9.再編集
※ご注意 不快に思われたかたは、お読みにならないでください※
「“光あれ”」
神はその巻物をご覧になられながらつぶやかれた。
「すると輝ける光が天より現れ、それまで暗黒に包まれていた世界を照らした。神は光を昼と名付け、闇を夜とお呼びになり、これを天地創造の第一日目の仕事となさった。……うむ」
神はお手にとった巻物をしばらくの間見つめられ、そしておっしゃった。
「なかなか良く出来ているではないか」
「…………」
その神のご様子に、神の御前にひざまずいていた大天使長たちは、おたがいにそっと顔を見合わせた。何やら神のご様子をうかがっている様な顔をして。
(よかったぁ)
神のお顔を上目使いでながめ見ながら、大天使長のうちの一人、ルシフェルは思わずつぶやき、胸をなでおろした。
(なんとかお気に召された……)
(こらっ!)
そのルシフェルの横腹を、となりのミカエルが肘で小突いた。それにルシフェルは、あわててしゃんと背筋をのばした。
「うむ」
彼等二人の事にはお気づきではないご様子で、神は再びおっしゃられた。
「まあ人間たちが作ったにしては、上出来だと言ってやらなければなるまい。だいたいのところはこれで良いだろう。しいて言えば……なんだな、モーセのところが少し引っかかるかな」
神は当時の事を思い出されながらおっしゃった。
「モーセにやったあの十戒は、私からわざわざ用意して与えてやったものではない。あれはシナイ山から下りる途中、転んで私の言った事を忘れてまた聞きに戻って来たから、仕方なく石版に刻んでやったのだ。……しかし、ノアの事は知らなんだな。そうか、大洪水のあと、あれは少々……だったのか。どうりで時々話しかけてやるたび、わけのわからぬ返事をしたわけだ。年寄りに大雨の大災害など、少しきつい事をしてしまったかな。可哀想な事をしてしまったのかもしれぬ。あの真面目なノアが、酔っぱらったあげく、家族の前で、素っ裸で眠ってしまうとは。あと……ソロモンの望みを聞いてやった時、あれはこんな謙虚な事は言わんかったぞ。シバのあのはねっかえり女王との事も知らなんだな。しかし……まあ、いい。これはこれで……」
神はお手にされている巻物をご覧になられながら、何度かうなずかれた。
(…………)
神の御様子に、大天使長たちは全員、ひとまずほっと安心した。が、それも束の間、次に神がおっしゃられたお言葉で、大天使長たちの顔色は、また青くなった。
「で、これから以降の巻はいつまとまると、人間たちは言っているのかな?人間たちが私との事を記した“聖書”というものは、まだまだ続くのであろう?」
「まったく、どうして私がっ!」
私室に引きこもり、机の前でルシフェルは髪を搔きむしって嘆いた。
「ああっ!」
彼は純白の衣の胸元を掴み、椅子の背にもたれてふんぞりかえった。そしてそのままぐらりとよろけて、大きな音をたてて椅子もろとも床にひっくりかえってしまった。
「あいたたたっ……!」
あちこちをしたたか打ちつけ、目に涙を浮かべた、なさけない顔で彼は起き上がった。
「ど、どうして私ばかりが……」
ひいひいと泣き声をあげながら、背中をさする。
「まあ、ルシフェル」
部屋中に響いた彼の転んだ音に、隣室にいた彼の妻が、顔をのぞかせて言った。彼女は倒れた椅子を起こし、床に座り込んでいるルシフェルに手をかした。
「リリス」
その彼女に、ルシフェルは嘆いた。
「おまえからも何とか、他の者に言ってくれよ」
「大変な事を引き受けてしまいましたねえ」
リリス(実を言えば、彼女は最初、人間のアダムの妻として神がおつくりになられたのだが、しかし、思ったよりも出来がよかったため、神は彼女をアダムに与えるのが惜しくなられて、彼女は天界に置いたままにしておき、代わりにイヴをアダムの元にやったのだ)はため息まじりに言いながら、夫の机の上に散乱している羊皮紙を眺めた。
羊皮紙に書かれている文字は、みなルシフェルの字であった。
今日、神がご覧になった、あの巻物の字も。
「あれが」
ルシフェルは机の上のものを見上げ、鼻をすすりながら言った。
「下界の人間たちがまとめたものではなく、人間たちが書いたものを私が書き直したものだという事に、神がお気づきになったらどうしよう。いや、全能なるあのお方の事だ、私たちの事なぞ、とうに御存知なのかもしれない。ただ、それを幼子の悪戲を見逃す様に、御承知の上で何もおっしゃらないのかもしれない。……おお、我が主よ、罪深い我等を……」
ルシフェルは手を組み、懺悔をはじめた。その彼に、リリスはただため息をつくばかりであった。
事の起こりは、つい一週間程前の昼下がり、いつもの様に人間たちの様子はどうかと眺めておられた神が、ふと大天使長たちにお聞きになられた事からはじまった。
「近頃人間たちは、私と自分たちの間にあった出来事を“聖書”とかいうものにしているらしいな。お前たちも、その事は知っているだろう?いったいどういうものなのだろうか?あまりおかしな事を後世に伝えられては、私としても困るな。一度その“聖書”とやらを私にも見せてくれるよう、人間たちに伝えておいてくれ」
と、いうわけで、大天使長たちは、その神の御言葉を人間たちに伝え、そして人間たちが記したものを天界に持ち帰りはしたのだが……
その内容はひどい出来のものであった。
アダムとイヴが失楽園の憂き目に遇って以来、どの時代でもさんざんに神のお叱りを受けているにもかかわらず、人間たちは依然として懲りてはおらず、相変わらず利己的、自己中心的なままであるらしかった。
「こ、これでは人間たちは今度こそ滅ぼされてしまう」
神の御気性をよくわかっている大天使長たちは、人間たちの“聖書”を読むなり、たがいに顔を見合せ、青ざめた。
「なんとかしなければ」
下界の人間たちを相手にする事は、何といっても大天使長たちのいい退屈しのぎになっていたため、彼等はその人間たちを無くしてなるものかと思ったのであった。
彼等も人間たちと同じくいたって利己的で(何しろ両者とも、同じくいたって利己的な神に造られた存在のため)、いつもは互いにいさかいばかりを起こしてはいたが、自分たちの楽しみを守るためとあっては二の句もなく一致団結して、額を集めて嘆かわしい悪知恵を出し合ったのであった。
そしてその結果、人間たちの書き記したものを元にして、神が御立腹になるようなところを書き直し、神の御前にさしだそうという事になった。
が、神が天地を創造なさってから現在(その時下界は、紀元前200年頃に入ったところだった)にいたるまでの長い長いこの物語を、いったい誰が手直しするのか、というところで大天使長たちはもめだし(書き直しを数人でばらばらに分担しては、途中でつじつまのあわないところが出てくるのではないかと、彼等は思った)、そこで……
その役目がルシフェルに当たってしまったのだった。
ルシフェル、ミカエル、ラファエル、ガブリエル、サマエル、の五人の大天使長たちのうち、誰がその役目を負うのか、と決める時、ルシフェルは負けてしまったのである。
ジャンケンに。
五人のうちで、どういうわけか前々からルシフェルは勝負運と要領が一番悪くて不器用で、何をしてもいつも負けてばかりいた。他の四人はそれを知っていて、わざとジャンケンで決める事にしたのだった。
ルシフェルは羊皮紙の山に囲まれて、一週間で(そのうち最後の三日間は連日徹夜で)ようやく書き直した。そして今日、目の下にくまをこしらえた、憔悴しきったおももちで再編集後の“聖書”を神にお渡ししたわけだが……神は早や続きの御催促をなさり、次の手直しもまたルシフェルがする事になってしまったのである。
ルシフェルは次の編集者を決める時に、自分はもうはずしてくれるべきだ、と主張したのだが、他の四人は承知してはくれなかった。そして……彼はまた負けてしまったのである。
今度はアミダくじに。
が、それは後でわかった事だが、そのアミダくじはイカサマであった。実はどれをひいても、“アタリ”となる様になっていたのである(前回の書き直しをしたぶん、優先的に一番はじめに場所を決めさせてやるとミカエルはルシフェルに言い、ルシフェルは喜々として自分の好きな場所を指した。そしてくじ引きの一番最初にいきなりルシフェルが“アタリ”になってしまい、後で屑籠に捨てられていたアミダ図を見て、ルシフェルはその事に気づいた)。しかしそれに気づいた時には、すでに他の四人は巻物の山をルシフェルに押しつけて、そそくさと立ち去った後であった。
「あああっ!」
巻物の山の中で、ルシフェルを頭を抱えてわめいた。
「また徹夜でもしないと間に合わないっ!」
しかしルシフェルはすでに三日の徹夜をしていたため、右腕はもうほとんど棒の様で、鈍い痛みが背中にまで這い上って来ていて、頭の中も、もうわけのわからないものになっていた。
「な、なんで私が」
心配顔のリリスが見守るなか、ルシフェルは叫んだ。
「なんで私がっ!」
彼の声は静かな天界の片隅に、むなしく響きわたった。
それから六日後。
「うむ」
大天使長たちの前で、神はおっしゃった。
「まあ、なかなか良く出来ているようだな」
御手の巻物を御覧になられながら、何度か神はうなずかれた。
「しいて言えば……」
その神の御前で、ルシフェルは数日前からもっとひどくなってしまったくまを目の下にうかべ、すっかり青ざめた顔で、今にもその場に倒れ込んでしまいそうな気分を我慢して立っていた。
(これでやっと終わった)
目の前で、自分の書いた巻物を御覧になられながら、何かおっしゃっておられる神の御声も、彼の耳にはほとんど届いてはいなかった。ルシフェルには、もう自分が起きていのるか、それともやけにリアルな夢でも見ているのか、区別がつかなくなっていた。
(これでやっと眠れる)
ともすれば、コクリとやってしまいそうな自分の頭を、懸命にまっすぐに立てておこうとする。
頭の中はすでに夢心地だが、彼の手先は羽ペンを持っていた格好のままこわばってしまい、腕はもう血の通わない棒切れの様で、そして肩にはまるで漬物石でも乗せられ、背には鉄板でも負わされているかの様だった。
『おお、ルシフェル、我々に代わってよくやってくれた。我が兄弟よ』
今日、ルシフェルがなんとか書き終える事の出来た巻物をかかえ、よたよたと神がお住まいになっておられる神殿の前へとやって来た時、そこには四人の大天使長たちが待ち構えていた。
『本当にご苦労だった』
『寝食を忘れて作業に徹してくれたそうだな。ああ、可哀想に、こんなにやつれてしまって』
『いや本当に』
『人間たちからあずかってきた元の物は、我々が安全な所に隠してきたからね。心配いらないよ』
『さ、我々も持ってあげよう』
そう言うや……ルシフェルに作業を押しつけた四人は、彼の腕から巻物をひったくるようにして、そそくさと先に神殿へと入って行った。
(…………)
ルシフェルは呆然とその彼等四人の後ろ姿を見つめていたが、そこでふと一人取り残されている自分に気づき、そして思ってしまった。
(地獄にでも直ちろ、この堕天使ども!)
おそれおおくも神のお住まいの前で。
いみじくも神の使いたる身分でありながら。が、それと同時に、彼の肩から背にかけて何かどっとしたものが覆いかぶさり、彼は思わず大きな深呼吸をひとつして、肩を落とした。
(やっと終わった)
彼は思った。
熱い風呂にゆっくりと浸かったら、少しはマシになるだろうか?とにかく今日は帰ったら、風呂に入りながらリリスに肩や腕を揉んでもらって、すぐに寝てしまおう……などと、ルシフェルは神の御前に立つ前から、その事ばかりを考えていた。
「……とは言っても、まあ、これはこれでなかなかなものだな、うん。しかし、おおかたヘブライ語で書かれているのだから、一部アラム語になっているところも、ヘブライ語に書き直した方がいいだろうな。まあ、それはたいした事ではないが……」
そのルシフェルをよそに、神はおっしゃられた。
「で、一応この“聖書”はこれで終りなのかな?」
「はい、神よ」
神の御言葉に、ラファエルは言った。
「そうか」
神は御自分の前に積まれた、全巻で何十となった“聖書”の巻物をうなずきながら、ながめられた。そして、
「しかし……」
神はふと何かを思い出された御様子で、再びおっしゃられた。
「私が今まで目を通したのは、人間たちの間では、“旧約聖書”と言われておるものの様だな?たしか、これより少し後の年代に、これの他に、もうひとつ、“新約聖書”とかいうものも記しはじめられる様になったのだったか……あの、大工のせがれが、私の事を他の者たちに語りながら、弟子たちと共に旅をした事をまとめたものだとかいう……」
(ああ、眠い)
ルシフェルはすんでのところで、前に倒れ込みそうになるのを踏みとどまった。いくら目を開けていようと努力しても、瞼の方がどうしてもいう事をきいてくれない。いや、瞼だけではない。彼の思考も、身体も。
(もう駄目だ)
彼は神が早くお話を終わって下さらないかと思った。そしてまたもや、ぐらりとよろける。
(ああ、頭が)
彼の頭の中は、もう真っ白になりつつあった。
「ただの言い伝えとしてではなく、個人の目を通して書かれたものだとすれば、よけいに私についての事を……」
神のおっしゃる御言葉が、もううんと遠くから聞こえてきている様に、頭の中で響いていた。
(ああ、もう)
「だとすれば、それもあまりおかしな話を後世に伝える様な事になっては」
神の御前に立ちながら、神の国はむしろ自分の頭の中にあるような気分となってきて、
(駄目だ……)
ふらり、とよろけ、
「だからまた人間たちに……」
ドサリ、とルシフェルは倒れた。
が、倒れ込んだ本人は、自分が立ち寝入りで神の御前に転がったあげく、そのまま大いびきをかいて眠り込んでしまったなどと、他の四人の大天使長たちがいくらゆすってもたたいても、もう目を覚ましはしなかったなどと、その時彼は全く気づきもしなかった。
ご自分がお話しになっておられるなか、遙か彼方の自分の中の楽園へと飛んでいってしまったそのルシフェルを、神は当然ながらたいそうお怒りになられて、ルシフェルに“旧約聖書”と“新約聖書”の中で記されてる出来事の、各時代の時点へと飛んでゆき、それぞれ詳しく事実を調べたうえ、神の御意志にそぐわないところを修正し、写本しなおして、人間たちに広める事を御命じになられた。
1947年、山羊を探しに死海近くのある岩穴の中へと入った山羊飼いの若者が、その中で、瓶に詰められたぼろぼろになった古い巻物を見つけた。
山羊飼いは、それが一体何を記してあるものなのかさっぱりわからないまま、町の古物商へと売りつけたが……
古物商からその巻物の一部を手に入れ、判読した学者たちは、一同に顔色を変えた。
それは既知のどれよりも古い、旧約聖書の写本であったので。
“死海写本”
“死海文書”
後に学者たちにそう呼ばれる事になった、少なくとも二千年前頃に記されたと推定されるその古い写本の発見は、二十世紀最大の考古学的発見とされている。
が、
一体どこの誰が、どういった理由で、それらの巻物を岩山の穴の奥深くに隠したのかは今となってはわからない。それらが記された頃、ローマの圧迫に苦しみながらも、死海のほとりの洞窟にたてこもりながら、純粋な信仰を守ろうとした人々の一派が残したものかもしれない、などと推測されてはいるのだが――




