side.Hi 2話 縁は神が結ぶのか? 己が結ぶのか?
春一番が私に運んだのは、叱咤激励だった。
だからこそ、私は春一番に乗せて、飛ばしたいのだ。
どこまでもどこまでも高く遠く…。
以前碧という底知れぬ実力のクリエイターに、尊敬とミーハーな憧れに嫉妬…複雑な感情を抱きながらも、工場のバイトの凄まじい程の仕事量に忙殺されていると、あっという間に1か月が経ち、暦は3月も半ば。ついに第三回個展、初日の朝だ。
「緋色ちゃん、全作品の展示完了したから一周して最終確認してね」
「はい。ありがとうございます」
佐治さんの紹介で初めての個展のときから搬入を依頼している業者さんと、ここギャラリーtaniのオーナーの谷木さんと私とで会場の準備を進めている。
谷木さんから指示を受け、私は一人ギャラリーの入口に戻り一枚一枚確認していく。
「すみませーん、フラワーガーデンEASTです」
「はーい」
奥の事務所から谷木さんが返事をする。
「いいよ、私が出るから。緋色ちゃんは確認続けていて」
何と名乗ったのか良く聞こえなかったけれど、この個展とは別件の用件で来た業者さんかも知れないし、谷木さんがいいと言っているのだから出しゃばるのは良くない。私は展示作に視線を戻す。
最後の一枚まで確認作業を終え、フゥー、と大きく一息ついたところで入口の方から谷木さんの私を呼ぶ声がした。
谷木さんには珍しく、興奮気味でこっちこっちと急かされギャラリーの外に出ると、
「こちら静緋色さん宛の御祝いのお花です」
キャップを浅く被りエプロンを付けたお兄さんがふわりと笑い、甘い香りがした。
「これ全部緋色ちゃんへのお花だよ! 凄いね! 良かったね!」
そこには五つの大きなフラワーアレンジメントがあった。
ハートやリングに模られた生花で、見た目の華やかさや可愛らしさでときめいた心を柔らかな香りで優しく包み込んでくれる。そんなアレンジメントだ。
「事前に受け入れ可否の確認の連絡を戴いているから私は知っていたわけだが、実際にこの数の御祝いを眼の前にすると、改めて静緋色の凄さが分かるなぁ」
谷木さんがしみじみと言ってくれたその言葉に、花屋さんの目尻も下がった。
私の心は表現しきれない感謝の念で満ちていく。
既に沢山の大小様々のお花がロビーの受付のカウンターやテーブルに飾られていて、待さん、学生時代の友人、前の会社の上司やバイトさん達、前の前の会社の社長や元同僚達、バイト先の上司、“シャルール常連一同”という連名などが並んでいる。
「私が凄いかどうかは…いえ、その、ありがとうございます」
こういうときは余計な謙遜は要らない。素直に喜んで、ありがとうと言うものだよ。と教えてくれた佐治さんだ。
眼を細め小さく頷く谷木さんの眼尻に皺が寄り、佐治さんの眼尻のそれを思い出す。
花屋さんを見送った後、新たに飾って貰ったお花を下さった方々の名前を確認していく。
まず一つ目は“(株)プロダクションJ&H 以前 碧”
「以前碧‼」
驚き慌てつつ、二つ目は、
“(株)note 橋真 黄侍”
「て、橋真さんってあの作曲家の⁈ 待て待て、次は」
“(株)カタツムリアニメーション 鈴野 紫来”
「ええ⁈ どうなってんの⁈」
更に他の二つにはそれぞれ、“(株)アドヴァンスブラザーズ 左村 蒼”“高峰 橙”と書かれている。
橋真さんという方は、私が好きなアニメやゲームなどの劇伴を作っている作曲家で、私も何枚もそのサントラCDを買っている。もっと言えば、メディアプレイヤーにインポートしてスマホのライブラリに入れてあって、今朝も聴いた。と言うか、毎日聴いている。
鈴野さんという方は、アニメ監督で、あの、あの、私が一等好きな小説家、ライトノベル作家、漫画原作者の雨さんこと時雨 何時暇さん原作脚本の大人気アニメ作品【STELLA】を作った人で、世界的に大人気漫画家の椰津 愁図さん原作の大人気アニメ作品【船上高校LIBE】も鈴野さんの監督だ。因みに、橋真さんはその両作、以前さんはSTELLAに参加している。
左村さんは、私がバイトの休憩時間にいつもやっているアプリゲームを作ったゲームプログラマーで、名作と名高いタイトルを幾つも世に送っている。
大手通販サイトから送られてくるメルマガの売上ランキングのゲーム部門では年間通しての上位常連という、ゲーマーと言う程プレイしていない私でも知っている数少ないプログラマーの内の一人だ。
さらに、高峰さん。彼は、数ある少年漫画雑誌の中で発行部数一位を長年キープしている週刊少年ジェットで連載する漫画家で、高校在学中にジェット作家の十竜門と言われる二大賞を続けて受賞。その二こ目の賞の受賞作で連載を開始し、7年間だったか? 長期連載で本編完結。その後、間を開けずスピンオフを連載中。
一時期、椰津さんのアシスタントに入っていたこともあり、師匠として慕っているらしい。
いまではその椰津さんと、椰津さんと共作している雨さんと共にジェットの三大看板として知られている。
そして、プロダクションJ&Hもnoteもカタツムリアニメーションもアドヴァンスブラザーズも週刊少年ジェットを発行している永生図書出版も、業界大手の大企業だ。
この錚々たる五人の内、面識があるのは当然、以前さんだけ。普通に考えれば私のような無名も無名の画家志望のフリーターに御祝いを戴けるわけがない。
作曲家、アニメ監督、ゲームプログラマーに漫画家…ということは、この四人が以前さんの言っていたクリエイター集団のメンバー?
五つのお花は同じお店から届いたもので、コンセプトが統一されコーディネートされているように見える。
どうしてあの場で以前さんにメンバー全員の名前を訊いておかなかったのだろう…以前さんも私もやや興奮気味で、決して冷静とは言えない状態だったのだ。
(御祝いまで戴けるなんて思ってなかったな)
「以前さん、橋真さん、鈴野さん、左村さん、高峰さん……」
(て、あれ? 連名のものはこの中にはない。五人、だよね? てことは、もう一人は…脚本家だ。脚本家がいないんだ。どなたなんだろう?)
私はお花の前で暫し考え込んでしまう。
「私は絵の世界以外は詳しくないけれど、流石にこの社名は知っているよ。日本を代表する大企業だもんね?」
「はい。私もびっくりで」
「そっか、知人ではないのか! やっぱり凄いね。画家、静緋色人気」
「この以前さんとは、シャルールでマスターに紹介されて少しだけ」
「あそこの三枚も相当だからね、作者に会ってみたいと思う気持ちは分かるよ。あのド迫力が、落ち着いた雰囲気の店と不思議とぴったり合っていて、これを相乗効果と言うのかと、観る度感心するんだよ……と、まったりしている暇はないんだった。緋色ちゃんもウェルカムボードまだでしょう?」
受付のフリップクロックがパタパタと音を立て、オープン20分前を知らせる。
毎回手作りしているウェルカムボード。今回は、カローレの店長時代に一緒に働いていたバイトさんで、大学でステンドグラスの勉強をしている友人に教えてもらって作った。
大切に抱えギャラリーの外に出ると、七色のステンドグラスに太陽の柔らかな光が反射し、地面に虹が掛かる。
「初日が晴天で本当に良かったぁ。最終日まで5日間、どうかどうか降りませんように」
3月21日(水)春分の日、第三回静緋色絵画個展の最初のお客さんは待さんだった。
「待さん!」
待さんの笑顔はシャルールの外で見てもやっぱり温かくて柔らかくて、癒し効果抜群だ。
嬉しくてすぐに駆け寄ると、
「緋色ちゃん、第三回静緋色絵画個展、無事開催おめでとう!」
「ありがとうございます。今回は待さんが第一号。最初のお客さんです」
オープンの10時になり、ギャラリーtaniのオープンクローズのプレートを裏返しに外に出ると、すぐそこ、設置したばかりのウェルカムボードの前に待さんが立っていたのだ。
「うん、狙って店出て来た」
「あ、ランチタイムの仕込み、終わったんですか? すみません、いつもより早起きで寝不足じゃないですか?」
「大丈夫。それより、このボードめちゃくちゃ綺麗! 緋色ちゃん、こんなステンドグラスまで作れちゃうなんてびっくりしたよ! まぁ、でも、静緋色ならやれるか。て、思えてくるから、流石だね」
「入る前からベタ褒めですね? 嬉しいです。これはカローレの元バイトさんに大学でステンドグラス勉強してる子が居て、教えてもらって作ったんです。大学の工房なら溶解ガラスの段からやれて面白いから。て、誘ってくれて」
「そうなんだ? 確かに面白そう。これ、写真撮らせて貰ってもいいかな?」
「はい、勿論。あ、でも、これ、光の反射ありきで、昼間は太陽の傾きで見え方変わるので、数時間おきに写真撮って個展のHPに掲載する予定なんです。なので、いま撮って貰わなくても見れますよ?」
「成程ね。それも楽しみ! でも、それはそれかな。ただもう一度見るだけじゃなくて自分のカメラで撮ることに意味があるから」
待さんのこういうところ、素敵だなと思う。待さんと接していると、薬のキャッチコピーではなく、この人は、他者への優しさと温もりと愛情で出来ているのだなと、いつも思う。こんな人に私もなりたいと、切に思う。
待さんと中に入り、受付で簡単な自己紹介と今回の個展についてまとめた小さな冊子を渡す。
嬉しそうに表紙を眺めてから、丁寧にページを捲る待さんに、じっくりゆっくりご覧になっていって下さいね。と谷木さんが聴き易く柔らかな声で微笑み、私も自然と笑みが零れた。
眼の前に広がる花畑が如し御祝いのお花に気付き、一瞬眼を見開く待さんの横顔に、
「待さんがくださったお花も勿論ありますよ。いつもありがとうございます」
御礼を言い隣に並ぶと、小さく頷きふわりと笑ってくれたのが顔を見ずとも空気で伝わる。
少しの間、一緒に眺めていると、ドアが開く音がして、振り返る。
「緋色、来たよ」
私を見つけた糺が入口で満面の笑みで手を振ってくれている。
谷尋 糺。旧姓を八原と言い、専門学校のクラスメイトで、卒業して何年も経ったいまでも連絡を取り合っている数少ない旧友で、静緋色という人間の全てを見ていてくれて、知っていてくれる友人だ。
前の会社のカローレを辞めて本気で画家を目指すと決めたとき、直接その旨話したほとんどの相手に無謀な奴だと思われた、と思う。そして、そんな夢物語の為に折角の大手の東京本店店長兼料理長という地位と、その稼ぎの上で成り立っているそこそこのマンションでの生活を捨てるのかと遠回しに言われた。
仕方のないこと、それが真っ当な大人の、真っ当な社会人の考えなのだろうと、受け流そうとしたけれど、悲しいような淋しいような悔しいような頭にくるような…湧き上がってしまった感情は消化するのに骨が折れた。
両親ですら、口では肯定的なことを言っていたが、顔には、叶えられるはずがない。と書いてあった。両親から話が伝わった兄姉には、そりゃそうだろ! と真っ向から否定された。
自分でやりたいと言ってピアノを始め、その為に小学校から高校まで私立の音楽学校に通わせて貰った。けれど、図書館司書になりたいと言い出して、文化文芸専門学校に進学。そこそこの規模の私立図書館に就職したは良いが2年で退職。挙句、これまた唐突に全く別の職種である外食産業に転職。自ら熱望しイタリアくんだりまで飛び、料理人修行。運良く、東京本店、事実上の日本本店に栄転して3年。漸く落ち着いたと思った矢先にまた退職。挙句、何の勉強もしてこなかった絵でご飯を食べていくとか言って、いい加減にしろ。とガチ切れされた。
『何回“挙句”って言わせんのよ! 挙句っていうのは、本来行きついた果てに使う言葉で、人ひとりの人生にそう何度も出てくるもんじゃないの! この馬鹿者が!』
と、姉の罵声は一言一句違うことなく憶えている。
それでも、意志を変えることなく退職し、絵具にまみれた生活を始めたのは、まだ迷っていた頃、糺が私にくれた一言があったからだ。
『私は緋色のそのフリースタイルな生き方好きだよ。そのまま突き進め』
あのときの言葉を、私は頑丈な額に入れて大切に心の中に飾っている。
糺は出逢った頃からそうだった。何も変わらない。糺は何時いかなる時でも、緋色なら大丈夫だと信じて疑わない。
正直、私の何処にそこまでの根拠があるのか、自分では分からないけれど、私も糺を信じて疑わないから、三段論法で私は私の道を信じることにしている。
「じゃ、緋色ちゃん、俺、一周して来るから。また後でね」
待さんは糺に会釈してから、一人でギャラリーの奥に進んで行った。
私は、自分の作品について訊かれれば解説するけれど、基本多くは語らず、観て下さった方各々の感性で受け取って貰えたらと思っているし、待さんが自分のペースで静かに観たいタイプだと私も知っている。
「もしかして、待さんに気を遣わせちゃった?」
「大丈夫。一人で観たい人だから。また後で声掛けてくれると思うし」
糺は、シャルールに私の絵を飾って貰えるようになってすぐに観に来てくれ、三枚目のときもコースターを描かせてもらったときも来てくれている為、待さんと面識がある。
入場料を払ってくれたお財布を仕舞うのを待って、糺にも冊子を手渡す。
「いつもありがとうね。お花も飾らせて貰ってるよ」
「緋色が頑張ってるの、嬉しいからね。私も」
糺が喜んでくれていることが嬉しくて、思わずクシャっと笑いが零れる。
「変わらないな…」
糺は呟き、お花凄いね! とマイペースに歩いて行った。
糺のこういうところも、私は付き合い易くてラクだなと感じている。
「緋色、この以前さんって、例の話の人だよね?」
「そう。で、多分この四人がそのメンバーの方々だと思う」
以前さんとのシャルールでの話は、勿論、糺にも話し相談している。
「想像以上の錚々たる社名が並んでるけど、個展には来てくれるんだよね? もう決めたの?」
「何日目になるかは分からないけれど、全員来てくれるって聴いてる。私、5日間ずっと居られるわけじゃないから会えない可能性もあるんだけれど、最終日のクローズ後にシャルールでお疲れ会やろうって誘って戴いてるから、直に皆さんにお会いして、話聴かせて貰って、と思ってる」
「そっかぁ…まぁ、そうだよね、それがいいね」
お花を眺めた後、糺も待さん同様、一人で奥に進んで行った。
私は一度受付に戻り、PCで、ウェルカムボードや御祝いのお花などを撮影した画像を普段から使っている幾つかのSNSと個展のHPにアップし、無事オープン出来た旨を記す。
PCを閉じ顔を上げると、丁度のタイミングでドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
谷木さんと声が重なる。
「こんにちは。緋色、個展開催おめでとう!」
スーツ姿のビジネスマン風の男が、その風貌とはギャップのある少年が如く笑顔で笑う。
「ありがとうね。今日、遅番?」
私も笑顔を向けると、その顔、取り敢えず写真撮っていい? とスマホのカメラを向けられる。
「本当に撮るの好きだね?」
私は本来撮られるのが苦手なのだけれど、この男は例外。もう撮られ慣れていて、シャッター音が不快ではない。
梁有 恭一。専門学校時代の同期生で隣のクラスだった男友達だ。糺や、私達とつるんでいたもう一人友人の道高 笑紅とは面識がないけれど、私は学祭で同じ係を担当した関係で知り合い、すぐに意気投合した。そして、同期生で唯一同じ図書館に就職した元同僚でもある。
恭一は、既に図書館司書を辞めている糺や私とは違い、現役で、秋穂図書館入社3年目に本館の主任に昇進した出世頭だ。
「緋色は面白いからな、撮ってて飽きない」
「それさ、何度も聞いてるけれど、貶されてるのか褒められてるのか判らないよね」
何時も通りの軽口を叩くと、恭一も何時も通り満足気に笑い、何時も通り私の半ば冗談の問いには答えない。最早、ここまでの一連の流れがデフォルトでお互いこれを楽しんでいる節がある。
「図書館の連中も来るって言ってたぞ?」
「本当? 楽しみだな。今回も秋穂社長からのとは別に、本館スタッフ一同と分館スタッフ一同で二つもお花戴いてて、直接お礼言いたいしね。恭ちゃんもありがとうね。個人名でもくれて」
「俺をついでみたいに言うな」
わざとらしく拗ねた声を、わざとらしく笑って流すと、スルーかよ。と恭一もまた笑った。
「図書館の他の皆はまだだけれど、いま糺が来てくれてるよ? 初対面してく?」
二人は面識がないと言っても、私が話題に出すので互いに大体の人物像は知っている。
「お! マジで? 会いたい会いたい」
恭一と二人で展示スペースに進み、辺りを見回すと少し行ったところに糺の姿を見つけた。
一枚一枚じっくり観てくれている糺にタイミングを計って声を掛ける。
「糺、こちら、文化文芸の同期で、秋穂図書館の元同僚でもある梁有恭一さんです」
「え‼ 緋色が良く話してる梁有くん?」
「恭一、こちらが谷尋糺さん。あ、旧姓は八原ね」
「初めまして。梁有です。昔からずっと緋色から話聴いてて、ずっと会ってみたいと思ってました」
「初めまして。谷尋糺です。私も梁有くんに会ってみたかったんです。緋色、学生時代から梁有くんの話するとき、本当に楽しそうだし褒めちぎってるから」
「八原さん、じゃなくて、谷尋さんの話してる緋色もそうだよ? 『糺のおかげ』って良く言ってるもんな? 緋色?」
「そうだね。糺のおかげって思うことはいっぱいあるよ。恭一のおかげって思うのと同じくらいね」
恭一は男で私は女だから、図書館では仲を疑われたこともあったし、互いに恋人が出来たら誤解されないように。とか、対外的には気を遣うこともあるけれど、私達自身のやり取りでは互いに性別は特に気にすることなく付き合える間柄で、仕事上、どうすべきか迷ったり納得出来ないことがあると、よく相談に乗って貰っている。
糺や他の知人友人が、私を聴き上手と称してくれるのは、恭一の聴き上手っぷりを見習ってのことなのだ。
この個展も、スタートは恭一の一言だった。
『どんだけこねくり回して思考思案を重ねたところで、何も始まらない。取り敢えず飛び込んでみる』
一つの戦略として個展の開催を思いついたはいいけれど、不安は羅列しきれない程あって、実行に移すのが怖かった。恭一が居なかったら妄想で終わっていたと思う。
「お前さ……」
「糺も恭一も、長年お世話になりまして、感謝しています」
皆、学生時代も学校にバイトに忙しく、社会人になっても仕事に家のことに忙しくしていて、直接会えるのは数ヶ月に一度程度。
それでも、心の距離は広がらず、自ら連絡を取りたいと思う。連絡を取りたいと言ってくれる友人は、保育園まで遡及してみても、ほんの少しだけ。
私は、高校での失敗を生かして、専門学校入学以降、社交的で快活で“良い人”を演じている。
その結果、人間関係においても環境適応力は身に付いたけれど、それは浅い付き合いで、自分から踏み込むのも踏み込まれるのも、本当は未だに怖い。
『愚痴でも何でも何時だって聴くよ。迷惑だなんて思うわけないし、もし迷惑だって思う奴がいるんならそんなの友達じゃないだろ?』
昔、恭一がそう言ってくれたから、相談に乗って欲しいと素直に言えるようになったけれど、甘え過ぎないように、寄り掛からないように。
きっと、私の陰に気付いている。糺も恭一ももう一人の友人の高っちゃんも、待さんも…。
三人で立ち話をしていると谷木さんに呼ばれた。
二人に断りを入れ、ロビーに戻る。
「緋色ちゃん、今回もとっても素敵だったよ! 特に最初と最後の一枚は凄かった。あの絵の中の人への真直ぐな想いが、観てるこっちにも流れ込んできてびっくりした。緋色ちゃんの緋色ちゃんたる所以って言うか…なんかさ、合点がいったよ」
「合点? ですか?」
「あ、ううん、何でもない。兎に角、感動した。前回のも良かったけど、今回のは表現が直接的で、撃ち抜かれたよ」
今回の個展は一つのテーマの元、フライヤーからウェルカムボード、メインのアクリル画までのすべてを構成した。プロローグから始まって、本編の起承転結。エピローグ。
(待さんには伝わった、のかな…)
「それはそうと、碧の話は考えてるの?」
「はい。でも、まだ固まらなくて…」
「緋色ちゃんの考えに口出しするつもりはないけど、念の為二つだけ言わせて。僕の紹介だから、てことは気にしないでいいんだからね? 碧があの絵に魅かれたのは、作者の緋色ちゃんがうちの常連だとか僕が親しくしてる人だとかは関係ないんだからね?」
先回りが上手い。正直、その二点は気に掛かっていた。
待さんは返答に詰まった私に追及することはせず、それじゃ、最終日の夜、お疲れ様会の準備して待ってるからね。と、シャルールに戻って行った。
その後、図書館の皆やカローレの皆、フライヤーやSNSで興味を持ってくれた人達が来てくれ、バタバタしているとあっという間に夜になり、クローズの20時間近になっていた。
谷木さんに、奥の事務所で電話してくるからと、お客さんも居なくなり特段やるべきこともなくなった私は受付を任され、一人でロビーで待機していると、入口のドアが開いた。
「すみませーん、静緋色さん宛のお花をお届けに参りました」
顔の高さでお花の鉢を抱えた男が入って来た。
「あ、はーい。静は私です」
駆け寄り、受け取ろうとすると、
「見た目より重いですから、運びますよ。何処に飾りますか?」
「………………………………………………………………………」
その瞬間、私は喉が詰まって声が出なくなった。呼吸すら出来ない。
私はこの声を知っている。
「おーい、まだ気付かねぇの? つか、俺のこと忘れたってことはねぇ、よな?」
抱えている鉢を胸の高さまで降ろし、顔を見せる。
「静 緋色さんへ西日 藍より」
「……………」
人は心底驚くと呼吸困難になるらしい。
私の左手がまた無意識的左耳の計四つのうちの二つ、軟骨のシルバーと耳朶のガーネットのピアスに伸びる。
「おい、緋色? 俺の知ってる緋色だろ? どっからどう見ても静緋色にしか見えねぇんだけれど、何か言えよ!」
私のこの世で唯一の幼馴染で、高1の夏にフランスに引越して以来、音信不通だった、藍だ。
藍が焦れるくらい数秒だか数分だかの時間が経ち、どうにかこうにか絞り出した私の声は、
「藍…本物? 本当に藍なの?」
少し掠れてしまった。
身体の奥から自分でも訳が分からない程の感情が込み上げてきて、これまでの人生で一度も経験したことのない程テンパっている。いや、これはパニックという単語の方がしっくりくるかも知れない。
「何で泣くんだよ? バーカ」
困ったように眉を下げ、嬉しそうに眼を細めた顔で見つめられ、
「え? 私、泣い、てる?」
自覚のない間にポタポタと大粒の雫が床に落ちていた。
「一旦ここ置くぞ」
手近のカウンターに鉢を置き、藍の指が、私の眼の下にそっと触れ、涙を拭う。
「これ、指じゃ間に合わねぁな。ポッケにハンカチ…」
モッズコートのポケットからハンカチを出し、抑えるように顔に当て、溢れる涙を拭ってくれる。
「緋色、第三回個展開催おめでとう」
「ひっく…あり、が、とう」
しゃくり上げる程泣きながらも盛大にクシャっと笑うと、
「相変わらず、ブッサイク。泣くか笑うかどっちかにしろよ」
聴き馴れた声、見慣れた顔、無遠慮な態度。
“相変わらず”は私の台詞だ。バーカ。
伝えたい、伝わって欲しくない、気付いて、気付かないで、怖い、恥ずかしい、大切だなんて、ありがとうだなんて…
それでも…それでも私は、伝えたい。
side.Hi 3話 不安でも怖くても、進んだ先に… は4月3日午前0時掲載予定