二章・3
「君はまるで小鳥のようだね」
それは紫闇の言葉だ。
動けるようになって間もない紅空の動作は、どれもぎこちなかった。それでも動ける事が嬉しくて、紅空はユノエが不在の隙を見計らい、部屋中を歩き回っていた。その姿から、紫闇は巣立ったばかりの小鳥を連想したのだろう。
「やめてくれよ、紫闇」
紫闇の口から出る詩的な言い回しが、紅空には何となくこそばゆい。
「ふふ、いいじゃないか。実際、君は小鳥のように可愛らしいよ、紅空」
「それをやめてほしいんだよ……」
楽しそうな紫闇の言葉に、紅空は疲れた風に首を振る。しかし、そんな動作ひとつとっても、紅空は非の打ち所がないほど可憐で愛らしい人形なのだ。
「走るときは、下の階に聞こえないよう気を付けるんだよ。僕たちがこうして動けるなんて、人間にばれたら大変だ」
「分かってる。気を付けるよ」
人間の前ではただの人形を演じる。見様見真似で紫闇に倣っていただけの紅空だったが、これは人形の世界における規則というか、人形の本能のようなものらしい。人間の視界に入った瞬間、人形は自らの身を守るため、ほとんど動けなくなるのだという。
実際、人間だった頃にこんな光景を見せられたら、紅空には間違いなくその人形を捨てるだろう。
「……ときどき、鏡に映った自分の姿を見て嫌な気分になることがあるよ」
紅空は、あきらめたようにそう呟く。
袖の膨らんだ上着も、レースでたっぷり膨らんだスカートも、肌触りのよいドロワーズも何もかも、動きにくいことこの上ない。ついでに、整いすぎた少女の顔も、つんと澄ました表情も。
試しに、紅空は部屋の中をまっすぐ走ってみる。
と。
「ぅわっ……!」
べしゃり。そんな音が聞こえてくるような転び方だった。
スカートの裾がふくらはぎの辺りにまとわりつき、ワンストラップシューズは硬く足を締め付ける。動くには不適切な格好だ。
「ああ、少しは大人しくしておいでよ。怪我はないかい、紅空」
「大丈夫だよ。心配性だな、紫闇は」
「身体を大切にしないと、駄目だよ。君は、コンクールに出展されて、たくさんの人にその姿を見てもらわなきゃいけないんだから」
すぐさま駆け寄る紫闇。紅空はむっとした風に、
「面倒くさいなぁ……。そう言うなら、紫闇も出たらどうなんだよ」
「僕はもう出たよ。あの人の望みどおりに、ね」
困ったように微笑む紫闇。しかし、紅空は気にせず、再び部屋の中を再び走り出した。
「……何か、思い出せそうかい?」
そんな紫闇の問いには答えず、ひたすら、何かを追い求めるかのように、走る。
傍目には不恰好にしか見えない。けれど、紅空には思い描けていた。
ぼんやりと浮かぶ風景の中、思うがままに紅空は走っていく。
頭上に広がる、澄み渡った青空。高い位置にある太陽と、自分の額をつたう汗。
風を切って走るのが好きだった気がする。そうすれば、違う自分になれるように思えたから。
多分、これがカズヒトの記憶なのだ。
声援と歓声と、そんなものは耳に入らないかのようにただ走ることに集中する精神。
ユノエが語るような人気者ではない。ただ、走ることが好きなだけの少年だった。
いつかの『カズヒト』が、今の『紅空』に重なっていく気がする。
そして――記憶の中、ひとつの人影が目の端に映った。
時間が止まる。止まったまま、景色は流れていく。
紅空は、『カズヒト』は足を止めて、校舎を見上げていた。
空のすべてが燃えているように、怖いほど鮮やかな夕焼け。照り返しで、規則的に並んだ教室の窓が紅に染まっている。
人影は、ひとつだけ開いている美術室の窓から外を覗いて、真剣に手元のスケッチブックに向かっている。遠目でも分かるほど、その人物は一心不乱に絵を描いていた。
(そうだ)
紅空は、『カズヒト』として思い出す。
(……俺は、知っていた)
いつも見ていた。そしておそらくは、いつも見られていた。
彼女は窓から身を乗り出すようにして、グラウンドの風景をスケッチしていた。
一度も会話したことはないが、『カズヒト』はその少女を知っていた。
同じクラス、隣の席。いつも一人だった少女。
人と話すときはあんなにも弱々しく、けれど夕闇の中、凛とした瞳でカズヒトを見つめていた少女。
不安そうに揺れる瞳が、人形を相手にしたときにだけ強い意志を持つことを、『カズヒト』は知っていた。だから、まさかその瞳が自分に対して向けられているとは思わなかったのだ。
けれど、その目はカズヒトを見ていた。息を止めてしまいそうになるほどの、不思議な雰囲気を身にまとって。
……切れ切れでしかないけれど、記憶の中、それは鮮明に思い出せる。
(ユノエ、だ……!)
そう。『カズヒト』も、ユノエを知っていた――。
「紫闇!」
紅空は、テーブルの縁にに座る紫闇を見上げた。
急に足を止めた紅空を、紫闇は不思議そうな顔で見ている。
「あんたは、カズヒトの姿を見たことがあるか?」
「急にどうしたのさ」
「いいから、答えてくれ!」
せっぱ詰まった様子の紅空に、紫闇は苦笑を浮かべて首を横に振る。
「ないよ。僕はこの大きさだし」
と、紫闇は床に飛び降りた。その背丈は紅空よりも頭ひとつ分高く、ユノエの手先から肘を超すほどの大きさだ。当然、学校まで持って行けるわけがない。
「……ま、そうだよな。やっぱり」
と、傍らの箱からレーヴェを引っ張り出す。
「こいつに聞くしかないか」
紅空はかがみこむと、両手でレーヴェの顔を持って視線を合わせた。
「おい、お前」
レーヴェの、ビーズでできた漆黒の瞳が、不思議そうに紅空を見つめる。
「お前は、カズヒトのことを見ている。そうだな?」
レーヴェはうなずく。
「紅空、いったい何をする気だい?」
紫闇が、紅空の隣にしゃがみ込んだ。
「カズヒトとあの人の話なら、もう充分すぎるほど聞いたと思うんだけど?」
「確認したいことがあるんだ。……なあ、レーヴェ。お前がカズヒトを見ていたのは、日が暮れる時間か?」
紅空の問いに、しかしレーヴェは答えない。いや、答えられないのだ。
「紅空、レーヴェに時間の概念はないんだよ。レーヴェにとってはすべて断続した瞬間だ。もっと違う言葉で質問した方がいい」
それが、紫闇が前に言っていた『不具合』だった。おかげで、レーヴェに質問するときは注意して言葉を選ばなければいけない。
「ああ、そうだった。くそっ」
紅空は結い上げられた髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。聞きたいことははっきりしているのに、うまく伝えられないことがもどかしい。
「あーもう、落ち着け俺……聞きたいのは、ひとつだけなんだ」
紅空は今度こそ落ち着いて、レーヴェにただひとつを訊ねた。
紫闇が目をみはる。
――そして、レーヴェはこくんとうなずいた。