〜狂気覚醒〜
今でも思い出す。何度も忘れようとするが、俺の中の狂気がそれを許しはしない。むしろそれは一層大きくなり俺を漆黒の輪廻へと誘う。まるで逃がしはしないと言うように、重く冷たい鎖で俺を絡めとる。身動き出来ない俺を、狂気はまだまだ足りないと言わんばかりにさらに奥深くへと俺を引きずり込む。
闇の最深部で俺を迎えたのは紛れもない俺自身だった。俺は真っ黒なコートに身を包み身の丈ほどの鉄板を握り絞めていた。巨大な剣のようにも見てとれるそれは所々錆びていて、より一層重量感を演出している。よく見ればそれは血のような赤い液体で濡れているが暗くてよく分からない。だがふと顔を上げたもう一人の俺の顔を見て俺はそれが何かの返り血だと悟った。血飛沫を顔に浴びた俺の顔は本当に自分のそれかと疑うほど不気味な笑顔を浮かべていた。
突如そいつの背後がうっすらと明るくなったかと思うとそこには何やら無数の黒い物体が山積みにされていた。一面に山積みにされたそれが何か確認しようと目を細めた俺はその正体を見定めると、込み上げてきたものを足元にぶちまけた。
むせ返る俺の口には酸の味だけが残り、胃袋をひっくり返したように腹は空っぽになった。涙を浮かべ、咳込みながらも山積みにされたそれを確認するべく再び目を戻した。
ヒトだった。だが、ただ一つとして本来の原形を留めてはいなかった。山の大きさからして百人や二百人どころではない。どれもが無理矢理断ち切られたように身体の節々を引きちぎられていた。こいつが、この男がこの巨鉄板でこれだけの人々を殺めたのか。憎悪と恐怖の入り交じった俺の顔を男が笑みを浮かべながら覗き込んだ。
「よう。どうした?お気に召さないようだな。気に入ってくれると思ったんだが」
いかにも残念そうに男はうなだれた。なんとか恐怖を押し殺して精一杯の強がりを男にぶつけた。
「何言ってんだアンタ、狂ってるぞ。気に召したかだと?俺はアンタみたいな気違いじゃない。よくもこんなことを」
「ハ!言ってくれるな!分からないのか?俺はお前だ。この光景を望んだのも造り出したのも!紛れもないその手だろ!」
何言ってんだよ。訳分かんねぇ。有り得ねぇだろ。俺がやった?違う、やったのは俺の姿をしたコイツで俺じゃない。俺じゃあない。夢だ。そうに決まってる。
そう自分に言い聞かせこの異様な光景を拒絶する。この場から抜け出そうと力を込めるが鎖はビクとも動かない。
「なるほど?そうやってまた仕舞い込んで置き去りにする気か。全部俺になすり付けて。だったら思い出させてやるよ」
男が血に濡れた右腕で俺の顔を鷲掴みにしたかと思うといきなり男の体が溶け出した。
声にならない声を上げて必死に束縛を解こうとあがくがビクともしない。
そうこうしているうちに男の溶けた手が、俺の目から、口から、耳から入り込んできた。喉の奥で悲鳴が上げるが、侵食してくる腕が勢いよく喉に流れ込む。人一人分が液体となって器官に流れ込むのだ。その苦痛はこの世のものではない。逃げ場などない。身動きできない俺に容赦なく男の全てが流れ込む。あまりの激痛に俺の意識はやがて薄らいでいった。
すでに男の半身が体内に流れ込んだが体は膨らむこともなく、ただひたすら男の全てを受け入れる。もはや意識はなく、絶え間なく体がビクビクと痙攣してるだけだった。ついに男の体が彼の中へと消え去ると、彼を拘束していた鎖も自ら彼を解放した。
ゆっくりと顔面から地面に倒れ込むとそれきり彼は動かなくなった。辺りは沈黙に包まれたが彼の中ではひたすら男の声が木霊していた。
気分はどうだ?爽快だろう。全てを取り戻したんだからな。そう怯えるな。本来の形に戻っただけだ。もうお前は逃げられない。どれだけ自分を偽ろうがお前は俺だ。理解しろ。そして立ち上がれ。何よりもお前がお前で在るために。
男の手がピクリと動いた。まだショックが残ってるのか、ガクガクと震える手足を無理矢理地面に突き立て起き上がろうとする。傍らの巨鉄板の柄を掴み、それをついてなんとか奮い立つ。顔を上げた男の顔はさっきとはまるで別人だ。不適な笑みを浮かべる男の眼差しは狂気に満ちていた。
足元の鎖を拾い上げると担いだ巨鉄板を我が身に縛りつけた。今そこに立っているのは先の男ではない。あまりに人であり、そしてあまりに人ではない存在、狂気の悪魔がこの世に降り立った。