三章・3
ユノエは完成した服を持って戻ってきた。
「ごめんね、どうしても使いたいボタンが下にしかなかったから、ちょっと遅くなっちゃった」
ユノエはそう言って詫びると、最初に紫闇を抱き上げた。
「紫闇から着替えましょう」
ユノエはためらう様子もなく紫闇の上着を脱がせた。露わになる白い肌に、紅空の方が恥ずかしくなってしまう。紫闇はそんな紅空に気付いたらしく、ユノエに分からないよう微かに笑った。
「……傷、消した方がいいのかしらね」
ユノエの指が、紫闇の腹をすっとなぞる。
そこには二つの切り傷があった。紫闇の粘土でできた身体にはっきりと刻まれている。紅空が、初めて見る傷だった。
(どういうことだ、紫闇!)
そう問い質したいのはやまやまだったが、あいにく今はユノエがいる。声を出すことはできない。
しかし、その答えは他でもないユノエが教えてくれた。
「わたしがお前のお友達を一人失うたびに、お前は腹に傷を作った。単なる偶然なのか、それともわたしと一緒に悲しんでくれていたのかしら?」
紫闇なら、間違いなく後者だろう。
彼は人形の鑑だ。主のユノエを至上として愛している。それこそ、名前すら呼べないほどに。
しかし、ユノエは紫闇の『お友達』と言っていた。わざわざそんな言葉を使うのならば、それはおそらく紫闇や紅空と同じ球体関節人形だろう。
傷がふたつあるということは、紅空の生まれる以前に二人、球体関節人形が作られ、失われているということだった。
「お前はわたしが初めて作った球体関節人形。いつかどこかから現れて、わたしを救ってくれる王子様。……だけど、そんな人はどこにもいやしない」
紫闇にできたばかりの上着を着せて、ユノエは自嘲するように唇の端を上げた。
「だから、お前が好きよ、紫闇。お前は誰よりもわたしを分かってくれるし、わたしもお前が分かる。だからお前は壊さなかったの」
新しい上着は、紺のベルベッドにパールビーズのボタンが付けられていた。紫闇の白い肌に直接羽織ると、どことなく艶かしい色気が醸し出される。
「さあ、次は紅空の番ね」
満足そうに笑い、ユノエは紅空に視線を移した。
「……女だった架涼、破天荒なほど元気な織。どちらもわたしには理解できず、完成させることができなかった。けれど、あなたはもうすぐ完成するわ……」
ユノエは吐息のように呟いて、迷いのない手付きで紅空を抱き上げた。ゆっくりと、紅空の服を一枚ずつ脱がしていく。
「……分からないものなんて、作れるわけがなかったのよ。だから、あなたを作るときにモデルを使ってよかったと思ったわ。少なくとも、迷うことはなかったから」
ユノエの指が触れるたびに、紅空は得体の知れない恐怖に怯えた。
これはいつものユノエではない。
いつものユノエなら――こんな歪んだ笑い方はけっしてしないはずだ。
紅空はそう思いながら、ユノエの意思のまま、なすがままになっている。
「けれど、何故かしらね。こんなにおかしなことになってしまったのは……」
ユノエの手が止まる。紅空は、一糸まとわぬ状態で彼女の視線にさらされた。
人形特有のつるりとした体つき。やすりがけを丁寧に行っていたらしく、肌にはざらつきひとつない。紫闇の身体と違うのは、微かな胸のふくらみと、腰周りのちょっとした肉付きの違いだけ。
それは、紛れもなく少女人形の体つきだ。
「あなたは、少年になるはずだった」
(――――え?)
ユノエから零れたため息。その言葉に、紅空の頭は真っ白になってしまった。
「いつもずっと見ているあの人をモデルにすれば、いい人形ができるんじゃないかって。あの人をモデルにすれば、わたしが理解できるものを作れるんじゃないかって、そう思ったのに」
ユノエは、紅空に新しいドレスを着せた。こころなしか、指先が震えている気がする。
「あの人の表情なら、何でも覚えてる」
紅空に新しく与えられたドレスは、紫闇の上着と同じ布で作られたベルベッドのドレスだ。今回のドレスはレースが少なく、全体的にすっきりとしたデザインをしている。
「あの人の身体の動きなら、ぜんぶ分かる。走るときの足の運びも、腕の振り方も。普通に歩いているとき、体重がどっちに寄ってることが多いかも、すべて分かってるのに」
ユノエの声が震えた。
「……それなのに、女の子しかできなかった」
紅空にはユノエを見つめることしかできない。
「男の子の身体にこの顔を乗せることだけは、気持ちが悪くてどうしてもできなかった」
ユノエの唇は、血の気を失って真っ青になっていた。潤んだ瞳が、まっすぐに紅空を見つめている。
「わたしは工藤くんが欲しかったのに」
血を吐くような声だった。そしておそらくは、ユノエの掛け値なしの本音だった。
「それなのに、どうしても女の子しか作れなかったの。……馬鹿みたいよね」
ユノエの手が、きれいに結い上げられていた紅空の髪を解いてしまう。
金色の光が広がるように、紅空の長い髪が下ろされた。
「……でも、女の子でもかまわない。紅空、わたしはあなたが好きよ。愛しているわ」
ささやかれた言葉に、刹那、心が縮み上がった錯覚を覚える。
「そう、愛しているわ。愛しているのよ……」
ユノエが紅空の長い髪を梳いている。その瞳に、かつて人形を相手にしていたときのような光はない。誰にも負けないだろうと感じさせるような強い意志の輝きは、どこにも見て取ることができなかった。
しかしそこには、今まで見たこともないような暗い光が宿っている。
――怖い。まるで、知らない人間に心をわしづかみにされているようだ。
(これも……ユノエだっていうのか……?)
紅空はそのとき初めて、ユノエの抱いている底知れぬ暗闇を覗き込んだのだ。