一章・1
身体が浮き上がるような感覚と共に、意識は唐突に覚醒した。
瞳は開いていた。けれど、視界を埋め尽くしていたのは漆黒の闇。
何がどうなっているのか。少しでも辺りの様子を調べようと手を伸ばそうとしても、身体はぴくりとも動いてはくれない。
手も足も胴体も何もかも、一切の感覚がなかった。
いいや、そもそも――と、思う。
(わた、しは…………何――?)
分からなかった。何もかも。
「……やあ」
不意に、どこからか声が聞こえた。低く、柔らかい響きの声だ。
反射的に辺りを見回そうとして、失敗する。動く方法すら知らないのだった。
その困惑を察したのか、その声は優しく紅空に語りかけてきた。
「驚かせてごめん。生まれたてでまだ何も分からないのに、急に話しかけられたら驚くよね」
その言葉が終わるやいなや、一人の青年が顔を覗かせた。
「おはよう、紅空」
「紅空……?」
「そう、君の名前。君は、紅空だよ……よいしょっと」
彼はぎこちない動きで紅空の座っているテーブルに手をかけると、少しずつ自分の体を持ち上げていく。
「これで君からも僕の姿が見えるね」
やがて青年は、勢いをつけて身体を一気にテーブルの上に載せた。立ち上がると、紅空に向けてにこりと笑う。
「はじめまして、紅空」
最初、紅空の目には彼が闇から現れたかのように見えた。
彼は全身に黒を纏っていた。少し長めの髪も、瞳も、シャツも、スーツも、靴も。リボンタイすらもが黒い。ただ、肌だけは抜けるように青白く、室内を包む闇の中でうっすらと浮き上がって見えた。
鼻筋の通った、整った顔立ちが紅空に笑いかける。
「僕は『『紫闇』。君のお兄さんとでも言うべきかな? とりあえず、君よりも早く作られた人形だよ」
人形。
それが人の形をしたものだということは、何故かすんなりと理解できた。そして、人――人間のことも。
紅空は、じっと紫闇の姿を見つめた。
改めて見てみると、紫闇の身体には関節の継ぎ目が存在していた。手首の関節は球体になっており、なめらかな動きを見せている。首も同様だった。肩や足首、股など服に隠れている他の関節も同じだろう。
「君は、僕と同じ球体関節人形なんだよ」
球体間接人形。初めて聞く言葉だ。もっとも、紅空は生まれたばかりなのだから。何もかも、初めて体験することのはず。
(私は、紫闇と同じ球体間接人形――――なら、)
「……なら、な……ぜ……」
紫闇と同じように動けないのか。
目覚めて初めて発した声は思うようにならず、途切れ途切れの言葉に紅空は眉をひそめようとする。
しかし、今の自分の身体に、自分の意志で動くものはほとんどない。ただ、うっすらと開いた唇から、言葉だけはかろうじて伝える事ができた。
紅空が必死の努力で意思を伝えようとしていることを見て取り、紫闇は浮かべていた笑みを深める。
「君はとても良い子だね、紅空。生まれたばかりなのに、僕と会話する事ができる」
紫闇は球体の関節を器用に動かし、紅空へ自らの華奢な手を差し出した。
「僕には分かるよ。君は自分の中で、もっと多くの言葉を浮かべているのだろう? そういうことは、なかなかできるものではないよ」
紫闇は嬉しそうにそう語る。
「人形は、人の形に近いがゆえに、時おり意思を持って生まれることがあるんだ。けれど、その大半は自我を自我とも認識できないものばかり。けれど、君と僕は違う。こうして会話が成立しているのが、その証拠だ」
(……人形が自我を持つ?)
何もかも、その言葉の意味すら分からない紅空だが、何故だか、その一言は心に残った。そう思う自分が、そもそも人形だというのに。
紅空の沈黙に、紫闇は何を思ったのか。彼は少し離れたところに置いてあったスタンドミラーを引っ張って、紅空の目の前に置いた。
部屋の暗さでよく見えなかったが、紅空は一瞬、何も考えられなくなる。
「これ、が……私……?」
自然と漏れ出る言葉。思わず呆然としてしまうほど、鏡に映ったその姿は美しかった。
結い上げられた豪奢な金の巻き毛。闇の中、ぼんやりと浮かび上がる肌は紫闇とはまた違った白さで、頬は微かに上気したような薄桃に染められている。深紅のドレスに身を包み、ドレスの裾や、小さな頭を包むボンネットの縁には、黒いレースが惜しげもなく縫い付けられていた。
小さな足に履かされたレースの靴下と、光沢のある黒いワンストラップの靴。
椅子に座った自分の姿は、どこから見ても可憐な少女だった。
だが――『少女』。その響きに、紅空は激しい違和感を覚える。
「驚いたのも無理はないよ。生まれて初めて自分の姿を見たんだから」
紅空の沈黙を、紫闇は驚愕と受け取ったらしい。微笑ましそうにそう告げて。
「でも、君はとても可愛らしい少女だよ。……あの人はこの頃、ますます人形作りの腕に磨きがかかったようだ」
可愛らしい少女、球体関節人形、一切の身動きが取れない身体――そのすべてが、紅空の意識にとってはひどくいびつに感じられた。
「球体関節人形の意思は、どうやら製作者の思い入れやイメージの強さに影響されるらしい。君は、随分とあの人に愛されているんだね」
難しくてよく分からない言葉の羅列の中で、ふと、ひとつの言葉が紅空の耳に残る。
「あの、ひと……?」
あの人。紫闇の言葉はその単語だけ、深い思いが込められている。
「そう。僕たちを作った、あの人だよ。――僕たちが、何よりも愛する……」
だが、そのとき。
紫闇の言葉に重なるように、キィ……と扉の軋む音がした。
「……ただいま、みんな」
扉が少しずつ開いていき、部屋の中に光が差し込まれていく。
紫闇が、紅空の目の前で力を失って崩れ落ちた。
部屋に入った誰かは、紅空と紫闇のいるテーブルの方に近付いてくる。
「あら、わたし、こんなところに紫闇を置き去りにしていたかしら……?」
不思議そうな呟きに、紅空は人形というものは本来、人間の前では動いたり話をしたりしないものだと理解する。
「……きっと、新しいお友達が気になったのね。紫闇は、今までに二人もお友達を亡くしてしまっているし」
曖昧ながら自分の置かれた立場を理解する一方、紅空は心が高ぶっていくのを感じていた。
己の内側が揺さぶられている。先ほどから聞こえる、この声に――。
「ただいま、紅空」
その言葉と共に、ぱっと部屋の明かりが灯る。
身を刺すような白い光の中に、声の主の姿が浮かび上がった。
(――――っ!)
瞬間、思わず紅空は息を詰まらせる。
視線が、逸らせない。
「ああ、どうして毎日、あんな場所に足を運ばなければいけないのかしら」
どこか大仰な口調で疲労を訴えながら、けれど、まるで喜びが零れ出しているような微笑みで、声の主は紅空の顔を覗き込む。
「学校なんてなければいいのに。そうすればもっと、お前とも紫闇とも、みんなと一緒にいられるのにね」
紅空は美しい硝子の瞳で、声の主を一心に見つめ返した。
(この人、は)
この人は。
(私の、世界――)
みるみるうちに心の中を埋め尽くしていく想いは、温かく、強い。
愛しい、愛しい――それはまるで本能のように自然に生まれ出て、自然に思える感情。
事実、それは人形の本能だった。
何故なら紅空は、この声の主に作られたものなのだから。