36 ある放課後の部活風景
うだる様な暑さの中、俺たちは放送室でババ抜きをしていた。
ただじっとしているだけでも、気がつけば汗が首筋を慣れ落ちる。
その原因は、防音の観点でほぼ密室になっている部室のエアコンが故障してしまったからである。
「んっ。次はミギー先輩の番ですよ」
無表情から送り出される威圧感。
それは一年生の後輩、御武道りんのものだった。
これ見よがしにカードを差し出してくるのだが、ふたつの目玉に凝視されると困惑するばかりである。
「たかがババ抜き、されどババ抜きですよ。敗者は勝者に絶対服従、選択はふたつにひとつ。さあどうしますかミギー先輩?」
「むむっ。どっちが正解なのか……」
御武道さんの手元に残されたカードは二枚。
その挑発的な態度からして、彼女がジョーカーを手札に持っている可能性は極めて高い。
ここで選択をミスれば、俺がババを引かされてしまうのだ。
「んっ。なるほど」
「……何がなるほどなんだよ」
「先輩はそれを選びますか。後悔はありませんか。そのカードに未来を託していいという」
「ババ抜き如きで未来を託すとか大袈裟なんだよ! いいからそれをよこすんだ!」
「あっ……」
俺の選んだ一枚に彼女が指に力を込めて抵抗するものだから、たまらず強引に奪い取ってしまう。
すると御武道さんはこの世の終わりみたいな悲しげな顔をして俺を見上げてくるではないか。
何だよ、これは勝負なんだから仕方がないじゃないか!
いたたまれなくなって奪い取ったカードを確認したところ、
「?!」
何という事でしょう。俺が引いたのはジョーカーだったのである。
みるみる勝ち誇った表情になった御武道さんだ。
「ま、牧村くん。表情に答えが出てるよっ」
「ミギー先輩って、もしかしなくても騙されやすいタイプですね」
「そういうところあるかもね……」
フンスと鼻を鳴らした御武道さんは、隣で苦笑していたかなえちゃんからカードを一枚引く。
そのまま机に残り札を捨てて、この瞬間に御武道りんが一番の上がりが確定だ。
残りは俺とかなえちゃんの勝負である。
まだだ、まだ終わらんよ!
俺は気持ちを改めながら精一杯の作り笑いを浮かべてかなえちゃんを見た。
かなえちゃんは悩ましげな表情で、残り二枚の俺の札を吟味する。
「うーん、どっちだろう?」
額を一雫の汗が走り抜けた。
右か左か。左か右か。ふたつにひとつ、未来はひとつ。
かなえちゃんは人差し指を唇に当てながら、かわいらし気に思案するのである。
「にしても部室暑いねっ。業者のひと遅いねー」
「そ、そうだね」
よくよく見るとこの湿気からか、彼女のブラウスが薄っすらと透けている様な気がした。
気のせいか? いや気のせいではない。
この暑さだ、それは仕方がない事じゃないか。
あまり凝視していると俺の視線の先がバレてしまうので、あわてて明後日の方向を向く。
その瞬間にかなえちゃんが一枚を俺から抜き取った。
「あっ……」
小さな悲鳴がかなえちゃんのかわいらしい唇から紡ぎ出された。
それは俺に対する申し訳なさから飛び出た言葉だ。
俺の手元にはジョーカーが残り、敗北が確定したのだ。
「ちくしょうめ! もう一度、もう一度だけチャンスを下さいっ」
「先輩とババ抜きやっても、先輩が必ず負けるので面白くありません。わたしは遠慮しておきます」
「そこを何とか、ワンモアチャンス!」
「……じゃ、じゃあわたしとふたりでやる?」
俺の事を慰めてくれるのはかなえちゃんだけだ。
かなえちゃん大好き!
「んっ、だったら華原先輩とわたしのふたりでババ抜きをやりましょう」
「何で俺にそんな意地悪するんだよ?!」
「先輩が死ぬほど弱いからです」
きいいい悔しいっ。
あと、俺の右手に話しかけるんじゃない!
「ふふっ。冗談ですよミギー先輩」
この日、俺たちは放課後に来るというエアコンの修理業者を待っていた。
修理の立ち合いで居残り番を仰せつかったのは俺とかなえちゃんに、御武道さん。
菊池先輩は各部活の部長が集まった会議があるとかで不在。川上先輩は調べもので図書館に出かけていたし、瀧脇先輩は歯医者があるとかで帰ってしまった。
残った他の部員たちも、放送室が暑すぎるので早々に帰宅してしまった。
貧乏くじを引かされた俺たちは、トランプで暇つぶしをしていた。
漫画を読んで時間を潰しても良かったのだが、菊池先輩が持ち込んだ本はあらかた読み終わっている。
「んっ。とりあえずミギー先輩はババ抜きに負けた事ですし、わたしの命令に絶対服従ですよね」
「……おい、そんな約束をいつしたよ?」
「勝負に負けたのは事実なんですから、いいじゃないですか」
相変わらず俺をミギー先輩呼ばわりするのは確定らしい。
御武道さんは表情ひとつ変えずにそんな事を口走りながら、俺の顔を覗き込んでくるのだ。
「わたしはいちごオレが呑みたいです。ちょっと購買部で買ってきてくれませんか?」
「……命令に絶対服従とか言って、要求が小さいな」
「あんまり無茶な命令をしたら、華原先輩に怒られてしまいます」
奢ってくれと言ってくるわけでもなく、百円玉を差し出して俺にお遣いをお願いしてくる。
へいへい。そのぐらいの事なら別に構わないぜ。
ひとりぐらい部員が放送室から離れても、エアコン修理の立ち合いには問題ないだろう。
「かしこまりましたお嬢さま。あと、かなえちゃんはどうする? ついでだから買ってくるよ」
「えっ、じゃあわたしは牧村くんと同じのでいいよ」
俺と同じものだとフルーツオレになってしまうけど、それでいいらしい。
恭しくふたりに一礼してみせると、まんざらでも無さそうに御武道さんが「よろしい」なんて口にした。
普段、何を考えているのかわからない様にも思えるが、
「案外、彼女は安直なタイプなのかも知れない」
一緒にトランプをやっていた時は、顔の上場こそほとんど変化がなかったけれども。
身を乗り出して自己主張をしてみたり、顔を明後日の方に向けて知らん顔をしたりと、ある意味でリアクションは豊かなのだ。
しかし豊かとは言い難い胸を強調してエッヘンとポーズを取るのはいただけない。
小柄な彼女がそれをやると、背伸びをしている子供みたいに見えてしまうのでやめた方がいいと思うのは俺だけだろうか。
「ま、むかしの俺は女の子と仲良く話すこと自体が希だったからな。十年越しの高校生活で、ようやく御武道さんの事を少し理解しはじめたのかも知れないぜ」
それでは少し遅すぎるだろうか。
いや、女性の機微を知るという意味では今からでも遅くないはずだ……
きっとかなえちゃんとの将来にも役立つはずと、俺は自分に言い聞かせた。
体育館のステージ裏まで階段を降りてきたところで、ちょうど業者のひととバッタリ遭遇した。
放送室のエアコンは家庭用のものだったが、どうやら修理ではなくてエアコンごと交換をするらしい。
この上が部室ですよと説明すると、ふたり組の業者のひとは、暑そうに汗をかきながらエアコン担いで階段を登って行った。
いちごオレひとつに、フルーツオレをふたつ。
みんなの飲み物を買うついでに、業者のひとにも何か選んでいこう。
学食に併設された購買部を出ると、どこからか風に乗って下手糞なバンド演奏のメロディが聞こえてきた。