、繋げるのか繋げないのか…またこの瞬間からの自身のそれに依存しているはず。
うん、きっと、そう。
『私には何もありません』と吐き捨てることは簡単だ。
けれど、それは、何も大切にしない。何も守らないし守る努力もしないということを宣言し正当化していることではないか? と今日、初めて気付いた。
子供の時分、私の過ごした時間は幸福ではなかったけれど、真に何も持たない人間だったのかと問うてみれば、否で、私には幼馴染が居た。
専門学生以降の人生には支えてくれる友人だって出来たし、個展を開けば、御祝いをくれる人達にも恵まれた。
自分の想いが一方的であったのなら、と自分が傷つくことを怖がり臆病でいることを、暗い過去の所為にするのは、とてもつまらないことだ。
次回、side.Hi 4話 努力をすれば何でも叶うなんて思わないけれど、努力をしなければ何も叶わないことを、私は知っている は4月10日午前0時掲載予定