side.Hi 16話 黒色はどこまでも優しく愛おしい(前篇)
初めて出逢ったあの日からもう幾度も思った。
本当にもう、この男は…
そういえば、初めて出逢ったあの日から藍と私は喧嘩をしたことがない。
高1の夏に藍がフランスに行くと言ったあのときだって喧嘩になることはなかったし、顔を合わせるのが気まずくなることもなかった。まさか、こんな風に藍を避けることがあるなんて思いもしなかった。
〖I 今日、七色荘に帰って来れる?〗
今月末締切の絵画展の応募作を一枚描き上げた丁度のタイミングでローテブルに置いたスマホが鳴った。
私は誰に対してもマメに連絡をするような人間ではない。周りの人達もそういう人が多いから私のスマホが鳴ることは少なくて、鳴ったときは誰かしらが何らかの用事があるのだろうと、出来るだけ早くメッセージを開くことにしている。
ふぅーと一息ついて筆を置きソファに腰掛けスマホを手に取った。
ロック画面の中央に表示されたメッセージアプリの通知に書かれた送信者の名前を見て、思わず、うわっ! と声を上げてしまった。
藍が私に用事…何だろう…この間の話の続きだったらどうしよう。正直、あのときのやりとりはなかったことにして貰いたい。藍には忘れて欲しい。元カノに嫉妬して藍に強くあたってしまったこと、終いには彼女でもないのに問い詰めるような言動をした上に振られたこと。自業自得だというのに、藍が今後の私との関係を、私への接し方をどう考えているのかを知ることが怖くて怖くてしょうがない。
送られて来た文面からは何も察することが出来ない。けれど、このまま帰らないわけにはいかない。
散々迷い悩んだ末、メッセージを受信して2時間後、漸く返信することが出来た。
〖R 丁度描き上がったところだから帰るよ〗
藍からの返信はすぐに来た。
〖I 食堂で待ってる〗
藍とのメッセージのやりとりの後、来月以降の絵画展の日程を確認しておかなければとパソコンを開き、さらに二作品分の応募書類を仕上げようと記入用紙に向かった。
ついさっき描き上げた海の絵の分はすぐに記入出来た。けれど、8日前に描き上げた黒色をテーマにした絵はどうしてもタイトルが決まらない。
散々考えたけれど浮かばず、悩んでいる間に20時が過ぎ、そろそろ藍が仕事部屋から食堂に降りてくる時間かも知れない。
私はまた書き掛けの用紙をクリアファイルに仕舞い、倉庫を出た。
倉庫と七色荘は目と鼻の先で躊躇っている猶予を私に与えてはくれない。
門の前でバイクのエンジンを止めたはいいが、中々私の脚は敷地内に向かない。
やっぱり藍に帰れなくなったと詫びの連絡を入れて倉庫に戻ろうか? 公園に行って仔猫と遊ぼうか?
「あ! 緋色さん、おかえりなさい」
うじうじと悩んでいると背後から明るく透き通った声が私を呼んだ。
「ダイくん‼ ただいま…」
「やっと帰って来れたんですね? 皆、緋色さんの顔を見れない日が続いて淋しがってたんですよ」
「ダイくんとは顔合わせてたけどね……ん? 買い出し?」
「はい。ジャンケン、俺が負けたんで」
「ジャンケン?」
確かにダイくんの手には買い物袋が2つ提がっている。けれど、こんな量を買って来るのは珍しい。七色荘のメンバーは皆お酒が好きでそこそこ量も飲むけれど宅飲みはあまりせず、飲んでも普段は缶ビールを1本2本くらいだから各々が自分で何かのついでに近所のコンビニで買って来ることがほとんど。何かあるのかな? とダイくんに訊きたいのだけれど、
「早く中、入りましょ」
ダイくんは門を開けサクサクと歩いて行ってしまう。
私はやっぱりまだ躊躇いがあって、脚が前に動かない。
「ダイくん、あのさぁ、やっぱり…」
「どうしたんですか? 緋色さん? 早く早く」
急かされ厭も応もなく私はダイくんの後ろについて七色荘の玄関を開けた。
「ただいま帰りました!」
ダイくんの元気な声に少し遅れて
「ただいま帰りました」
続くはずの私の声は小さく覇気が全くない。
食堂のドアが開いて橋真さんが顔を出す。
「おかえり、ひぃちゃん。ダイも一人でありがとうな」
橋真さんの声は今日も安定の低音と落ち着きだ。
「おかえりー、ひいちゃん。何日も会えなくてほんっと淋しかったよー」
中に入ると碧さんが駆け寄って来て少し大袈裟なくらいのリアクションで迎えてくれる。
「碧さん、俺にもおかえりくらい言ってくださいよ」
「あはは。ごめんごめん、ダイちゃん、おかえりなさい。買い出しお疲れさま」
碧さんにいじられてダイくんの声は楽しそうに飛び跳ねる。
この感じが七色荘なんだよな、と多寡だか一週間ちょっと帰らなかっただけなのに、とても久しぶりな気がする。
「皆さん、ただいま帰りました」
言いながら自然と表情が和らいでいくのを自覚した。
「ダイから、ひいちゃんが疲れ気味に見えるって聞いて皆心配してたんだ」
「御心配おかけしてすみません。確かにちょっと疲れたなとは感じてたんですが、皆さんの顔を見てたったいま回復しました」
「ほんと⁈ 良かったぁ! 俺もひいちゃんの顔を見られてすっごく元気。ダイちゃんだけひいちゃんと会っててずるいよ」
碧さんが笑い、橋真さんとダイくんが笑うと私もつられて笑った。
(ところで、藍は?)
モノローグで藍の所在を気にしながらもやっぱりまだ顔を合わせることを怖がっている。
「緋色、おかえり」
心臓がビクンと跳ね、口から飛び出てしまうかと思った。
「…ただいま」
間が空いてしまったものの、どもらなかった自分に拍手。橋真さんと碧さんの背後から藍が現れた。
「緋色、待ってたんだ。お前に七色荘の八人目の仲間を紹介したくて」
「え‼ 私、聞いてない。八人目だなんて…」
あのカフェでミシェーレさんは自分は藍に振られたと言っていた。フランスに帰国すると言っていたし、きっと今頃はもうアメリカの映像制作の会社で働き始めているはず。ここにいるわけがない。ないのだけれど…
「藍、私」
「ニャー」
やっぱりごめん。倉庫に戻ると言おうとした途中、唐突に動物の鳴き声がした。
「緋色、お前は賛成してくれるか?」
藍が背中に隠していたらしい黒いキャリーバッグを私の前に出した。
バッグの中でガサガサと何かが動き、藍がバッグの口を開けた。
「ニャーニャー」
聞き馴れた声で鳴きながら見馴れた顔が私を見上げる。
(あ…この子‼)
「緋色、昨日、お前が公園でこの仔猫といるのを見かけたんだ。七色荘で皆で飼う…じゃなくて、皆で一緒に住むことにしないか?」
初めて出逢ったあの日、あの公園で、振り返って手を振ってくれたあの満面の笑みが嬉しかった。
その翌日に保育園の正門の前で、見せてくれた私と同じピアノピースが嬉しかった。
中学3年になってすぐに唐突にピアスホールを開けて親や学校に大目玉をくらったその夜に、俺も開けたと見せてくれた真っ赤な耳が嬉しかった。
再会したあの日、相変わらずだと笑ったあの顔が嬉しかった。
藍は本当に私を喜ばせるのが上手い。
また一週間空いてしまいました。申し訳ありません。
そして、今週分も一読頂きどうもありがとうございました。




