一章・2
――……お前の名前は、『紅空』よ。
今も耳に残るその声は、紅空の誕生を祝福する言葉だ。
あれからどれほどの時間が経ったのかは知らない。少女の髪は、以前見たときよりも少しだけ長くなっている気がした。
「紅空、紫闇とはいいお友達になれそうかしら?」
いたずらっぽく笑って、少女は紫闇を抱き上げた。
「結局、織とも架涼とも引き離してしまったから、ずっと紫闇は一人ぼっちだったんですもの。お友達ができてとっても嬉しいって、そんな顔をしているわ」
紫闇は実際、幸せそうな微笑を浮かべ、少女の腕の中に抱かれている。
「さ、ベッドに戻りましょう」
少女に抱かれた紫闇が、気付かれないよう、紅空にそっと片目をつぶる。
また後で、もっとゆっくり話をしよう。紫闇の表情は、そう言っているように見えた。
やがて、紫闇を寝かせた少女が戻ってくる。
その頃には紅空も一応のところは落ち着きを取り戻していた。だが、少女の顔を見ていると、再び自分の内側がざわめいていく。
「紅空」
名前を呼ばれれば、心が跳ねる。
抱き上げられ、紅空は肌に触れる少女の体温を感じた。柔らかく、とても温かい。
「……紅空」
嬉しくてたまらない、という表情で、少女が紅空の頬に自らの頬を寄せた。
「やっと生まれてくれた……やっと、わたしを見てくれた、わたしの人形」
歌うように、少女は呟く。
「覚えておいてね」
少女は、紅空の耳元に唇を寄せて、優しく囁く。
「……わたしの名前は、ユノエというのよ」
ユノエ。
不思議な響きの名前だと思った。どこか、耳に心地よい。
「ねえ、紅空。お前はね、完成したら球体関節人形のコンクールに出るのよ」
恍惚の紅空は、自らの主である少女、ユノエの言葉でふと我に返る。
ふと見れば、先ほど紫闇が用意した鏡の中には、ユノエの腕に抱かれた、美しい少女の人形が映っていた。
美しい少女の人形――主に愛される紅空、自らの姿だ。
それは、何にも替えがたいほどの喜びであるはずなのに。紅空は何故か、その光景に激しい拒否感を覚えた。
「きっと、紅空は他の誰が作った人形よりも美しくて、繊細で、優美よ。間違いないわ。だって、紅空はこんなに可愛いんですもの」
心を躍らせるユノエの言葉は、しかし同時に紅空の肌を粟立たせて。
(……違う)
直感的に、そう感じた。
可愛い。繊細。優美。
その言葉は鏡の中に映る人形の姿そのものだ。
(だけど、違う――)
それは紅空にとって、自分自身を、『紅空』を示す言葉ではない。
(……何故だかは、分からないけれど)
紅空の困惑を余所に、ユノエはなおも言葉を続ける。
「ああ、とても気分がいいわ。……そうだ、今ならあそこにも行けそうな気がする」
ユノエは、そう呟くと、手近に置かれていた鞄を掴み、紅空を抱いたまま部屋の外に出た。
いったい何処へ――ますます深まる紅空の困惑を余所に、ユノエは早足で歩き始める。
「行きましょう、紅空。あの人のところへ」
あの人。ユノエの唇から零れたその言葉には、特別な響きがあった。
***
片手には、夏の日差しを避けるための真っ黒な日傘。もう片方の手には、涼しげな表情の紅空を抱いて。
紅空にとって初めての外の世界は束の間。ユノエが立ち止まったのは、塀に囲まれた、とても大きな白い建物の前だった。
いったい何事だろうか、と。紅空が疑問を覚えた、次の瞬間。
「……っ」
ユノエの体が、突然震えた。
入口の自動ドアが開かれて、中から学生服姿の少年が二、三人出てくる。
紅空がちらりとユノエに視線を向けると、ユノエは固く唇を噛みしめているようだった。
(……?)
首を傾げようとして、自分が動けない事を思い出す。
何故だか、ここに来てユノエの足取りは突然重くなっていた。先ほどから、一歩も動こうとはしない。
ユノエが立っているのは、入口から少し離れた街路樹の蔭。そこからしきりに、建物から出てくる人間のことを気にしている。
いったいどうしたのだろうか。もう一度、紅空はユノエを心配して瞳を動かす。身体はほとんど動かないというのに、眼球と唇だけは微かに動く。それは紅空にとって微かな救いだ。
どうやら、ユノエは怯えているようだった。
その様子は、先ほどまで紅空と紫闇を相手にしていた彼女とは、まったくの正反対だ。
「……あら、神崎さんじゃない」
急に聞こえた声。ユノエが身体を固く強ばらせる。
「あ……山内、さん……」
ユノエがおそるおそる振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
紅空の視線の高さからは、その少女の姿がよく見える。ユノエと同じ紺色の制服に、きれいに巻かれた茶色の髪、カールしたまつげ。桃色の唇はつやつやと輝いている。
きれいな顔立ちの少女だった。顔立ちだけならば、少なくともユノエよりずっと。
「神崎さんも、工藤くんのお見舞いにきたの? ……めずらしいこともあるのね」
どこか値踏みするような瞳がユノエを見つめ、不意に紅空へと視線を落とす。
「へぇ、クラスメイトのお見舞いに来るときも人形付きなんだ。さすがは『人形作りの天才』だね」
「あ、これは……」
紅空を抱くユノエの腕に、きゅっと力が込められる。まるで、紅空を守るように。
山内は、ユノエの様子に怪訝そうな表情を見せた。そしてそれは、何かを思い付いたような笑みに変わる。
「ねえ、ちょっとその人形見せてよ」
「えっ……? あ、ちょっと待って……」
遠慮のない手付きでユノエの腕の中からひったくられた瞬間、紅空は全身が寒気に包まれるのを感じた。
その感覚の正体も掴めないまま、紅空は山内にじっと顔を見つめられる。
「ふーん、可愛いねー」
「あ、ありが……」
「で、これってどこまで作ってあんの? うわー、スカートの中とかぴらぴらしてるし。少女趣味っていうか、今どきこんなの好きなんだぁー」
遠慮の欠片もない手付きで、山内は紅空のスカートをめくり上げた。
(――っ!)
身体中が氷の塊になったかのように冷たく、重い。紅空の隅々までを暴こうとする山内の手は、やけに生温かくて気持ちが悪い。
紅空が意識を手放しそうになった瞬間、ふっと身体が軽くなった。ユノエが、山内から紅空を取り返したのだ。
「……なにそれ。あんだけ多くの人に見せといて、アタシには見せてもくれないんだ?」
「あ……それは、違……」
「神崎さんって心せまーい。だからいつまでたってもだぁれも友達になってくれないんじゃない? そのくせ、ときどきアタシたちの方見てるでしょ。物欲しそうに」
山内がくすくす笑う。
「誰も、神崎さんと友達になりたいなんて思ってないから」
ユノエが震えた。けれど、わななくその唇からは何の言葉も出てはこない。
先ほど山内の手から感じた寒気の正体――あれは、悪意だ。ユノエと紅空に向けられた、生々しくて冷たい感情だ。
山内は、自分の言葉に何の罪悪感も抱く様子がない。ただ、つまらなさそうにユノエを見て、それから一言だけを残していく。
「……あ、もし工藤君のお見舞いなら、三○七号室だから。じゃあね」
「あ、あの、山内さん……」
くるりと背を向けて去っていく少女を追うかのように、ユノエは彼女に呼びかけた。
けれど、それ以上の言葉が出てこない。
やがて。
「……大丈夫だった、紅空?」
紅空の耳元に唇を寄せて、ユノエはそう呟く。
「怖かったでしょう? わたしも……怖かった」
その言葉が真実だと示すように、ユノエの指先はまだ微かに震えている。
「でも、あなたのためなら、怖いのくらい我慢できるわ。あなたを失うことの方が、何倍も怖いから」
ユノエは、きゅっと唇を噛み締める。
その仕草に、紅空はユノエが自分を大切にしてくれていることを感じた。何となく、心が温かくなった。安堵するかのように、紅空の身体から寒気が抜けていく。
「……じゃあ、行きましょうか」
わざとらしいほどに明るくそう言って、ユノエは再び歩き出した。