少女の明けの物語
第一話 シュウトク
「また、こんなどうしようもないものを拾ってきおって……」
「そうは言っても、放っておけないじゃないですか」
木製の質素な部屋の中で、老女と若い男が言い争いをしている。
老女は腰も曲がり、男の半分くらいしかない身長ではあったが、偉そうな言葉使いと頭まで着こんだ黒の衣が存在感を主張している。
対する男は、老女と対照的に白を基調とした清楚な衣を身に着けていたが、物腰も柔らかく何かを嘆願しているようだった。
「お前……うちの財政事情わかってるんだろう? 今すぐ戻してこい」
大きめの声で老女が言うと、若者は「師匠!」と再度嘆願した。
面倒くさそうに顔をゆがめると、老女は「お前に師匠と呼ばれる謂われはない」と冷たく言い放つ。
「サワさんっ!」
若者が老女の名前を口にすると、老女の顔から表情が消えた。
その場の空気が凍りつく。これは老女の怒りによるものなのだろうか。
「気安く私の名前を呼ぶな。いいか、これは絶対だ。私を縛ろうとなんて考えるな」
「別に縛ろうだなんて……」
委縮した若者が気まずそうに老女に弁明を述べる。
老女はそれを手で遮ると、辟易したように息をついた。
「なんにしても、だ。名前とはそういうもの。意味もなく表に出すものではない。
特に、私たちならば尚更だ」
老女の言葉に若者が神妙な顔をして頷くと、少し顔をほころばせて再び老女が口を開いた。
「それに、人を簡単に信用するんじゃないよ。どんな悪鬼かしれぬだろう」
それならば大丈夫です、と若者が部屋の隅を示した。
そこには、灰色の襤褸を纏いしゃがみこんだ女がいた。
表情は一切表に出ておらず、ただ虚空を眺めている。
黒い髪は無造作に伸び、身についた汚れには年期を感じさせる。
若者は彼女の庇護を老女に求めていたのだ。
「何が大丈夫だというのだ? むしろ最悪の部類ではないか」
灰色の女は人ならぬ身であった。そのことを見抜けぬ老女ではない。
野心の有無があるに関わらず、彼女を身近に置いておくべきではないと老女は判断していた。
「ふふん、まだ言いますか……私がどこで彼女を見つけたと思っているんですか?」
得意な顔をして若者が老女に耳打ちをする。
若者が示した場所に唖然としたがすぐに調子を取り戻し、老女は苦笑しながら応えた。
「身内か……しかたない、力が戻るまでは此処にいることを許してやろう」
我がことのように若者は喜び女に微笑みかけたが、女は相変わらずの無表情である。
老女は溜息をつくと、若者に風呂の用意をさせた。
第二話 タマ
「まったく、なんて一日だろうね……」
囲炉裏の前で茶を啜っている老女の、悪態とも独りごとともとれる言葉を背中で聞きながら、若者は夕餉の用意をしている。
少し居心地が悪いようで、何か彼女に話しかける話題がないか、手を動かしながら考えているようだ。
しばらくすると何かを思いついたように、老女に話しかけた。
「彼女の服、どうしましょうね」
「あんなもの、捨てちまえ」
女は今、外に設置してある風呂に入っている。
今まで着ていた服は、洗っても汚れが落ちそうにない上に、何よりボロボロであった。
「けど、そうすると着るものが……」
「お前のでいいだろう。お前が拾って来たんだ。そのくらいの責任は取ってしかるべきだ」
「丈が合いませんよ」
「そんなもの……ん、待てよ」
何かに気が付いたかのように、老婆が重そうに腰を上げる。
入り口から離れた場所にある筒を漁ると、やがて奥底から一着の服を取り出した。
それは見た目にも上質な、流れるような生地の白い着物であった。
「どこで盗んできたんですか、それ……」
驚嘆しながら若者が問う。
若者の口の悪さに苦笑しながらも、老婆は「ちょっとな」と言葉を濁した。
そうこうするうちに女が湯浴みを終え、戻ってきた。
相変わらずの無言で入ってくるので、男は心臓を荒げながらも、慌てて女に背中を向けた。
老女がその様子をたいそう面白そうにしながら、女を招き寄せ、着物を着つけていく。
……そういえば老女のこんな笑い声を、今まで聞いたことがなかったな。
若者が物思いに浸っていると、老女から「できたぞ」と声がかかる。
振り向くと、そこには絹のごとく柔らかな上衣と袴に包まれた女が立っていた。
その様子はまるで……。
「……巫女服?」
「似合うじゃろ?」
老女が悪人の様な顔でニヤリと微笑んだ。
若者は背中を嫌な汗がつたるのを感じながらも、質問を口に出さずにはいられなかった。
「なんでそんなもの持ってたんですか」
「ふふん、秘密じゃ」
老女が女を座らせると、夕食が始まった。
……男の心に、不穏な疑念を残したまま。
第三話 ゲ
女がゆっくりと箸を手に取り、食事を口に運んだ。
その一連の動作を眺め、老女がほぅ、と感心するような声をあげた。
「どうしたんですか?」
「いや、なに。そんな表情もできるんだな、と……」
表情……若者が女を注視するも、彼女の表情に別段変化は見られない。
初めて会った時と変わらない、無表情のままである。
「見間違えじゃないですか?」
「ふん……自分の目の悪さを、人のせいにするんじゃないよ」
それきり、老女は黙り込んで食事を続ける。
コツコツと、皿に箸の当たる音と、囲炉裏で火の跳ねる音がその場を支配している。
女はぎこちない手つきで、ゆっくりと口に食べ物を運んでいく。
咀嚼する力が残っていないのか、口の動きも非常に緩やかである。
女が食べ終わる頃には、老女も若者もとうに食べ終わってしまっていた。
それでも、茶を啜りながら彼女を見守る二人の様子は、まるでずっと面倒を見てきた保護者であるかのようだ。
「いいものだな……」
ポツリと、老女がつぶやく。
全く同じことを考えていた若者が、照れ隠しに明後日の方向に視線を向けた。
食器を洗いながら、若者は考えていた。
背後では、老女と女がまったりと茶を啜っている。
今さらながら女をここに連れてきてしまったことに、後悔の念すら抱いている。
食器を洗い終えてしまうと、彼はあの二人の中に戻らざるをえない。
「そろそろ寝るか……」
言って老女が、かけ声とともに重い腰を上げた。
「あの……師匠……」
「なんだ」
師匠と呼ばれたことに不快感を表しながらも、若者の頼りなげな声を不思議に思い、老女が返事をした。
「……どうしましょう」
「布団だったら、予備があるだろう」
「いや、そうではなくて……」
「なんだ、はっきりしないやつだな」
屋敷というよりは小屋に近い、彼らの暮らしている場所は一部屋しかない四角い空間である。
入口が土間になっていて、入ってすぐ右手に流し台がついている。
左手は一段上がり畳が敷かれていて、畳の中央が囲炉裏となっている。
つまり、布団を敷くとなると……。
「年ごろの男女が同じ場所で寝るっていうのは、倫理的に……」
「ふんっ、お前にそんな甲斐性あるわけないだろ」
「いや、そうなんですけど……」
「なんなら外で寝るか?」
「それは……」
「同じ布団じゃないだけ感謝しろ」
つまらなそうにそれだけ言うと、老女が布団を並べて二枚敷いた。
若者は、囲炉裏を挟んで布団を敷くと、彼女たちに背中を向けるようにして眠りについた。
パチパチと、薪の燃え残りが弾ける音と、豪快ないびき、それにいつもは聞こえない静かな寝息が聞こえている。
第四話 ミギ
「何度も言っておろうに。心を更にして、ただ命じればいいのだ」
「そうは言いましても……」
「コツなんてものを求めるな。経験をあてにするな。お前のその概念が邪魔をしているのだ」
木製の住まいから出てすぐの場所では、翌朝早くから日課とも言うべき訓練が始まっていた。
老婆はイライラとした口調で若者を責め立てているが、
的確に要点を教えるそれを聞く限り、無理難題を押し付けているわけではないようだ。
若者は黒を着こんだ老女に小突かれながら、努めて真面目な顔で修練に励んでいる。
二人の声を聞いて目覚めたのか、女が扉口に立っていた。
山を駆け昇ってくる風が、腰まで伸ばした女の黒髪を揺らした。
「こうやって陽の光で見ると……」
「はい?」
「随分と綺麗になったじゃないか。見違えるほどだな」
「そうですね」
若者は改めて女を眺める。
老女の言うように、ボサボサだった髪は綺麗に光沢を発している。
流れるような白の袴姿と、血色の戻ってきた顔色には、昨晩までの面影はない。
「これも師匠のおかげですね」
老女の自尊心を持ち上げようと若者の発した言葉は、その実逆効果であった。
「おい、木偶の棒」
「……え?」
「お前のことだ」
「……なんでしょう」
「私は、持てる技の全てをお前に教えよう。けれどお前を弟子にするつもりはない」
だから師匠と呼んでくれるな、と小さく付け加えた老女に、若者はしかしながら食いついた。
「今までは二人だったからそれでよかったかもしれませんけど、三人もいるんですから、なんかしらかの方法で呼び分けないと……」
それもそうか、と考える老女ではあったが、一瞬だけ女に目を向けると、すぐに顔をあげた。
「まぁ、なんとかなるだろう」
「……非常にやりにくいですけどね」
「そんなことを気にしているようでは、お前はまだ本質を見極められていない」
落ちていた木の枝を若者めがけて投げつけると、講義は終わりだと言わんばかりに老女は踵を返した。
「我ら技の極意は、命じることにあるのだ……。決して私を縛ろうとするんじゃない。いいな、絶対にだぞ」
女を促して小屋の中へと戻っていく。
若者はしばらく立ち尽くし何事かを考えていたが、鳥の声にこれから行うべき自らの使命を思い出した。
苦笑すると若者は、朝食を待つ二匹の雛鳥の元へと駆け出した。
第五話 タル
「のぅ……」
「なんでしょう」
「流石に、まずいだろ」
「そうですね……」
老女と男が囲炉裏を囲んで、ため息を吐く。
女が心配そうに、二人を見比べている。
「まぁ、いい感じに回復しているみたいなんですけどね」
「だがその前に、私が喋れなくなってしまいそうだよ」
女の体調は順調に回復している。
常時無表情だった顔には、今では様々な感情が浮かぶようになったが、言葉を喋るにはもう少し時間がかかりそうだ。
「一人でつつましく生きていくには、十分だったのにな……」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「先ゆくものがないと生きていけないってのも、せちがらいのぉ」
若者は外に視線を逃がし、夕陽を眺めながら思考を逃亡させている。
ふと、お茶を啜りながら愚痴をこぼしていた老女が、黙り考え込んだ。
「……どうしたんです?」
「何かを思い出せそうなんだが……」
やがて老女が女を射抜くように見つめ出した。
女は居心地が悪そうに、もぞもぞと蠢いている。
その仕草に庇護欲を掻き立てられ、若者が何事かを言おうと口を開いたが、呆れたような老女の言葉が先だった。
「お前、あそこには何をしにいったんだい?」
「えっ……」
そこまで言うと、若者の頭にも何かが掠めたらしい。
あそこ……それはつまり、老女の前の住まいのことだろう。
女と出会ったあの日、若者は老女の小言に辟易して、当面の生活費を賄うために、老女の前の住居に行ってきたのだ。
彼女の言うことが正しければ、そこには老女の隠し財産があるはずだったからである。
「隠し財産ですねっ」
老女に内緒で若者は遺産を取りに行ったはずだったのだが、そこで彼は女を拾ってきた。
「ははっ」
「笑い事じゃないよ、まったく……」
「さっそく、明日にでも取ってきますから」
「今度こそ、な」
老女が若者に念を押す。
照れくさそうに笑ったが、あの状況では女を連れて帰るしかなかったであろうことは容易く想像できたので、それ以上追求するようなことはなかった。
それに……と、老女は考える。
「私も行こう。お前一人では心配だしな」
若者は多少驚いたが、老女が望むのであれば、それを止めるべくもない。
「君はどうする?」
女は思案するように俯くと、やがて小さく笑って頷きかけた。
……その様子が、無理をして笑っているように、若者には見えた。
第六話 オモカル
「既に人間であることを辞めた。精霊と同一視されることもあるが、そんな心のない者でもない。
……そう、一番しっくりくる言葉が、魔女だの幽霊だのという俗な言葉になるのさ」
いつぞやの老女の言葉が、若者の頭の中で巡っている。
旅の道中、老女と女の姿が見える人は極わずかであった。
一緒に生活をしていると気づかなかったが、彼女たちは間違いなく普通の人間ではないらしい。
そしてもう一つ、若者には気にかかる事があった。
「大丈夫?」
渡し船に揺られながら、誰にも見られないように若者が女に声をかける。
目的地に近付けば近付くほど、女の顔色は悪くなっていた。
努めて微笑もうとしている健気さが、より一層痛ましさを覚えさせる。
若者は女の手に自らの手を優しく重ねた。
老女が興味なさそうに二人を冷やかすと、苦笑する男の横で、女の頬に紅が差し込んだ。
苦労するな、と老女は女に笑いかけ、そのまま目を閉じ眠りについた。
「着きましたよ」
無酸素の暗闇から、急激に引き上げられるような感覚が老女を襲う。
目を開けると若者が呆れた顔をしている。
どうやら深く眠りこんでしまっていたようだ。
「あぁ、すまんな」
素直に謝る老女を訝しく思いながらも、若者は女を連れて船を降りた。
老女も懐かしさと悲しさの入り混じる複雑な心境で後に続いた。
女の体調を気遣いながらの行程では、そんなに早足に進むことはできない。
けれど、目的地はもうすぐ近くまで迫っている。
一行の目の前に、見るだけで嫌気が差すような斜面の急激な坂がそびえていた。
「……オモカルの坂か」
どことなく浮いた口調で、老女が呟いた。
足を止め、坂を登るための気力を養う。
すると後ろから、荷を運ぶ中年の女がやってきた。
「重い荷物を引いて、結構なことだの……」
「人の苦労を笑うなんて、あんまりいい趣味じゃないですよ」
「まぁ、そう言うなって」
楽しそうに笑う老女を、若者が軽く諌める。
老女は懲りずに笑い続けると、近づいてきた中年の女の背後に回った。
案の定、二人の姿が見えないようで、中年の女は若者に話しかけてきた。
「まったく、難儀なことだと思わないかい?」
「どうしたんですか?」
「知らないのか? ここはオモカルの坂といって、どんな重い荷物も軽く運べてしまう不思議な坂だったんだよ」
以前まではな、と中年の女が溜息とともに付け加えた。
若者の脇では、女が震えながら若者の袖を掴んでいる。
その様子にただならぬものを感じながらも、若者は話の続きを聞かざるを得なかった。
「いや、なに……あたしには見えないんだけどね……坂の上には魔女が住んでいたっていう話があって、その魔女がこの坂に呪いをかけたんだとさ」
「呪いと言うのか、それは……?」
「魔女がいなくなったら、その効力がなくなって迷惑するなら、これは呪いに他ならないだろ」
「それは……」
魔女とは、自らの隣で震えている女のことだろうか……。
話が真であるならば、女はずっと彼女たち村人に手を貸し、手伝っていたことになる。
……身を粉にして、襤褸と成り果てるまで。
荷物に手をかけていた老女が、呆れたようにその場から離れた。
涙を拭う女の手を引き、先に坂を上っていってしまう。
「お前がやれ」
老女が振り返りもせずに若者に告げる。
「私には……」
「もうお前にも、その荷物を捌くぐらいのことはできるだろ」
若者の独りごととも取れる言動を聞いて、中年の女は目を光らせた。
「お前さん、もしかして坊さんかい? 魔女が見えるのかい?」
「ええ、まぁ……」
「もしあの薄汚い魔女に会うことがあったら伝えておくれ。あたしらは、あいつが居なくなって迷惑しているんだってね」
勝手な言い分に気分を害しながらも、若者は荷をどうするべきか考えていた。
このまま放っておいた所で問題はないだろう……それに、手伝った所で何を言われるかわかったものではない。
しかし、老女の言動が気になり、荷をじっと眺めた。
(軽くなれ!)
念じた所で、荷の重さが変わったようには見えない。
適当なことを言われたのだろうか……けれど、老女があの状況でそういうことを言うとも思えなかった。
「なぁお前さん……きちんと伝えておくれよ」
耳障りな声が耳に届く。
それが聞こえないくらい精神を集中させ、荷に手を伸ばす。
……老女は常々なんて言っていたか。
「浮け」
静かに語りかけると、荷がひとりでに浮かび上がる。
小さく声をあげ驚く中年の女に、若者は厳しい口調で命じた。
「これが最後だ。もう彼女たちのことを口にするんじゃない」
そう言って、若者は二人の後を追って坂をのぼりはじめた。
「上出来だ」
老女が振り返りもせずに若者に告げた。
女の閉ざされた瞳から、涙が一筋零れおちた。
第七話 シュク
たどり着いたそこは、若者がかつて訪れた時とそう変わっていなかった。
老女はふん、と鼻を鳴らすと床に腰を下ろした。
「……で、どこにあるんですか?」
「忘れた」
「心当たりも?」
「ない」
それきり、老女は背筋を伸ばしてから横になった。
まるで、若者に探すように促しているようにも見える。
困り切った若者は、女に心当たりを聞いてみる。
けれど女は、心ここにあらずといった感じで、部屋の隅を見つめている。
そこはかつて若者が女を見つけた場所であり、彼女の手をとった場所でもあった。
女を座らせ、途方に暮れながらも若者は周囲を見回す。
どこまでも簡素に造られたそこは、腰まである大きさ木箱と膝くらいの大きさの葛籠しかなかった。
どちらも埃をかぶっていて、中身はほとんど入っていなかった。
若者は嘆息を吐いて、再び部屋を見回す。
すると、老女が思い出したように木箱を指差した。
「それをどけた下に、隠したような気がする」
若者が苦労して箱をどかすと、そこには小さな空間があり、彼女の言葉通り風呂敷に包まれた貨幣があった。
「帰るぞ……もうここに用はない」
先に出ていった老女を追い掛けるように、若者は女を立たせ、腕を組むようにして外に出る。
眩しい光と、うるさい蝉の声が、いつまでも残っているような錯覚に陥った。
第八話 コト
雨が降っていた。
ずぶ濡れになった若者がそこに入ると、薄暗い部屋の隅に女がうずくまっていた。
若者が声をかけると、女は救いを求めるように手を伸ばした。
「そんなわけで、心の疎通がものを言うわけだが……」
老女が言葉を切り、若者の頭を小突く。
大げさな身振りで若者が痛がると、女が心配そうに身じろぎをした。
「お前は何もわかっとらん」
老女が再び方法を説く。
言葉は制約ではあるが本質ではない。
すでにあの時より二人は繋がっているのだと。
「つながる……」
若者が女を見る。
相変わらず言葉を発しない女が、小さく頷きかける。
若者は小さく笑うと、女の手を取った。
二人、粘土のような造形の前で手をかざす。
魔女となった女は、襤褸になり、声を失っても、まだ魔女で在り続けた。
対価を得られないその行動は既に意義もなく、意地すらもなかった。
それなのに彼女がそこに居続けたのは、ある種の感傷であったのかもしれない。
若者と出会わなければ、彼女はそこで朽ちていただろう。
……ふっと、女の顔に陰りが差す。
自分は怖かったのだ。あの場所で過去の自分と対峙することが。
あの場所を捨てて、全てを受け入れてくれるこの人たちと一緒にいることに、女は罪の意識を覚えている。
「大丈夫?」
若者が女を心配そうに見ている。
……いつだって彼は、自分を見ていてくれた。
あの死んだように時の止まった牢獄からも、連れ出してくれた。
誰一人見向きもせず、代償だけを求めてきたのに……この人は、何も求めてこなかった。
笑顔で若者に頷きかけると、女は心を集中させて、再び作業に戻った。
第九話 ケイ
「おい、今すぐそいつを隠せ」
物思いに耽っていると、老女が突然声を上げた。
意味もわからず若者が驚いていると、老女が大きな葛籠を示す。
指示に従い、慌てて女をその中に隠すと同時に、外界との境界をなす扉が開いた。
光の先から2つの影が荒々しく入ってきた。
「久しぶりだな」
一つは大きな影、もう一つは小さな影であったが、小さい方はしわがれた老婆の声をしていた。
「会わないで済むなら、それにこしたことはないんだがな」
老女が目すら合わさずに嘆息した。
影と同じくらい大きな男が、鼻をくんくんと嗅ぎつけながら室内を物色していた。
それを片目に見つめながら、老女が苛立たしく歯ぎしりをしている。
「それで、何をしにきた? はよう帰れ」
「まぁそう言うなて」
ヒヒヒ、と口の端から笑いを零しながら、灰色の主と対照的に白を身にまとった老婆が部屋を見回した。
若者は葛籠の上に腰かけながら、事態の成り行きを見守っている。
鼻をひくつかせながら大男がその葛籠を見降ろした時は冷や汗を掻いたが、2人の注意は同時に別のものに向いた。
「これは何ぞや」
白衣が灰の老女に問いかける。
それは若者と女の結晶であり未完成の成果でもある。
手をかけようとする老婆を、言葉で静止した。
「それに触れるな。まだそれは形を為していない」
「これだけ輝く黄金にも関わらず、まだ完成していないと?」
「お前にわからぬはずがなかろう」
「けれど、これをそこの男一人で為したと?」
そんなわけあるか、と老女が笑う。
闖入者は若者をまじまじと見つめると、やがて興味を失ったように顔を背けた。
「では誰が?」
「今は此処に居ない誰かさ」
「……私はそんな禅問答をしに来たのではない」
「ならば、一ヶ月後にここに来るがいい。お前の望むものを、私が与えよう」
それを聞いた来客は、ニタリと嫌な笑みを残して去っていく。
薄暗い部屋にはぼう然とする若者と、苦い顔をしている老女が残された。
若者は女を葛籠から外に出すと、老女に来訪者の正体を聞いてみた。
「あれは……少なくともいい者ではないな……」
困ったように呟くと、悪いようにはしない、と若者と女の手のひらを撫でた。
それからすぐに、再び修練に励むよう促した。
迷いも邪年も全て除け、2人は再び深い瞑想の果てへと旅立っていった。
第十話 シ
夜明けの黎明の中で夢を見る。
それは過去の虚像か、はたまた幸せな未来か。
鳥の声が女を現実に引き戻す。
昨晩遅くに例の修練が終了し、眠り込んでしまっていたのだった。
老女がかぶせてくれたであろう毛布を剥いて、女が小さく笑みを浮かべる。
彼女の隣には、若者が眠っていたのだ。
この幸福感も、今の自分も、すべて若者がくれたもの。
耳元で小さく彼の名前を囁いた。
未だ声の出せない彼女には、口を動かし吐息を漏らすだけの仕草ではあったが、それでも若者は眠りながら微笑んだ。
鼻孔を優しく刺激する香りと、トントンと小気味よい音が響いている。
若者が目を覚ますと、女が朝餉の用意に取りかかっていた。
彼の前に昨晩の成果はない。
疑問に思い、女に老女の居場所を聞くと、女が満面の笑みで外を指さした。
……せっかくの渾身の作品を、あの者たちに与えてしまったのだろうか。
若者の頭を疑念が過る。
「あれらは魔女や精霊というよりも、神に近い。我らにも序列というものがあるのさ」
かつて老女は、頭まで被った羽織で表情を隠すようにそう告げた。
あれは一種の諦めだったのだろうか。
らしくない。
頭を振り、目が覚めるように深呼吸。
一歩外に踏み出すと、若者は思いがけないものを目にすることになった。
黄金のニワトリが2羽、それぞれ台座に乗って、その場を守護するように鎮座している。
朝日の下で見るそれは眩しいほどに輝き、若者の心に沁み入った。
ここ数カ月……昨晩遅くまで作りつづけた、女との努力の結晶。
それが陽の光を浴びて、燦然と降臨している様に感動すら覚える。
女の笑顔は、これを示していたのだろうか……。
自然と自らの口許にも笑みが浮かんでくる。
理由を聞こうと老女を探すが、見渡す限り彼女の姿はない。
名前を呼ぶわけにもいかないので、探し回っていると外階段の下方に老女の姿が見つかった。
「お前たちは協力して、見事その題を乗り越えた。
これからはそれを狛にして、新しい社を作るがよい」
抑揚のない声で、黒を纏った老女が告げる。
それは若者の高揚した気分を落とすには十分すぎるものだった。
「彼女を養うのは、力が戻るまでという約束であったろう」
有無を言わさぬ老女のようすに、若者は困惑する。
女を一人放り出すことはできない。すでにそれだけの絆ができてしまっている。
それに……それがなくても老女とて若者が女を一人外に放り出すとは考えていないだろう。
女を連れて来いという老女の言葉を聞いて、若者は神妙な顔をして女を迎えに行く。
彼の顔色を見て、女もただ事ではない雰囲気を感じたのか、不安そうな顔をしながら老女の前にたどり着く。
「一人前になったお前を、ここは最早受け入れることはできない」
老女が再び、冷たく言い放つ。
女は悲しそうにコクリと、小さく首を縦に振った。
それは節理であり束縛なのであろう。
彼女たちはそういう存在なのだ。
「だから……こうするのさ……」
そう言って老女が左手にあった大岩に手をかざす。
そこに書かれていた『佐和神社』という文字が光に包まれたかと思うと『比賣神社』へと文字が書き変わった。
「これは……?」
「……これでいい。
これで、この社はお前たちのものだ。
そうすれば、私のした約束も破棄されて、あの鶏も、お前たちのものになろう?」
そう言って、まるで今までの神妙な空気が嘘だったかのように、老女が軽快に笑う。
狐につままれたような顔をしている2人に、老女がさらに告げる。
「常々言っておろう。人を簡単に信用するものじゃない、とな」
段々と事情を飲み込めてきたのか、若者と女の顔にも安堵の笑みが浮かび上がってくる。
そして、顔を見合わせて心の底から笑い声を上げた。