後編
パシャン
その水音に、神が来たのだと覚悟し、ノエルの心臓が一気には跳ねた。
「はあーい。何やってんの?」
水面から顔を出したのは、綺麗な女性だった。ゆるくウェーブのかかったゴールドブロンドといい、白くほっそりとした手足。そして、たおやかなイメージを覆す、青い、意志の強い瞳。
「いや~ん。こんなとこに縛られちゃって、倒錯趣味? まだ若いのにもったいな~い」
顔に似合わぬ軽い口調に気圧されるノエル。
「きみは誰? いや、村人なのに裏切って大丈夫?」
ノエルを縛る荒縄をいじっていた彼女が、はにゃ?と首を傾げた。
「違うわよぉ。アタシは、ほら、コレ」
彼女は自分の隣にぱしゃっと出た魚の尾鰭を示す。かなり大きなそれに、ノエルの頭の中が白くなった。
「え……、あれ? でも……」
魚のしっぽ+人間=?
常識ある人間には分かりたくない数式の答え。
「人魚よ、アタシ。ミリアっていうの。よろしく」
常識の壁はあっさり崩れた。
「……あ、うん。僕はノエル。よろしく」
(人魚……は、海神じゃないよねぇ?)
「それで、こんなとこで女装して、縛られて、何やってんの?」
「ちがーう! 僕を変態みたいな目で見ないでよ! 好きでやってるんじゃないんだからっ!」
わたわたと事情を話すノエルに頷きながら、人魚ミリアの目は険しくなっていった。
「その海の神様って、どんな外見だか分かる?」
「うーん。何か話す人によって水神様とか海坊主だとかよく分かんないことになってたけど、詳しくは聞いてない」
「……むぅ。でも、アイツっぽいのよねぇ」
「アイツって誰! 知ってる人?」
藁にもすがる思いで、ノエルがミリアに迫る。といっても、縛られたままで動けないが。
「アイツとは会いたくないから、アタシ、帰るわね。大丈夫、アイツなら女と間違えてくれるわよ」
ミリアは、うんうん、と一人で納得して、帰ろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ! せめて、そのアイツのことを少しでも教えて! 何とか対策考えなきゃ……。僕は生け贄なんてゴメンなんだから!」
「……まぁ、しょうがないわね」
ミリアは渋々と話し出した。
――――アイツは魚人なんだけど、あ、魚人っていうのは、人っぽい魚って言うのかな。アタシみたいに半人半魚っていうわけでもなくてね。全身に鱗が生えた感じ? で、その魚人の中でもブ男なのよ。それが何をとち狂ったのか、アタシにコナかけてきてさ。挙げ句の果てに付き合って下さいってダサーい告白してきたのよ。アタシはもちろんフってやったんだけどさ。まだ付きまとってきてね。もうアタシの前に姿見せないでって行って、しばらく見ないなーって思ってたんだけど――――
「……まさか、こんなところで憂さ晴らししてたとはねぇ」
ふぅ、やれやれ、と事情を説明したミリアが首を振った。
「……」
「もしもーし? ノエル君?」
うつむいて黙ったままのノエルに、ミリアはおそるおそる声をかけた。
「ちょっと待て」
怒りを含んだ声。
「ってことは、君に振られた海坊主が腹いせにとった行動が村の人に迷惑かけて、そのとばっちりで僕がここに縛られてるわけ? 冗談じゃないっ!」
憤るまま、荒縄で縛られた腕をぐいぐいっと動かし、とうとう腕を引っこ抜く。縄の食い込んだ痕が痛々しい。
「……原因の一端として、協力してくれるよね? もちろん」
ノエルは海から上半身を出したミリアの肩をぐっと掴んだ。肯定しか認めない目つきだ。
「え……、でも、直接会うのはマズいワケで」
しどろもどろになるミリアを、ノエルはじっと見つめる。
「じゃ、直接会わなければいいんだね?」
その迫力の前には、拒否することなどできなかった。
◇ ◆ ◇
「はぁ。ちょっと寒くなってきたなぁ」
陽も沈み、顔を見せた満月の下、意外と明るい舟岩の上で、ミリアに縄を解いてもらったノエルが座っていた。
「まったく、あの漁師さん達も、どーゆーセンスしてるんだか。こんなスケスケのフリフリのもの着せるなんて……」
(せめて白装束だったら寒くはなかったのに)
そんなことを思いながら、足を海につけてみる。意外とあたたかい。潮風の強い岩の上に比べると、断然こちらの方が温かかった。
「満月も、こんなに綺麗だとかえって怖いかもなぁ」
「……なかなか、よいことを言うではないか、娘よ」
ノエルは身を小さくして肩を抱いた。その腕には鳥肌が立っている。後ろから響いたその声の主は、もはや間違いないだろう。
「あなたが、海神様?」
(どーか、男だってバレませんよーに!)
出来るだけか細い声を出し、女のフリをするノエル。
「……そうだ。お前が私の元へ来るのなら、海の恵みは失われまい。さぁ、私の手を取るがいい」
ノエルは声に従い、ゆっくりと後ろを振り返った。
「!」
目の前にそびえ立つその姿に、ノエルは自分が卒倒してしまうかと思った。
その上半身だけで軽くノエルの身の丈を越え、その全身には、月明かりにてらてらとぬめ光る鱗がびっしりと生えている。目は、魚のようにぎょろりとしていて、首の辺りに魚の鰭のようなものが生えていた。
「……」
差し出された手は鋭い爪が光り、指の間に水掻きが見える。
「――――はい」
ミリアはわざと自分の手を震えさせ、緩慢な動作で相手の方にのばす。
ぱしゃん
大きな水音が波の音に紛れて響いた。
「あっ……!」
伸ばしていた手を口元に当て、ノエルは驚いた声をあげた。
「どうした……?」
「今、……その、向こうに人魚が……」
内心、オエ~っと思いつつ、ノエルは女言葉を操る。水音の主はもちろんミリアだ。
「人魚だと……?」
顔が顔なのでよくは分からないが、複雑な表情で聞き返してくる。
「実は……ここでお待ちしている間に、美しい人魚の方とお話をしていたのです。名前は、確か……そう、ミリアと」
「お前はここで待っていろ!」
血相を変えて海に飛び込む魚人を、ほくそ笑んで見送ったノエルは、しゃがんでやや大きめの石を拾った。彼に当てようというのだろうか?
ぱしゃん、ぱしゃんと誘うように水音をさせるミリアに軽く手をふって合図を送ると、ミリアとはやや離れた方向にその石を投げた。
「あ、あちらに!」
わざわざ魚人に声をかける。そんなことを繰り返して別方向に魚人を誘導している間に、ミリアが舟岩に戻ってきた。
「さ、行くわよ」
水音を立てないように海の中へ身体をすべりこませたノエルは、ミリアに手を引かれるままに岩から離れる。
どれくらい離れただろうか。ノエルの後方で轟くような声が響いた。
「おい、どっちに……娘! どこに行った!」
逃げられたと気づいた魚人はグオオッと低く唸り声をあげた。
「娘! 私を裏切るのであればそれでよい! だが、大波がお前の村を襲うことになるぞ!」
その声にノエルはぎょっとして振り返った。
「それは……だめだ!」
「何言ってるのよ。ノエル君はその村の人に騙されたんでしょ?」
「だけど……、基本的にはなんの罪もないのに……」
「でも、だからってい生け贄になるっていうの?」
ミリアは信じられないという顔をした。
「でも、ごめん! やっぱ僕は戻るよ!」
「……待ちなさいよ。ちょっと待ってて」
ミリアはノエルを支えていた手を放し、海の底に潜っていった。
ほどなく戻ってきた彼女は二匹のタコを手に持っていた。
「これをね……」
言われてノエルは思わず、自分の胸を見た。水を含んだ布が体の線を明らかにしている。さすがにぺったんこなのはマズいだろう。
◇ ◆ ◇
「待って! 待って下さい、海神さま!」
ノエルは大声をあげた。なんとしてでも、大波だけは防がなくてはならない。
「私は戻ります! ですから、怒りをお鎮めください!」
声を聞いた魚人がそこにいたのか、と泳いでくる。と、彼の目がノエルの隣にいるミリアを見つけた。
「おぉ! 我が愛しのミリア! お前もそこにいたのか!」
ざぶざぶと波を立てて近づいてくる魚人。ノエルはあっと言う間にアウトオブ眼中になった。
「アタシはあんたなんかに会いたくなかったわ、キョス」
心底イヤそうな顔をしたミリアはふい、とそっぽを向いた。
「つれない言葉もまたかわいらしい。こんなところで出会うとは、まるで運命がオレ達を引き寄せたかのようではないか!」
大仰な動作で感情を表すキョスという名の魚人に、ノエルは心の中で舌を出した。
「うるさいわね。アタシにフられたからって、こんなとこで人間おどしてるような卑怯なやつなんて大嫌いよ」
ミリアはノエルを押しだし、くるりと向きを変えて泳ぎ去る。
残ったキョスはふるふると震えながら、うつむいている。
(うっわー、いごごちわる~い)
なんと声をかけたらよいか分からず、海に浮かぶノエル。立ち泳ぎもそろそろツラくなってきた。
「……あの、海神様……?」
声をかけた途端、魚人の手がノエルの身体を掴んだ。その衝撃に胸に入れたタコが墨を吐いてしまうのではないかとドキッとしたが、タコの方はなんとか堪えたようだ。
「娘よ……」
先程までの口調をガラリと変え、海神モードになったキョスが低い声を出した。
「お前は、私のそばにいてくれるな? 裏切らぬな?」
(なぁにが、「私」だ。さっきまで「オレ」って言ってたくせに)
悪態はつくものの、ぎょろりとした気味悪い目に見つめられ、ノエルの身体がすくむ。
「……はい。ですが、お願いがあります」
「なんだ? 言うてみよ」
「私は一度、高いところから海を見てみたいのです。夜とはいえ、月や星々を映す海はさぞや綺麗でしょう。ですから、海神様の頭に私を乗せてくださいませ」
声を高く細く、ノエルは震えるような声でお願いをした。涙に潤んだ瞳で上目遣いに相手を見上げる。
一方、キョスの方は何となく声が太いような気がして、まじまじと娘を見た。だが、胸のふくらみを確認して、その疑惑もすぐに解ける。
「よいだろう。しっかりつかまっておれよ」
キョスは両手でノエルを掲げて首の後ろに置いた。ちょうど肩車のようになったノエルは、想像以上の高さに本気で震えた。
「あぁ……なんて、綺麗なんでしょう……」
感嘆の声を上げながら、ノエルは自分の胸に手をやった。服の下にいるタコをつかみ、出番だとばかりに頭の鰭の下に押しつける。
「うっ……!」
小さくうめき声を上げたキョスに、さらにもう一つの胸の膨らみを取り出し、押しつける。
「こ、これは……、娘! お前、何を……」
慌てた様子のキョスの声がだんだん小さくなっていく。そして、次の瞬間、大音響が響いた。
「うわぁーんっ!」
キョスの大きな手がその異物を取り除こうと首の後ろにのびる、それに潰されてはかなわない、とそれをかわした。が、バランスを崩して肩からすべ滑り落ちる。
バッシャーン
海に叩きつけられ、一瞬、ノエルの意識の遠ざかった。その身体が海の底に沈んでいく。
(……やば……)
気づいて手足を動かすが、思うように浮き上がれない。
息も苦しくなり、もうだめか、と思い始めた時、ノエルの目に救世主のようにミリアが映った。
ミリアはノエルを抱えて水面まで一気に上がる。
「きゅうばんはいや―――っ! いやや、いややねん! 誰かとってーっ!」
まるで子供のような泣き声が夜の海に響きわたっていた。ノエルはその大声に顔をしかめる。
「もう、いけにえは諦めるなら取ってあげるわよ!」
ミリアが叱りつけるように怒鳴った。
「やらん! やらんから、早くとってよ――っ!」
身の丈三メートルはあろうかという魚人の泣き声。この声はあの村にも届いたに違いない。
◇ ◆ ◇
「じゃ、ここでお別れね」
舟岩に一番近い岸辺。ミリアとキョスに送られて、ノエルはようやく土の上に立った。満月はまだ空にあり、朝はまだ遠い時間だ。
「ちゃんと村の人には謝罪させるのよ」
「……うん、大丈夫。荷物も返してもらわなきゃなんないし。せいぜい脅しとくよ」
「ほら、キョスもちゃんと謝んなさい」
ミリアにせっつかれて、キョスは渋々と頭を下げた。ノエルが女でないと知った途端、態度ががらり、と変わったのだ。
「すまなかったな」
ぼそりとそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
「あ、ちょっと、待ちなさいよ」
ミリアの制止の声も聞かずに、キョスは去っていく。
「ごめんね。どうも、ライバルだと思ってるみたい」
ミリアは肩をすくめて笑った。
「じゃ、これからアイツを送っていくから。ノエル君も気をつけてね。もう、女に間違われちゃダメよ?」
冗談めかして笑うとミリアもぱしゃん、と海に潜った。
(なーんか、ミリアもキョスをほっとけないみたいだな)
まさかね、と呟きながら、ノエルは集落に向かって歩き出した。濡れたこの服が潮風に吹かれて体温を奪っていく。早く戻らなければ。
「さぁって、どうやって脅してやろうかな」
人の悪い笑みを浮かべながら、ノエルの頭ではいくつかのシミュレーションが浮かんでいた。
◇ ◆ ◇
海から轟いてきた叫び声に、村人は目を覚まし、集落の海岸沿いに集まっていた。叫び声とは、もちろん、タコの吸盤のおかげでキョスが発した泣き声なのだが。
村に戻ったノエルは英雄のように扱われ、なけなしの村の蓄えをもらって数日後に村を後にした。
村に残ったのは、海の恵み。そして、伝説。
伝説には、村から海の恵みを取り上げ、生け贄を要求した海坊主に、旅の途中で通りかかった若者が志願して、女装して騙し討ちをし、見事、海坊主を退治したとある。 そう、『自ら退治に赴いた』とある。
真実は当事者達と……舟岩だけが知っている。
読了ありがとうございました。
実はとても残念な海神様でした。オチはちょっとアレ過ぎましたかね?
こっそりつけていた仮タイトルは「漁村イケニエ事件~舟岩は見ていた~」という2時間サスペンス風なものでした。
……今からでも、こっちに変えた方がいいでしょうか?