三章・1
紫闇の眉根が寄る。
たったそれだけで、紅空は自分の望みがとてつもなく難しいことを思い知った。
人形として目覚めてから、そろそろ二週間が過ぎようとしている。
それだけの期間、ほとんどの時間を一緒に過ごしているのだ。紫闇がどんな性格をしているのか、だいたい分かってくる。
紫闇は紅空にとても優しい。けれど、無理なことははっきりと言ってくれる。
その紫闇が、美しい顔を歪ませているのだから――。
「はっきり言ってくれ、紫闇。……無理、なんだな」
「無理……というわけじゃあないけどね」
しかし、紫闇の表情は変わらない。
「紅空、ちょっと走ってごらん」
「なんだよ。話をはぐらかそうっていうのか?」
「いいから、言うことを聞いて。全力で走るんだ」
「いつもなら、下の階に聞こえるからやめろって言うのに……」
紅空はしぶしぶとテーブルの下に降り立った。陸上競技でいうクラウチングスタート――片膝と両手の指を地に付けている体勢から、一気に加速する。
レースで膨らんだスカートを身につけているとは思えないほど、紅空の走りは見事なものだった。腕を振るフォームも、足を上げる動作も、すべて美しく無駄がない。
「……これでいいのか?」
そして、人形の身体を持っている限り、疲れを感じることはまったくなかった。息をしていないのだから呼吸を乱すはずもなく、紅空はあっさりとした顔でテーブルの上の紫闇を見上げる。
「うん、それだけで充分だよ」
「それで、何なんだよ」
テーブルの上に戻った紅空は、何やら深く考え込む紫闇に怪訝そうな視線を向ける。
「まさか、今の走りに何の意味もなかったわけじゃないだろ?」
「うん……それなんだけど……」
紫闇が、ちらりと紅空に視線を送る。
「今の君は、とても身体……人形の身体になじんでいるね」
「ああ、うん」
紫闇の言葉に、紅空は戸惑いながらもうなずく。
「もしかしたら僕よりも、今の君は自由に動けるのかもしれない。……それが引っかかるんだ」
紫闇の表情がますます曇る。
「器になじむということは、安定したということだ。もしかしたら、君の意思は簡単に器から出ることができないかもしれない」
「……ってことは」
紅空は言葉を止めた。そこから先に待っているのは、あまり考えたくない仮定だ。
紫闇はうなずく。
「多分、君が元の『カズヒト』の身体に戻るためには、その身体を壊さなければいけない――ということになるね」
「……やっぱり、そうなのか」
紅空の表情が沈んだ。
絶望は、際限なく増えていくかのように思える。少なくとも、今現在の紅空には。
この器に、未練はない。けれど。
ぱたぱたと、階段を上がってくる足音が聞こえる。
紫闇と紅空は、とりたて焦ることもせず、その場に座り込んで動きを止めた。
「ただいま、紅空、紫闇」
帰ってきたユノエがドアを開けたときには、二人ともただの人形にしか見えない。
「ようやく帰ってこれたわ。さあ、今日は何をして遊びましょうか」
二人の姿を認めて、ユノエは花開くように笑みを浮かべる。
(今のユノエには、俺たちしかいない)
ユノエの口から友人の話題がでることは絶対にないし、何より、カズヒトだった頃の記憶が紅空にそう告げている。
ユノエが必要としているのは、人形たちだけなのだ。もしかしたら、紅空が一度も姿を見たことのない彼女の両親が関わっているのかもしれない。けれど、それは知る必要のないことだ。
今、大切なのは――。
「お前たちは、私が作ったの。だから、私とずっと一緒にいるのよ……」
歌うように呟いて、ユノエは紅空と紫闇を抱きしめる。
もし、紅空が壊れたら、ユノエはどうなるだろうか。
もし、カズヒトが目覚めたら、ユノエは紅空のことを忘れるのだろうか。
まるで、自分の身体の感触を確認するように。紅空は手のひらをそっと握りしめる。
心が重い。ひんやりとした手の固い感触が、紅空に現実を見せ付けた。
ユノエを想うがゆえに強くなったこの意思が、冷たい身体から抜け出すことを許さない。
……すべて、彼女のためなのに。