side.Hi 1話 運命が動き出す瞬間、人はどんな顔をするのだろう
したいことと出来ること≠させて貰えること
だからなんだと言うのだ! 下らない!
2018年2月
また悪い癖が出た。
何か悪いことや厭なことがあるとこうやってすぐに、あぁ、あの頃から私の人生は…なんて、まだ多寡だか27年弱しか生きていないくせに達観して何もかもが上手くいかないのが私なのだと諦めようとしてしまう。
「馬鹿らしい。諦めるってことが出来ないから苦しんでいるんだ」
諦めることが出来る事象であれば、元よりさして欲していなかったということなのだ。
つい先刻、広告会社から『誠に残念ながら貴君の意に沿えない結果と~』と常套句のメールが届いた。絵を描く仕事の求人ということで、先週エントリーした企業だ。
こんなメールを何件受信したのか、私はいつの間にか数えることをやめていた。
深い溜息を吐く。
昨日まで極寒だと感じていたはずが、いつの間にか日本列島の南側から春一番の発表が出始めている2月の終わり。世間は浮き足立ち、草木や虫達もいまかいまかと待ち構えているが如し。
私の苦手な春の気配は、吐いた溜息をより一層深く深くしていき優に地下42mを超す。そして、私自身を引き摺り込み放さない。
大江戸線のトンネルさえも頭上に見えるこの場所に暖かな陽の光は届かない。
が……まだ生き埋めになったわけではない。色々言ってみても、私はまだ呼吸をしている。
静かに瞼を閉じ深呼吸をする。ゆっくり瞼を持ち上げ、地面についた両脚に力を入れ直す。
(これは溜息ではない。私は大丈夫)
一度は下ろした手をもう一度上げ、ドアノブに掛ける。
カランカランと鳴るドアベルと共にいつものシャルールに入った。フランスの家庭料理を出す落ち着きのあるビストロだ。
「いらっしゃ、あ! 緋色ちゃん、お疲れ様」
いつも通りすぐに待さんの声がカウンターから聴こえてきて思わず泣きそうになる。
ここでこうやって掛けてもらう『お疲れ様』はぼろぼろの砕け散りそうになった私の心を温かく包んでくれる。労いの言葉がこんなにも心に響くなんて少し前までは知らなかった。
「お疲れ様です。待さん」
明乃 待さん。このお店を一人で回す店主だ。
涙を引っ込め、カウンターの奥、端の席に向かい、ポンチョを脱ぐ。
「緋色ちゃん、もしかして、また徹夜で描いてそのまま出勤?」
190cmととても背の高い待さんは、ぐいっと首を傾げて眼を合わせて心配そうな声を掛けてくれる。
「あ、いや、部屋に帰ってないって言っても倉庫でシャワーは浴びましたよ?」
「女の子だもんね? 大丈夫だよ。そこ疑ったりしてない」
クスっと笑いながら温かなおしぼりを手渡してくれ、
「ちょっとだけ待っていてね」
言うなりすぐにカウンター内のキッチンに戻っていった。
誤魔化された…フリをしてくれたのだろう。
私は握り締めたままだったポンチョをすぐ側のハンガーに掛け、腰掛けた。
こうして落ち着いて腰を下ろすと途端にドッと色々な疲労が押し寄せてくる。
思わず、深い溜息が零れそうになり、意識的にふぅー、と長く息を吹いて自分を誤魔化す。テーブルに突っ伏してしまいそうになったところで、
「はい、取り敢えずビールと枝豆のガーリック風味、ぬくぬくトマトフだよ」
頭にポンと待さんの大きな手が置かれた。
込み上げてきた涙を抑え込んで姿勢を正す。
「待さん…」
「お腹いっぱい好きなだけ食べて好きなだけ飲んで、部屋に帰ってぐっすり眠る。一息入れようね。色々疲れたって顔をしている」
(色々…)
「私、待さんには絶対隠し事出来ない気がします」
「緋色ちゃんは分かり易いんだよ」
「よく言われます。単純なんだと思います」
柔らかに笑う待さんに笑みを返し、改めて目の前のビールと枝豆、新メニューのトマトフという名のポトフに視線を落とす。
「美味しー!」
今日一(暫定)の笑顔が溢れる。
「おい! まだ手付けてないよ?」
「だって、もう視覚と嗅覚と感情が既に大絶賛してるんですもん」
「なんだそりゃ」
待さんのツッコミが心地良い。
横にした木製のスプーンを両手親指に掛けた状態で手を合わせ、
「いよいよ、いっただっきまーす」
声を立てて笑う待さんの、どうぞ、を待ってすぐに頬張った。
「美味しー。優しい。シャルール、いえ、待さんみたいです」
私は絶賛し、一旦スプーンを置いてビールに手を伸ばす。
「『待さんみたい』は良かったな。思い切って新メニューを出してみた甲斐があるよ。まだ2月も終わりだけど冷えるからね」
待さんは何時も何も言わなくても私の気分や体調に合わせて飲み物も料理も出してくれる。
店名である〚chaleur〛はフランス語で温もり。待さんの一等好きな言葉で、私は待さんそのものだと思っている。
初めて来店したときだった。どこにも片仮名表記のないこの店名をすぐに読める人は少なく、シャルールって、温もり、ですよね? とさらりと読んだ私に驚き、
『フランス語、出来るの?』
それまで私にも他のお客さんにもとても丁寧な敬語で接していた待さんが、ぽろりと零したみたいなタメ口だった。
『昔、友人がマルセイユに引っ越したんです。それで、何となく私もフランスに興味を持って独学でちょっとだけ勉強を』
『マルセイユかぁ、プロヴァンスハーブの料理も美味しいんだよね。あ、僕が修行してたビストロはパリなんだけどね』
私は普段こんな風に自分から店の人に話しかけることはしないし、したいとも思わないのだけれど、このときは至極自然に言葉が口から出ていて、待さんもまた至極自然に答えてくれたことが嬉しくて心地良かった。
『僕はね、温もりが欲しい。同時に温もりを与えたいんだよね。だからね、僕の料理とこの場所で、温もりに満ちた空間を作りたいって思って、まんま店名にしたんだ』
『そういう空間を探す、ではなく、自分で作りたいっていう思考が凄く素敵ですね。私も“温もり”っていう言葉、好きです。何て言うか、こう、ほっぺが緩ってなる感じがして』
待さんは少し照れたような笑みを浮かべ、
『フランス語表記ならフランス料理を出す店ですよって伝わり易いかな、ていう意図もあったんだけど、実際はびっくりするほど誰にも読んで貰えなくて、フランス語だって判別すらして貰えてないんだよね。だから嬉しい』
と、喜んでくれたのだった。
あの日から今日までずっと私はこの温もりに支えられている。
ふふっと笑い、もう一度スプーンでポトフのトマト色の透き通ったスープを掬う。
ビールの気泡と枝豆のガーリックの香り、ポトフの湯気、待さんの笑顔に包まれているとつい先刻までの地下42m強に、光が射すように感じた。
すみませーん、とテーブル席の方から呼ばれ、待さんがカウンターから出て行くのを何となしに眼で追うと、店内に入って正面の一等目立つ位置の壁に飾られた大きなアクリル画が視界に入った。
(あれからもう3か月半経つんだな…)
眺めていると、
「三枚とも凄く好評だよ、緋色ちゃんの絵」
オーダーを取り終え、カウンター内に戻ってきた待さんがさり気なく言ってくれた。
店内には私が描いた三枚のアクリル画を飾って貰っている。
3か月半前、二度目の来店だった際に唐突に持ち込み、飾って貰っているもので、掴みのプレゼン用に一枚、そのすぐ後にもう二枚、待さんからリクエストを貰い描いた。
「このコースターもね」
ビールジョッキの下のそれを指して待さんはニヤッと笑った。
使い捨ての厚紙製のコースターには、年明け初日の営業日に合わせて心機一転! と言って、昨年末に待さんが私に仕事として依頼してくれた数種類のイラストがそれぞれ印刷されている。
「これをコンプリートしたいっていうお客さんもいてね、使わずに持ち帰ってもいいかって訊かれたりもするんだよ」
「全力で描かせて戴いた甲斐があります」
有難い話に御礼を言い、硬くなった表情筋がゆっくりと柔らかくなっていくのを感じた。
察してもらえたと思うが一応補足しておく。
私はこの近所の平原家具世田谷工場商品管理部配送係に所属し、出荷ライン担当として働いている。要するに、コンテナを運ぶ運ぶ運ぶ、のバイトで生計を立てている。
物心ついた頃からずっと絵を描くのが好きで独学で油絵やアクリル画を描いているけれど、特段美大卒でも何でもない。私が卒業したのは、絵とは程遠い専門学校で、取得したのは図書館司書資格だ。
しかも、実際に司書として図書館にいたのは卒業後2年間だけで、そのあとすぐにイタリアンの大衆食堂であるトラットリアをイタリアと日本に数店舗構える外食産業の企業に再就職し、ミラノとフィレンツェで料理人修行をした後、東京は丸の内で店長兼カポクォーコ、つまり料理長をしていた。
絵の道を目指す決心をしたのは一昨年末。会社に退職の意向を伝え、3か月かけてイタリアと日本の各署のお世話になった人達と話し合って納得して貰い、後任探しと引き継ぎをした。
同時進行で、描く時間を最大限に確保出来るように、割高のアルバイト先探しやら激安の家賃で借りられるアパートへの引越しやら住居とは別に描く場所の確保やら諸々環境を整えた。
去年の年度末に合わせて退職してすぐに、絵画展の出展作を描き始めたが落選続きで5か月が経つ頃、四度目の正直で漸く個人経営のアートサロンの絵画展でなんとか審査員特別賞を受賞することが出来、他者の眼に触れる第一歩として予てからの計画通り小さな個展をやって、更に、入賞を引提げカフェやバーを中心に飾って下さいと持込を開始した。
何軒もの店で断られ続け、小さな絵画展でどうにかこうにか入賞しました。は、その程度のもので“引提げて”などと考えた私は甘すぎたと痛感した頃、ふと頭に浮かんだのがシャルールだった。
絵の仕事は、去年の12月にあった株式会社四葉画材という企業主催の四葉画材現代美術コンクールの絵画部門で準賞を受賞した副賞で、同社ギャラリー展示販売用として買取の条件で描かせてもらったアクリル画二枚だけで、それも先月に納品が完了し、過去のこと。個展もシャルールに常設して貰うようになってすぐに二回目をやったけれど、入場料から場所代を差し引けば手元にはほとんど残らない。
兼業と言うには憚れる、26、いや今年の誕生日、あと約7か月後には27歳になるフリーターなのだ。
「続きまして、ほわっとオムライスと、おかわり好きなだけしてねビールだよ」
私の一押し、ホワイトシチューがけのオムライスと二杯目のビールにほんわかしていると言い出しづらいのか? 実は、と待さんが切り出した。
「この絵の作者が来店したら連絡してくれって言ってる男がいるんだ。駆け出しのCGクリエイターなんだけどね」
「え⁈ CGクリエイターさん、ですか?」
全くもって予期せぬワードが飛び出してきたことに驚き過ぎ、スプーンの上に丸く掬って作った小さなオムライスが口の前で止まった。
口は半開きで絶賛阿呆面晒し中の私。
「緋色ちゃん、口。食べながらでいいよ。冷めちゃうし」
待さんが無遠慮に笑う。
こういうとき盛大に笑って貰えると便乗して笑い飛ばせる空気になるから有難い。
遠慮なく口に入れ損ねた一口を頬張ったところを見届けると待さんは微笑み、話を再開する。
「以前 碧って言ってね、僕の幼馴染なんだ」
「え⁈」
(幼馴染………)
「緋色ちゃん? ピアス? 耳、どうかした?」
私は無意識的に左耳のヘリックス、つまり上輪部の軟骨に着けているイヤーカフ状のシルバーのピアスと、耳朶に三角形を模るように着けている三つのピアスのうちの一つ、ガーネットのピアスを、順に触っていた。
指摘され、慌てて手を下ろす。
「え? あぁ…いえ、すみません。続けてください」
「? うん。そうだな、もう23年の付き合いになるのか? 年は離れているんだけど実家が隣同士で、いつも気付いたら俺の後を追いかけて来てて。何であんなに懐いてくれてたんだろうな? 特段面倒みてやった自覚ないんだけどあいつ一人っ子だからかな?」
「待さんは弟さんと妹さんがいるんですよね?」
「そうだよ。だから末弟みたいものだったよ、碧は」
待さんは当時の二人に心を寄せ揺蕩う様に思い出話をしてくれた。
「昔から何をやっても初めからすんなり出来る所謂天才型でね、加えて見た目も整ってるものだから何処行っても目立って、天はあいつにどんだけ与えんだよ。て、周囲からよく言われてたんだ。でもね、あいつCGだけは苦戦して、出来ない出来ないって頭抱えてたよ。プロになって5年くらい経ついまでも難しい難しいって言ってる。とっても楽しそうにね」
末弟のような存在だというその人のことを話す待さんはいつもより饒舌で楽しそうで嬉しそうで、弟の成長を喜ぶ兄そのものだ。
けれど、肝心の私への用件については、本人が自分の口で伝えたいと言ってるんだ。ということで、絵の才能がある人物を探していること以外は、さして教えて貰えなかった。
不採用通知の真新しい傷を持つ私にとって、捨てる神あれば、ということになるの…か? とモノローグで淡い期待を抱きつつも、自惚れるな期待するなと自制する。
「緋色ちゃんがあまり疲れていないときでいいんだ。ちょっと碧の話を聞いてやってくれないかな?」
「才能があるのか否かっていうのは自信ないですけれど、私の絵に興味を持ってくださった方でしたらむしろこちらからお願いしてお会いしたいくらいです。是非感想をお聞かせ戴きたいですから。それに、待さんの大切な弟さんにお会い出来るの、嬉しいです」
当然にして即答し、すぐに手帳を取り出す。個展の日程が来月に迫っているからだ。
「…すみません、待さん。今度の個展の分の目途がついてからでもいいですか? 来週頭にははっきりとしたお返事をさせて戴きますので」
「勿論。緋色ちゃんが前から準備頑張っているの見ているし、個展は俺も碧も、店のお客さんからも楽しみにしてるって声を結構聞いてるしね。フライヤーもそろそろだよね?」
さり気なく出された『頑張っている』という言葉が自然に私に柔らかな笑みをくれた。
…いや、笑みというよりはニヤケ面? を自覚し、
「ありがとうございます。明日明後日には刷り上がる予定なのでダッシュダッシュで届けますね」
締りのない阿呆面を誤魔化すように言い、視線を手元のビールに落とした。
ちらりと待さんの顔を盗み見ると、
(あぁ、やっぱりバレてる)
つくづく、待さんという存在の有り難味を噛み締める。
三回目の個展となる今回は、過去二回やらせて貰ったギャラリーHaruのオーナーである佐治さんの紹介で契約を交わしたギャラリーtaniという会場で、佐治さんのところよりも広いキャパシティでの開催となる。
今までは200円だったチケット代を500円に引き上げ、展示数もプラス五枚。絶対に失敗出来ない状況である。
翌々日、ギャラリーtaniからフライヤーの納品があったと連絡が入った。
初めての個展のときからシャルールや2年だけ勤めた秋穂図書館の本館と、分館、バイト先の世田谷工場にフライヤーとポスターを設置させて貰っていて、今回もその分を受け取りに行くことになっているのだ。
デザインに悪戦苦闘したこともあって少しでも早く自分の眼で見たい。その逸る気持ちのままにアトリエとして使っている倉庫を飛び出した。いつも乗っているビッグスクーターの存在を失念して自分の脚で走り出す程に。
勢いよくギャラリーのドアを開けると、
「余程心待ちにしてたんだね? 格好もジャンプスーツのまま顔に絵の具付けてる」
とオーナーの谷木さんに盛大に笑われてしまった。
谷木さんがギャラリーtaniに置いて貰う分と私が持って帰る分とを分けておいてくれ、フライヤーを受け取ったその足で佐治さんのギャラリーに走った。
出来立てほやほやを手渡すと、
「またこの姿の緋色ちゃんを見られて嬉しいよ」
と、ここでもまた笑われたけれど、恥ずかしさよりも二人のオーナーさんへの感謝の気持ちでいっぱいになった。
深々と頭を下げ、再び走り出す。当然、目的地はあそこだ。
倉庫を出てからずっと走りっぱなしの私はまだ肌寒い春先だというのに顔を上気させたままシャルールのドアベルを鳴らした。
「緋色ちゃん、何をそんなにゼエゼエ言って。走ってきたの? いつものビッグは?」
丁度入口近くのテーブルを片付けていた待さんが手を止めて私に駆け寄ってきてくれた。
気持ちが先行し過ぎてすぐに言葉が出ない私を心配して待さんが顔を覗き込んでくる。
(あ! ジャンプスーツのままだ‼)
「痛恨のミスったぁぁぁああああ」
溜息交じりのそれがついさっきまで上気していた顔を一気に冷ましていき、項垂れる。
「本当にどうしたの?」
待さんの声は益々心配そうで、屈んでもう一度私の顔を覗き込んできた。
「なーに女の子泣かしちゃってんの? 待くん」
唐突に投げ掛けられた声に反射的に顔を上げると困惑する待さんの後ろからひょこっと見知らぬ男が顔を出した。
「うわっ! お前、急に入ってくんなよ、馬鹿」
(待さんがちょい雑な口調…随分親し気だ)
「待くんの彼女?」
言いながら私をまじまじと見てくるその視線が右頬の辺りで止まる。
怪訝に思った次の瞬間、拭い忘れていたアクリル絵の具を思い出し慌てて右手で覆い隠した。
絶対笑われる、オーナーが笑ったあれとは違う意味合いで。
「超絶可愛っ!」
「!!!!!」
意表を衝く言葉に驚き私は言葉を失った。
「口説くな見るな離れろ」
隣にいる待さんが即座に私たちの間に割って入り、男に威嚇の眼を向けた。
「やっぱ彼女なんだー? もう、待くんってば、ちょっと会わないうちにこんな若くて可愛い彼女を見つけてるなんて。弟としては嬉しい限りだぞ!」
色々な意味で取り敢えず帰りたい私を他所に、楽しそうに言葉を続ける男とは打って変わって呆れ顔で、
「残念だけど違う。この女性はお前が待ち焦がれていた相手だ」
待さんがそう答えると、男はより一層に瞳を輝かせた。
「てことは、緋色ちゃん!? やっぱそうなんだ? いまさっきまで描いてました、みたいな格好だからもしかしてって思ったんだ」
「おい、ちょっと落ち着け」
男を制止し、びっくりさせてごめんね。と、ついさっき片付けきれいにしたテーブル席の椅子を待さんが引いてくれた。
「いえ、その、すみません。私、こんな絵の具臭い格好で来ちゃったので出直して…」
折角引いてくれたのに申し訳ないけれど立ったままそう断りを入れる。
「大丈夫だから、ね? わざわざ出直さなくていいよ。あ、でも…」
微笑み、待さんは店の奥に視線を投げた。
ペコッと頭を下げ、小走りで化粧室に向かった。
頬の絵の具を落とし、息を整え席に戻ると、先程の男が椅子から立ち上がり待さんの横に並んだ。
「緋色ちゃん、唐突になっちゃって申し訳ないんだけど、こちらこの間話した僕の幼馴染で、以前碧」
「初めまして、以前碧です。さっきはびっくりさせちゃってごめんね」
待さんから紹介された以前さんという人は満面の笑みで私を真っ直ぐに見て名刺を差し出した。
「初めまして、静緋色と申します。こんな格好で失礼致します」
互いに名乗ったところで待さんは改めて椅子を引いてくれ、私の向かいに以前さんも腰を下ろした。
「緋色ちゃん、さっきはこいつが割り込んできたから途中になっちゃったけど何かあったの? 僕に急ぎの用事?」
あ、そうだった!
「はい! 個展のフライヤーが刷り上ってきたって連絡貰って、ギャラリーに受け取りに行ってきたとこなんです」
私は少し緊張しながら鞄から出した封筒を差し出した。
「出来たんだ? これの為に走って来てくれたの?」
待さんは眼を丸くしている。
「はい! 少しでも早く見せたくて、逸る気持ちのままバイクの存在も忘れて走り出してました」
開けていい? と微笑む待さんの横から、
「いいないいな。俺も欲しいな。俺にも見せてー」
以前さんが覗き込む。
「見えない、どけ」
待さんが封筒からフライヤーの束を出した。
二人がジッとそれを眺めるその様子を緊張の面持ちで見つめる。自分の描いたものを他者に見て貰う瞬間は毎度、呼吸すらも忘れるくらい緊張するものだ。
ここに初めて自分の絵を持ち込んだときも相当なものだった。何軒ものお店で断られ続けた後で、断り文句は私的には、バッサバッサと心を斬り付けられている感覚だった。またここでも斬られるのかと怖くて怖くて仕方がなかったが、同時に、見て貰っている絵は描きあがったばかりの私史上最高の出来だと思っていたそれで、今度こそは好意的な言葉を貰えるんじゃないか、と期待していたりもして…だからあのとき買い取らせて欲しいと待さんが言ってくれたときは嬉し過ぎて涙が溢れた。
とは言え、私は買ってくださいなんて大それた考えは持ち込んでおらず、対価はここを訪れる沢山の人達に観てもらうことだと伝えた。けれど待さんには納得して貰えず、押し問答の末、いつでもシャルールのメニューを食べ放題飲み放題。これで手打ちにしよう。という申し出に有難く頷いたのだった。内心では、ここは折れるけれど払いはさせて貰おう、と。
「強い!」
フライヤーのデザインの感想を口にしてくれたのは待さんと以前さんと同時で、全く同じものだった。
「えっと…気に入って戴けたと解釈しても?」
虚を衝くその文言に多少の不安を感じたけれど御二方の声は明るく、否定ではないと察することが出来た。
すぐに待さんの賛辞が続き、
「前回のも好きだけど、上をいったね」
更に、
「やっぱり俺の眼に狂いはなかった。さすが俺様碧様!」
以前さんが満足気に笑った。
「お前は…本当に相変わらずだな」
呆れ顔の待さんとは対照的に、
「さすが待くん! 俺のこと解ってるぅ」
満面の笑みで言う以前さんに、はぁ。あからさまに溜息を吐く待さん。
そして、
「じゃぁ、緋色ちゃん、こいつの用件に移らせて貰っても大丈夫かな?」
と、私に確認をしてから、
「まず緋色ちゃんに一から順序立てて話せ、お前の用件」
以前さんを促し、
「緋色ちゃんは取り敢えずアイスのカフェモカでいいかな? 碧はおかわりだよな?」
待さんがカウンター内に戻り二人になったところで以前さんが、真直ぐに私の眼を見て口を開いた。
「改めまして、明乃待くんの幼馴染でCGデザインをやってます以前碧です。俺達クリエイター集団を作っててね、そのメンバーに緋色ちゃんも加入してくれたら嬉しいなっていう、つまりこれはスカウトです」
唐突で正直訳が解らなさ過ぎてポカンとする私に、以前さんはやけに楽しげに話しを進めていく。
「仕事が漸く一段落して久々シャルールに来てみたらあんなでっかいパワー漲るアクリル画が飾ってあるんだもん、びっくりしたよ。ほんとね、魅せられたよ。キャンバスだけど油絵の具じゃなくてアクリル絵の具なのも拘りなんでしょ? あまりに力強いから最初は男が描いたのかと思ったんだけど、よく観ると繊細さも混在してるんだよね。あ、ごめん。違うよ? いい意味だからね」
私が相槌を打つ間もなく一気に語る以前さんに驚きつつ、以前さんの時折私の絵に向けられる視線がなんともこそばゆい。けれど、一生懸命に話してくれているのが分かり私も一生懸命に耳を傾けた。
「それでね、今年に入ってからメンバー集めを始めたんだけど、作曲家、脚本家、アニメーション監督、ゲームクリエイター、漫画家、CGクリエイター。ここに画家が加わったら絶対面白いと思うんだよ」
以前さんの話を要約すると、色々なジャンルのクリエイターが集まることで仕事の幅と奥行きは広くなり面白い作品が創造出来る。そのための集団で、現時点では以前さんを含めメンバーは六人。そこに私も入れて、七人で起業することを前提に発足したいと考えている。というものだった。
「静緋色さん、僕達の仲間になってください」
「仲間…」
以前さんの眼には強い光が宿っていて、眩しく嫉妬心を憶える。私の眼はいま、以前さんのそれにどう映っている?
「先ず、御礼を言わせてください。私の絵を観てくださって褒めてくださってどうもありがとうございます。加えて個展にも興味を持って戴きましてありがとうございます」
「いやいや、俺はただ緋色ちゃんの絵に惹きつけられて魅せられてここにいるだけだから」
にこりと笑い、以前さんは待さんが淹れてくれたコーヒーに口を付けた。
「あ! しまった。冷めちゃった。あはは」
勢いよく飲み干し、
「待くん、カフェラテ。次は俺もアイスでもう一杯お願い」
空になったカップを軽く掲げた。
「かしこまりました」
カウンターの向こう側から待さんが応える。その声に反応して何となしに私も待さんを見つめると、視線に気付いた待さんと眼が合った。
眼を細め柔らかく微笑み、小さく頷いてくれる、その仕草は本当に温かい。
私も自分のアイスのカフェモカをゴクリと喉に流す。私が徹夜明けの身体だと察し、胃が弱いことを考慮して敢えてスチームミルクの入った甘いコーヒーを淹れてくれた待さんの気持ちが、心身に沁み渡っていく。
「以前さん、一つ伺っても宜しいですか?」
「はい、勿論」
以前さんは手にしたカップをテーブルの端に静かに置いた。私はその所作が、改まり、真剣に聞きますよ。という待ち構える動きに感じ、無意識に自分の背筋が伸びるのを感じた。
「何故以前さんはそうまでしてクリエイター集団という形をとりたいとお考えになられたのですか? いまの会社でも他のクリエイターさんと関わることは出来ますよね?」
最初に戴き私の手元に置いてある以前さんの名刺には、業界最大手の映像製作会社であるプロダクションJ&Hの社名が記載されている。
「心から大切だと思える仲間が欲しい。その仲間と心から素敵だと思えるものを作りたいから、です」
(また仲間…)
「俺ね、腹割って話せる人間って、つい最近まで待くんだけだったんだよね。学生時代も社会人になってからも。俺、昔からコミュ力は高い方で、誰とでもすぐ仲良くなれるんだけど、広く浅く。去年、芸術祭で賞を貰ってインタビュアーに訊かれたんだ。この喜びを誰と分かち合いたいですか? 珍しい質問ではないよね? でも、俺は答えられなかったんだ……で、それからその言葉が俺の中に引っ掛かって、俺の人生、本当にこれでいいのか? て、考えるようになったんだ。その少し後に音楽制作会社のPVの仕事で作曲家と組む機会があって、二人で何日も徹夜して、作曲家とかCGクリエイターとかの枠を越えて意見ぶつけ合って、苦労してやっとの思いで作った。二人で完パケ観てるときに、めちゃくちゃ疲れたけど楽しかったなぁってしみじみと思って、何でこんなに楽しかったのか、考えてみたら、こんな風に誰かと作品作ったことなかったなって気付いてね。その場で俺と組もうって持ち掛けたんだ」
氷がカランと小さな音を立てた。タイミングを計ってアイスのカフェラテが以前さんの前に置かれる。
「ありがと、待くん」
待さんがちらりと私のタンブラーを見やる。まだ半分くらい入っているのを確認すると空の以前さんのカップを提げて戻っていく。
「ありがとうございます。待さん」
軽く首だけで振り返り、ん。と、短く視線をくれた。
一口コーヒーを飲み、以前さんは続ける。
「待くんから少し聴いてると思うけど、俺達はほぼ兄弟だからいい意味で対等じゃないし、家族と仲間ってまた別物でしょ? 勿論いまの仕事仲間を軽んじているわけではなくて。そういうことではなくて、俺ってば学生時代に部活もサークルも経験なくってさ、正直、憧れるんだよね…て、こんなふうに言っちゃうと青臭いって、遊びでやってると思われちゃうか……うーん…そうじゃなくて、どう言えば伝わるかな? どんな仕事でも手を抜いたことはないし、それでクライアントのOK貰えてギャラ貰えて、ときーどき賞を貰えたりもして、それは有難いことだけど、命懸けてやってる仕事って、それだけじゃないでしょ? 観てくれた人に気に入って貰えた喜びとか達成感とか充足感とか、明日に向かう原動力とか…分かち合える。そういう仲間が、俺は欲しい」
(仲間…)
「返事はすぐじゃなくて個展が終わってからでいいんだ。俺、うまく言葉に出来てないと思うけど、考えてみてくれないかな?」
以前さんの言葉を心の中で反芻する。
待さんから聴いていた以前さんと、浅い付き合いばかりで、待さん以外いなかったという以前さん。インタビュアーの前で言葉に詰まってしまった以前さんに想いを馳せる。
心臓と胃に鋭い痛みを憶え、中々言葉を紡ぐことが出来ない。
何秒経った? いや、分単位か? 以前さんは辛抱強く返答を待ってくれていた。私はそれが嬉しい。
私の絵を気に入ってくれて一緒に素敵なものを作ろうと誘ってくれている。ゆっくりとじんわりと実感が湧いてきた。
漸く声を出せた私は、
「あり、ありががとう、ござい、ます」
「『が』が一個多いな」
私はどんな顔をしていたのだろう? きっと泣き笑いみたいな?
以前さんは物凄く柔らかな声でツッコみ、整った顔がクシャッ、と破顔した、それがまた嬉しかった。
その夜、名刺を大切に手帳に挟み、PCで彼の作品を片っ端から検索した。
彼の作品はTV、駅や商業ビルの広告用モニターで流れるCM、ミュージシャンのMV、ドラマやアニメ等多岐に渡り、中には私の好きな作品も沢山あった。何より驚いたのは、以前さんの話に出た芸術祭より前に、私の前の前の会社、司書をやっていた秋穂図書館の横浜分館設立告知のTVCMで、以前さんはこれでCMフェスティバルの映像部門大賞を受賞していたことだ。
このCMが放送されるようになったのは私がイタリアで働いていた頃だったけれど、帰国後に何度も観ていて気に入りの作品だったのに、辞めたとはいえ自分の古巣のCMなのに…如何に自分が絵の世界以外の賞に無関心だったかを気付かされ、視野の狭さと自分の間抜けさ加減に乾いた笑いが零れた。
加速していく緋色の運命…
人生には絶対に間違えてはいけない選択肢がある
side.Hi2話 縁は神が結ぶのか? 己が結ぶのか? は3月27日午前0時掲載予定