5 二度目の朝食は放送室で
勇気を出したひとつの行動が、様々な変化をもたらす事がある。
例えば同窓会で十年越しにかなえちゃんに告白でもしなかったら、俺の意識に勇気と未練は宿らず、高校生活を再びエンジョイする事はできなかったはずだ。
それにたぶん。今回も宿題でかなえちゃんを頼った事が、こういう予想外の展開に結びついたのだ。
「たくさん作って来たから、遠慮せずに食べてね」
かなえちゃんはそう言うと、年季の入った折り畳み会議机の上にサンドイッチケースを広げた。
「あ、ありがとう。結構種類があるな?」
「ツナマヨとポテトサラダ、それからハムチーズだよ。今朝は早起きだったから、もしかしたら牧村くんも朝ごはん抜いてきたんじゃないかと思って。だったら学校で一緒に食べようと思ってたんだよねー」
「朝から大変だっただろ?」
「これぐらいならパパっと作れるから、気にしないで!」
「ごめんいろいろ。ありがとう……」
そんなやり取りをしている俺たちを、菊池先輩が指を食わてみていた。
「あ、やっぱり先輩もおひとつどうですか?」
「べっ別に羨ましいとか思ってなんかないんだからねっ。俺は朝からおかわりもしたし、むしろ朝から俺は胸一杯な気分なんだからねっ」
「ははは……」
「?」
菊池先輩のアレは演技だ。
それが証拠に、かなえちゃんの背中に見え隠れしている先輩の口はニヤついていた。
不思議そうに小首を傾げているかなえちゃんは意味がわからないのだろう。
だが俺は煽られているのが理解できたので、先輩は無視すると決める。
「じゃあ遠慮なく。いただきます」
「おそまつですが、どうぞっ」
彼女が言った通り、そのサンドイッチはひとりで食べるには明らかに多すぎる量だった。
「そまつだなんてそんな。手の込んだ料理と書いて手料理だよ」
「意味わからないもー」
実は朝ごはんを家で食べてきた事は最高機密だ。
それに、成長真っ盛りの高校男子なんだから、無理をしなくてもこのぐらいの量は別腹でペロリである。
「そうそう日本史のノートねー、プリントの方は終わった?」
「今ちょうどやりかけてたところ。だいたいわかったけど、宇佐八幡神託事件の犯人がわからない……」
「道鏡だよそれは。先生が孝謙天皇の愛人説を熱弁していたひと」
「ああそうか」
道鏡は座ると膝が三つでき……なんて江戸時代に詠まれた川柳も残っている人物だ。
日本史の先生がセクハラ紛いに、その事を熱弁していたので十余年前の記憶も鮮明に脳裏に残っていた。
と同時に、隣から身を乗り出す姿勢になっているかなえちゃんの吐息が、俺の掌の甲を撫でる様にかかった。
途端に甘い痺れが指先から背筋まで走り抜ける様な感覚になる。
恋愛経験の乏しい俺にはそれだけで刺激的だった。曖昧に返事をするのがもはや精一杯。
「ノートの方はここからここまでだからね」
「ありがとう、本当に助かる!」
「先生が黒板に書く文字って小さいから読みにくいよねー。牧村くんは後ろの席だから仕方がないよ」
かなえちゃんに借りたノートを汚すわけにもいかない。
ひとまず預かったそれを机の脇に寄せ、かなえちゃんに教えてもらいながら汚れても気にする必要がないプリントからやっつける事にした。
しかしあれだね。
テンションは明らかにいつもより二段上の場所にギアチェンジしていたけれども、まだ心のどこかに余裕があるのは大人の余裕のおかげだ。
ただの高校生ならとっくに舞い上がって、支離滅裂な対応をしていたに違いない。
いや、もちろん跳ね上がる鼓動は間違いのないものだし、他の誰か第三者からみれば十分におかしな挙動をしていたかも知れない。
「んっ、どうしたの牧村くん?」
「このサンドイッチすごく美味しいです。チーズとハムのハーモニーが最高です」
「もうっ。そんなのただ挟んだだけだから、大したことじゃないよっ」
視界の端に写り込んでいた菊池先輩が、妙にニヤニヤ笑いをしているのがわかった。
週刊漫画誌を読むフリをしながら、実際には先程から熱心に俺たちを観察しているのだ。
いつ何を言われるか分かったものじゃないと思えば、さらに俺の挙動のおかしさを加速させたかも知れない。
だが視界の端に再び写り込んだ菊池先輩は、ただ無言でサムズアップしただけだった。
先輩はいいひとだ。
やがて放送室に懐かしい顔ぶれの部員たちが揃い踏みする。
井上や川上先輩は大人になってからも連絡をとってたけど、他の部員は卒業してからすっかりご無沙汰だったな。
そんな事を思いながら体育館で毎日行われる朝礼の準備がはじまる。
放送部員には特権があって、朝礼の間はマイクの担当と言う事で部室に居残りする事ができる。
一年生の間は自分のクラスの列に並ぶ真面目な人間もいるが、学年が上がればサボり癖がついてくるのだ。
一時間目の授業も遅れて参加するなんて事がサラにあったけれど、学校側の用事が原因だからとわりと黙認されている節すらあった。
「間に合いそう?」
「たぶん昼休みまでには間に合うと思う!」
俺もその恩恵にあずかりながら、ギリギリまでかなえちゃんのノートを書き写した。
時間内に最後まで終わらせることはできなかったけれども、プリントもノートも、宿題を提出する期限までには何とか終わらせられる。
「ホント助かったよかなえちゃん」
「いえいえどういたしまして」
「今度なんかお礼をしたいから、何がいいか考えといてね」
「お礼かぁ。そんな大したことじゃないのに……」
「でもこのままじゃ俺の気が収まらないから、何かさせてよ」
多少強引だっただろうか、お礼をダシにしてさらに距離を詰めたいという打算も確かにあった。
けれど、やっぱり感謝している事は間違いないので、それはそれとして何かお礼をしたい。
どうするのが一番いいだろうか。
「すぐには思いつかないから、考えておくねっ」
自分たちの教室に向かうその途中。
乏しい恋愛経験から高校生らしい範囲で何ができるかと思考を巡らせる。
そんな俺の隣で、かなえちゃんも一緒に首を捻っていた。