7 放課後にきみと
今日は一日、目まぐるしい様に時間が過ぎていった気がする。
何しろ十数年ぶりに高校生として授業に挑んでみれば、先生の言っている事がほとんど理解できなかったのだからな。
「トホホ。すっかり社会人生活をやっている間に、学業の事は忘れてしまったらしい……」
六時限目の授業が終わってホームルームがはじまると、俺は密かに肩を落として溜息をついた。
むかし覚えたはずの数学の方程式などはサッパリ記憶のかなたにある。
受験がはじまるまでの一年半でどれだけ取り戻せるか、先が思いやられる。
だが、今は当座の事だけを考えよう。
ホームルームの最後に日本史の宿題が回収された。
ノートの書き写しは授業の合間に何とか間に合ったし、午前中には空白になっていたプリントの問題も無事に埋め終わっている。
かなえちゃんマジ天使! ありがとうございます!
何かお礼をしたいとかなえちゃんには伝えたけれど、その返事は今のところ何もない。
女性にプレゼントをした事がほとんど無いので丸投げにしてしまったけれど、何をお願いされるかいまからドキドキである。
ドキドキと言えば。
金沢は当たり前の様に宿題を提出しなかったので、俺の視界の端で学級委員の女子にどやされて、言い訳を並べている姿が見え隠れした。
珍しい事に金沢はかなり焦った顔をして平謝りしている。
あいつの人生だからあまり口を出すつもりはないが、本当にあれでスポーツ推薦が受けられるのか心配になって来る。
もしも未来が未確定なもので、何かのキッカケで変化するものならば安心はできない。
などと思っていると、学級委員からようやく解放された金沢が苦笑を浮かべて俺のところに来た。
「何とか言い逃れしてきたぜ」
「言い逃れって、宿題のか……」
「とりあえずプリントだけ写させてもらったから、ノートは忘れた事にした」
「セコいなおい。誰がプリント見せてくれたんだ」
相変わらず要領のいい男だと俺が呆れていると、続けて金沢がこんな言葉を口にする。
「華原はマジ天使だったな。お前の言う通りだ」
「結局お前もかなえちゃんから写させてもらったのか」
「そうだぜ。俺、お前と友達していてよかったってはじめて思った」
「何だよ急に気持ち悪い、しかもはじめて思ったのかよ」
「お前ら仲いいじゃん? 華原と話す様になったキッカケもお前だったからなぁ。華原って気さくなやつだけど、やっぱり女子と話するのって勇気いるじゃん?」
お調子者の金沢でも、当時はそんな事を思っていたのか。
短く刈り込んだ髪をボリボリとやりながら、彼は苦笑を浮かべて俺にヒソヒソ話をする。
「女子と会話するときってドキドキしないか?」
「ドキドキするよな。キモいとか思われたらやだし」
「俺もテニス部のマネージャーとかと話す時、汗臭くないかとかめっちゃ気になるぜ。距離感って大事だよな」
「距離感って大事だよな」
考えてみれば高校時代の金沢も、最後まで女子と誰かお付き合いをしたという話を聞いた事が無かった。
卒業してからの金沢を長く見てきたせいか、この頃の金沢が意外にウブなのにも驚いた。
「じゃあ俺は部活行ってくるわ。大会近いから練習ダルいんだよな~」
お前はそれでスポーツ推薦受けるんだから、部活ぐらいは真面目にやった方がいいぞ。
テニス部の道具と鞄を背負った金沢の背中に俺はそんなエールを心の中で送る事にした。
そうして入れ違いにやって来たのが、かなえちゃんである。
「そろそろ部活?」
「うん、でもその前に事務室に行こうかなって。自転車通学の許可申請なんだけど、先生に聞いたら事務室で申し込みするんだって。提出用のプリント貰もらいにいかなきゃ」
「わかった、先に済ませようか。部活終わってからだと事務室も終わってるしな」
一緒に行こうと約束をしていてよかった!
何気ないつもりで俺はあの時かなえちゃんに言ったが、そのおかげなのか彼女も当たり前の様に俺と事務室に行こうとしている。
女の子と仲良く過ごすために、何か特別な事は必要ないのかも知れない。
距離感って大事だよな。
その距離感というのは、ほんの少しの積極性と後はいつも通りにしている事こそが大切なのかもな。
あまり強引にいくと、ドン引きされるかも知れない。
「どうしたの?」
ふたりで放課後の廊下を歩きながらほんの少しの積極性について考えていると、かなえちゃんが小首を傾げながら俺の顔を見上げていた。
「かなえちゃんが自転車通学はじめたら、結構行動範囲が広がるんじゃないかって」
「そうだねえ、帰りに遊びに行ったりできる場所が広がるかも。あ、そうだ!」
「?」
「せっかく自転車になるんだったら、朝も一緒に登校できるね。あーでも、それだと牧村くんは遠回りになっちゃうか……」
「い、いや。そんなに大差ははないから、別に俺はいいよ」
むしろよろこんで!
下校だけじゃなくて登校も一緒とか、ほとんどそれもう恋人ジャン。
そうか俺はジャンだったのか……
などと驚きと喜びでニヤつく顔を必死で我慢していると、
「番組の進行台本とか相談しながら行けるもんね。収録の前の日は一緒の方が都合がいいでしょ?」
「ああうん。そ、そうだね……」
まるで邪気のない顔でそんな風に言われて、俺はガクっときた。
そうだよね、意味も無く俺と一緒にいたいなんて、そんな都合のいい話はないですよね。
部活の事を考えれば、別に待ち合わせをして登校するのはおかしい事じゃない。
昼休みの番組放送は月曜から金曜まで毎日行われている。
その番組の進行台本を作るのに、菊池先輩はよく川本先輩と一緒に登下校しているという、前例もあった。
距離感は大事だぞ、俺。
勘違いして暴走すると台無しになってしまうからな。
そうして事務室までやってくると。
つつがなく自転車通学の申請用紙を手に入れて、ふたりでそのプリントを覗き込んだ。
「この四角い囲みの中に、自宅から学校までの通学路を地図で書けばいいんだ。後はこの欄に大体の通学距離と、保護者の印鑑ね」
「距離ってだいたいしかわからないけど」
「それなら俺パソコン持ってるから、帰ったらネットでちょっと調べてみるよ。検索マップでチェックいれたら距離とかわかるはずだし」
「そうなんだ。じゃお願いしよっかな」
肩を並べて事務室の受付でそんなやり取りをする。
距離が近すぎるので、互いのブレザーが触れた瞬間にいちいち彼女の温もりが俺の体に伝わってくる様な気がする。
シャンプーの香りまで鼻に届くものだから、俺はたまらずクラクラしそうになって来た。
何かこの距離感いいな。
今のところ決して悪くない感じがする。
「あ!」
「えっどうしたのかなえちゃん?」
「やばいよ牧村くん。菊池先輩から明日の収録はわたしたちだから、放課後は急いで来なさいって言われてたよね?!」
しまった。
確かにそんな事を昨日の帰り際に言われていた気がする。
まともに放送コンクールの様な大会にはほとんど参加しない俺たちにとっては、お昼の放送が唯一放送部らしい部活動と言えるかもしれない。
ちなみに曜日別に番組の担当チームがわかれていて、金曜日だけは菊池先輩のチームが生放送を担当していた。
マニアックス・ゴー・ゴーという、菊池先輩らしいボカロ曲やアニソンを紹介し続けるだけの放送だが、学校のオタクには密かに人気だった。
そのうち木曜日は今年に入ってから俺の担当で、番組の相方を務めるのはかなえちゃんだった。
一年の時は別の部員と番組を担当していたが、この放送収録の作業がキッカケで俺はかなえちゃんとよく話をする様になったんだ。
「急がないと菊池先輩に怒られるよ!」
「ちょ、かなえちゃん待ってプリント忘れてる」
「あああっ急がないと?!」
廊下を走ってはいけませんなどと言っている場合じゃない。
職員室の前だけ小走りに移動して、後は全力で体育館脇にある部室の入口まで全力疾走。
息せき切って階段を駆け上ると、そこには鬼の形相をした菊池先輩が立っていた。
「遅いよ! 何やってたの?!」
イチャイチャしていたら遅れましたなんて、言えないっ。