二章・1
「俺は、『クドウカズヒト』なんだ」
帰ってくるなりそう言い出した紅空に、紫闇は面食らったようだった。
「どうしたの、ずいぶんと話すのが滑らかになったじゃないか。それに、『俺』なんて……女の子が使う言葉じゃないよ」
「俺は、女の子の姿なんだけど、女の子じゃなくって……なんて言えばいいんだろう」
紅空はもどかしそうに目をきょろきょろと動かす。相変わらず身体は思うように動かず、まどろっこしくて仕方がない。
けれど、『俺』という一人称も、少しだけ乱暴な言葉遣いも。紅空にはとても自然なことのように感じられた。
今なら分かる。カズヒトの顔を見る前まで感じていた、辛いほどの違和感はこれだったのだと。
「……つまり紅空は、自分が入院している『クドウカズヒト』と同じものなんだと。そう、言いたいんだね?」
ひと通り言葉を並べ立てて、訳が分からないなりに必死で説明をして。紫闇は、一応のところは納得してくれたようだった。
「そう! そうなんだよ……!」
探るような紫闇の視線に、紅空は必死にうなずく。
紅空の反応に、紫闇はますます難しい顔を浮かべた。
「……お願いだ、信じてくれ。俺は……」
「もういいよ、紅空」
紫闇の白い指が、紅空の唇を押さえる。磨かれた粘土のつややかな感触が、紅空の言葉を押し留めた。
「それ以上、言わなくていいよ。君がそこまで言うのなら、きっと君はカズヒトなんだ。それでいいじゃないか」
「紫闇……」
その優しい言葉と瞳に、紅空は何も言えなくなる。
涙が流れないことが不思議なほど、紅空は安堵していた。
自分の身体が人形であることを、紅空はこれ以上ないほどに承知している。
瞳と唇以外、思うようにならない身体は白く、ひんやりとして冷たい。鏡に映った自分は表情ひとつ変えず、整った顔立ちだけがただそこに存在しているのだから。
けれど。紅空はカズヒトだ。そうとしか、思えないのだから――。
「ひとつ聞きたいんだけど、君の中に『クドウカズヒト』である記憶はあるの?」
紫闇の質問に、紅空は言葉を詰まらせる。
その質問はもっともだった。これだけ自分がカズヒトなのだと言い切るのなら、何かしらの記憶があってもおかしくない。
けれど。
「……なんにも、ない」
紅空は泣きたくなった。何もないのだ。自分がカズヒトである、と証明できるようなものは、なにひとつ。
「それは、困ったねぇ……」
紫闇の声は心底困りきっているようで、紅空の不安は倍増していく。
「……じゃあ、こうしようか」
紫闇が、指を一本立てた。
「君が本当にカズヒトなのかどうか、この部屋の皆から話を聞いてみて判断するんだ」
「どういうことだ?」
紅空は不安そうに紫闇を見やる。
「簡単だよ」
と、紫闇は近くに置かれた箱に手をかける。隙間からはみ出している紐を引っ張ると、箱の蓋を押し退けて、一体の人形が姿を現した。オレンジ色のフエルトで作られたライオンのマスコットだ。紅空や紫闇の膝ほどまでの大きさしかない。
「この子は、ついこの間まであの人の鞄に付いていた子なんだ」
紫闇はマスコットを後ろから抱え込み、その場へ腰を下ろす。
「ねえ、レーヴェ?」
紫闇が優しく呼びかけると、マスコット人形は微かにうなずいた。
「そいつも、俺たちみたいに意思を持っているのか……?」
「ほんの少しだけね。この子も、あの人に愛されて生まれている。僕たちの質問に答えるくらいはできるよ」
紫闇の言葉に応えるように、レーヴェの手が揺れた。
「この子はあの人と共にカズヒトの姿を見ているはずなんだ。だから、この子からカズヒトの話を聞くことができるだろう。君がカズヒトだというのなら、その話を聞いて少しは何かを思い出せるんじゃないかな?」
「なるほど……ありがとう、紫闇」
どこか悪戯っぽく片目をつぶる紫闇。彼の知恵に、紅空はただ感謝することしかできない。
「ただ、少しばかり不具合があるんだけどね……ま、それは僕達が聞き方に気を付ければいい話だ。問題はないだろう」
紫闇はレーヴェに「ね?」と首をかしげてみせた。
「……でも」
ふと、紅空は瞳を翳らせる。
「紫闇はどうして、レーヴェがカズヒトを見ていると言い切れるんだよ?」
「そんなの簡単さ。クドウカズヒトっていうのは、あの人の学校でのクラスメイトだよ」
そのときの紫闇は、明快な言葉とは裏腹、複雑な表情を浮かべていた。
「……まあ、それだけじゃあ、ないけどね」
嬉しいような、悲しいような、憎らしいような……いくつもの感情がごちゃごちゃに混じり合った表情。――まるで、人間のような。
その表情の意味に、紅空は気付かない。