二章・2
レーヴェへの質問と、時おり聞けるユノエの独り言。
カズヒトに関する情報源はこのふたつしかなかったが、それでもカズヒトという人間の人柄を少しくらいは知ることができた。
クドウカズヒト。彼はユノエと同じ高校に通っている、同じクラスの少年。明るく元気なクラスの人気者……らしい。
部活動は陸上部。短距離走のホープだったが、交通事故に遭い、現在入院中。昏睡状態だという。自分が落下した際、まったく反応がなかったのはそのためだろう。
彼の意識は、今、あのベッドの上には存在しない。
(……何故なら、俺がカズヒトだからだ)
――しかし、問題なことに。
「まだ何も思い出せない?」
夜。ユノエが眠りに落ちた後、紫闇はベッドから起き上がり、紅空の顔を覗き込んだ。
「……ああ、うん」
紅空は、言いにくそうに視線を逸らした。
紅空と紫闇は、ユノエを間に挟んでベッドの両脇に寝かされている。
紫闇は、紅空の身体を起こして座らせた。
「ごめん、ありがとう」
未だに自分の身体ひとつ満足に動かせない自分に、紅空は心底落ち込んでいた。
人間の意識を自覚して考えてみれば、人形が動けることの方がおかしいのだが、目の前で紫闇が自由自在に動いているのを見ると、たまらなくなる。
「仕方ないよ、君はまだ生まれたばかりなんだから」
紫闇の優しい言葉に、紅空は一層落ち込んだ。
紫闇は善意で言っている。それは分かっているのだ。
けれど。
(――生まれたばかり)
その言葉が、紅空の胸を突き刺す。お前は人形だと、目の前の事実を突きつけられる。
「俺は、人形なんだな……」
紅空の言葉に、何を今さら、と紫闇は目をしばたかせて。
「どうしたの、紅空」
「いや、ちょっと落ち込んできただけだから。気にしないでくれ」
「そう言われても……可愛らしい仲間に元気がないんじゃ、僕としてはとても心配だね」
紫闇はそう言って、紅空の顔を覗き込む。
「君はカズヒトなんだろう? たとえ今は人形でも、君がそう確信しているのなら、絶対に真実は君の前に現れる。元気を出して」
ね、と紫闇が微笑む。
その黒い硝子の瞳に可憐な少女の人形が映りこんでいる事実は、紅空を苦しめることにしかならないのだけど。
それでも、紅空は紫闇の心遣いが嬉しかった。
「ありがとう、紫闇」
「気にしないで。……ねえ、君はこの人のことをどう思う」
「え?」
唐突な問いに、紅空はひとつまばたきをする。
「この人って……ユノエのことか?」
紫闇は何故か、ユノエのことを名前で呼ぼうとしない。人形として先に生まれて、ずっと、すぐ近くにいるはずなのに。
「そう。君はこの人を……愛しいと、思うかい?」
「え、ええ……?」
紫闇の言葉に、紅空は何故か慌ててしまう。
「あー、ええと。その」
言葉に詰まった紅空に、紫闇は悲しそうな目を向けた。
「……嫌い、なのかい?」
「そんなわけないじゃないか!」
紅空は、反射的にそう叫んだ。と、次の瞬間、あえぐかのように口をぱくぱくさせる。
「なんだ、やっぱりそうだよね。安心した。……僕も、この人のことを誰よりも愛しているよ」
優しく、慈愛に満ちた瞳でそう言い切った紫闇に、紅空は少しだけ自らを恥じる。言いよどんでいたのは、ただ少し恥ずかしかったからだ。
「……知っているかい、紅空? 人形は誰でも、自分を作り上げた者を一番に愛するんだ。僕も君も、それは例外ではない」
紫闇の声には、強い意思が込められていた
「この人は僕らへの慈愛に満ちているけれど、とても弱いところを持っている。僕は、その支えになるために生まれてきた」
紫闇はユノエの寝顔をじっと見つめている。
「君がもしカズヒトだったとして、この人のことを欠片も想っていなかったとしても……どうか、この人を傷付けることだけは、絶対にしないでほしい」
「それだけは、絶対にない」
紅空は迷うことなくそう言い切った。
紅空もまた、ユノエのことを想っている。だが、それはおそらく、紅空がユノエに作られた人形だからだろう。カズヒトとしてユノエをどう想っていたのかは、未だに思い出せないままだ。
「そう。なら、安心だ」
紫闇は柔らかく微笑んだ。
その笑顔がどこかユノエのものに似ていて、紅空はそっと彼女の寝顔を見下ろした。
先日、カズヒトの病室を訪れた際のことを思い出す。ユノエはすれ違う他人に怯え、知り合いらしい少女の悪意に震え、看護婦に話しかけられてしどろもどろになっていた。
人形と相対しているときのユノエとは、まるで別人だった。
紫闇はこのことを知っているのだろうか。もっとも、知っているからこそ、紅空にクギを刺しているのだろう。
けれど――。
(ユノエは、俺を守ろうとしていた)
ユノエは少女の冷たい悪意から、紅空を遠ざけるように抱きしめていた。まるで、子どもを守る母親のように。
おそらく――ユノエは、弱いだけの少女ではない。
そこまで考えて、紅空は思わず息を漏らす。
ユノエはおそらく、紫闇が思っているように『弱いだけ』の少女ではない。
ならば。
「もしかして、カズヒトも……」
人間は、一面だけで構成されているわけではない。ユノエがそうであるように。
ならばカズヒトも、『明るくてスポーツ万能でクラスの人気者』というだけではないのではないだろうか。
そこには、ユノエの知らない何かがあるのでは――。
いても立ってもいられず、紅空は立ち上がる。
「紅空……!?」
紫闇が驚きの声を上げた。
そう。今、紅空は自らの足でその場に立ち上がったのだ。
「あ、俺……」
まるで羽が生えたかのように体が軽い。まだ少しぎこちないけれど、手も足も自由に動くようになっていた。
紅空は、信じられないというように自分の手をじっと見つめる。
「さっき言ったとおり、君の、あの人への想いの強さは本物のようだね」
そんな紅空を、紫闇は目を細め、微笑ましそうに眺めていた。
「強い意思が、君を動かしている。……おめでとう、紅空」