国家の英雄に嫁いだら白い結婚でしたが、亡き前妻(幽霊)のコーチで溺愛されるようになりました
「結婚が決まったぞ! 相手は国家の英雄だ」
モルラッキ子爵が屋敷に戻るなり、興奮した声を上げた。
娘のミネルヴァは、その言葉を聞いた瞬間、あ然と立ち尽くした。父が政略結婚を進めていることは知っていた。だが、その相手があの伝説の英雄だとは、にわかには信じられなかった。
ミネルヴァが七歳になった年、父に連れられて初めて闘技場を訪れた。満員の観客席が、ある男の登場と同時に割れるような歓声に包まれた。地響きのような轟きが空気を震わせ、鼓膜が痛いほど揺れた。隣に立つ父が何か言っているのに、声がまったく聞こえなかった。
それでもミネルヴァの視線は、闘技場に現れたその男だけを追い続けた。
鎧の上からでも筋肉量が尋常でないとわかる偉丈夫。身長二メートル三十の巨体でありながら、その動きは豹のように素早かった。
試合が始まると、対戦相手の剣先を軽々と躱し、相手の息が上がったところを見計らって大剣を打ち下ろした。
──ゴキッ!
相手の剣が叩き折られた。腰を抜かした対戦相手が命乞いをすると、観客席から「殺せ!」「首を切れ!」と殺伐とした声援が飛んだ。
しかし英雄は、右手をそっと差し出した。口元には笑みが浮かんでいた。立ち上がらせた対戦相手を残し、英雄は黙ってその場を去った。その背中を目で追いながら、七歳のミネルヴァは全身に鳥肌が立つのを感じた。以来、ずっとファンであり続けた。
まさか二十歳になって、その国家の英雄と結婚式を挙げることになるとは夢にも思わなかった。
結婚式当日、初めて対面した彼の背の高さは、想像を超えていた。隣に立って見上げると、首が痛くなりそうなほどだ。
元剣闘士でありながら男爵位を持つ男。戦場で大きな手柄を立てたことで王から爵位を与えられた。貴族の末席に座る男だ。
その名は、ディーノ・ナンニーニ。
「はじめまして、ミネルヴァです」
「ああ、ディーノだ。よろしく」
抑揚のない声だった。ミネルヴァの視線も避け、ウエディングドレスに一瞥もくれなかった。そのとき、ミネルヴァは悟った。自分はこの男にまったく関心を持たれていないと。
ディーノは前妻を亡くしてから二十年、独身を貫いていた。それを見かねた王が結婚を持ちかけ、何度か固辞したものの、遂に断れなくなったのだという。
王都の大聖堂での結婚式は国民的な関心事となり、二人を一目見ようと数万人もの人々が広場に集まった。急遽、貴族院のバルコニーにディーノとミネルヴァが姿を現すことになった。
「おい見ろ、ディーノだ!」
「花嫁は綺麗だな! なんて豪華なウエディングドレスだ」
「お似合いの二人だ! 国家の英雄が幸せになってほんとによかった」
群衆の歓声が広場に満ちる中、ディーノは前を向いたままぼそっと言った。
「手を振りなさい。国民が期待している」
「あっ、はい」
「笑顔を忘れるな」
ミネルヴァは言われるまま、笑顔で手を振った。
箱馬車から降りたミネルヴァは、目の前に広がる邸宅の立派さに目を丸くした。男爵という身分には不相応なほどの豪邸だ。大勢の下僕たちが出迎えた。
その夜、寝室でディーノが口を開いた。
「緊張してるな」
「……はい」
先ほど入念な湯浴みを済ませたばかりだった。
「俺は四十五だ。二十歳の娘をあてがうとは王もむごいことをしたものだ。お前とは白い結婚だ。二年後、子が授からなかったと王に報告して離縁する。いいな」
宣言は唐突だった。ミネルヴァは言葉を失い、その場で固まった。
「私は……」
「言うな、口を閉じよ。俺は別室で寝る。この部屋はお前が自由に使うがいい」
ディーノはその巨躯を揺らしながら部屋を出て行った。新妻は与えられた寝台の上でひとり、声を殺して泣いた。
翌朝から、生殺しのような生活が始まった。下僕たちはミネルヴァを慇懃無礼に扱うだけで、やがて彼女は屋敷の空気のような存在になった。
来る日も来る日も、退屈な日々が続く。半年間、ミネルヴァはただのお飾りとして、その邸宅に存在していた。
そんな日々の中で、執事長の老人モドローネだけは何かと気を使ってくれた。時間を作っては庭園奥の東屋で一緒に紅茶を飲み、ミネルヴァの話し相手になってくれた。聞き役に徹するモドローネに向かって、ミネルヴァはここぞとばかりに不満をぶちまけた。
「白い結婚で二年経ったら離婚するって言われたけど、あれはひどいわ。私は籠の鳥よ」
朝から晩まで一人きりで過ごす辛さは、マグマのように積もり続けていた。書庫はあるにはあったが、大して本はない。脳筋の剣闘士上がりの男爵だから、本などまったく読まないのだ。持ち込んだ本はすべて読み終えてしまい、暇で死にそうだった。こんな生活があと一年半続くかと思うと、気が重くなる。
「ディーノ様は不器用でございます。二十年独身を貫いたのもそのせいでございます。形だけの結婚はディーノ様の本位ではありません。どうかお許しください」
モドローネ執事長は深々と頭を下げた。
「頭を上げてください。モドローネさんに謝ってもらっても困ります」
「ディーノ様は王以外、頭を下げることがありません。それが剣闘士の頂点に立った英雄の矜持でございます」
「わかりました」
謝ることもなにも、結婚して半年が経つのに会話もほとんどない。無視というより、なぜそこにお前がいるのかというような視線だ。
食事のとき、前妻の座っていた椅子にミネルヴァが座ると気に食わないらしく、隣の席に座るよう促された。屈辱だった。そんなに前妻が大事なら結婚を断ればよかったのにと、恨みごとを言いたくなる。
「それでは私は寄る所がありますので失礼致します」
長話が終わると、モドローネ執事長は屋敷の裏手へと向かった。ミネルヴァは目で追った。
以前から、摘んだ花を持って歩く老人の姿が気になっていた。近くにいた侍女に声をかける。
「毎日の日課でございます。花を供えに足を運んでいます」
「花を? 裏の墓地に」
「はい」
「……誰の墓?」
一瞬、間があった。
「ヴァレリアーナ様のお墓です」
ヤブをつついて蛇が出た。よりによって、ディーノの前妻ではないか。その場から逃げ出したい衝動に駆られ、踵に重心を乗せた。しかしミネルヴァは思いとどまった。足が、墓地のほうへと向かっていた。
墓地の方角から強い風が吹いた。
向かい風だ。髪が逆立つ。まるでヴァレリアーナが来るなと言っているみたいだ。でも、そんなこと知ったことじゃない。
白亜の屋敷の裏庭の一角が墓地になっていた。
ミネルヴァは墓地の入口に立った。墓の周りでうごめくものを目の端でとらえた。全身の毛が逆立ったけど、無視して中に入った。
モドローネ執事長は墓石の前で佇み、右手に持った一輪の花をそっと置いた。振り返った老人は、ミネルヴァに気づいた。
「……来られましたか、奥様」
「以前からモドローネさんが花を持って裏庭に行くのが気になっていました。この墓はディーノ様の前妻ヴァレリアーナの墓ですね」
「左様でございます」
「花を供えるのはディーノ様の指示ですか?」
「はいそうです。毎日欠かさず献花するようにおっしゃいました」
「それをずっと忠実になさってるのですね」
モドローネは答えなかった。それでもひときわ綺麗に保たれた墓を見て、ミネルヴァは毎日の手入れの丁寧さに心を打たれた。
「モドローネさん、ディーノ様とのお付き合いは長いのですか?」
「……もう二十五年になります。私も元剣闘士です」
老人はそう言って、遠い目をした。
かつての闘技場の歓声が、モドローネの記憶の底に響いている──
**********
地面にうつ伏せに倒れた対戦相手。
「まいった。俺の負けだ」
モドローネが剣を高々と掲げると、さらなる歓声が沸き起こった。控室へ戻ろうとすると、通路にさっき闘った大男が立ちふさがっていた。
「モドローネ、その剣を見せてくれ」
「剣は剣闘士の命だ。対戦相手だったお前に触らすと思うのか」
すると大男はその場で土下座をした。
「この通りだ。見せてください!」
控室でモドローネの剣を調べた大男は言った。
「この砥具合は素晴らしい。これなら剣でさえ切れるんじゃないか、歪みもない」
柄から剣先へと視線を走らせ、それからモドローネの防具に目を光らせた。
「その防具の手入れはなんだ。まるで新品のようだ。ほかの剣闘士の使い込んだ防具とはまるで違う。モドローネ、お前の装具師は誰だ。俺に紹介して欲しい」
モドローネは困った顔をした。
「俺に装具師はいない。剣を研ぐのも防具を治すのも俺が自らやっている」
大男が立ち上がり、椅子に座ったモドローネの両肩をガシッと掴んだ。
「だったら、俺の装具師になってくれ!」
それが、ディーノ・ナンニーニとの出会いだった。
**********
「紆余曲折あって、私は彼専属の装具師になりました。当時の私は剣闘士として下り坂。ディーノの荒削りながらも輝く素質に賭けてみたいと思ったのです。それからはディーノの素質を開花させるために猛稽古をつけました」
「モドローネさんは、ディーノ様の剣の師匠だったのですか! 知らなくて申し訳ありません」
「奥様、今はただの執事長でございます」
そう言って頭を下げた老人は、仕事があると告げてその場を去った。
後ろ姿を見送ったミネルヴァは、ひとり墓地に残された。墓石に刻まれた文字をじっと見つめる。
ヴァレリアーナとは、どんな人だったのだろう。歌手で舞台女優だということは知っているけれど……
──歌って。
耳元で誰かが囁いたような気がして、ミネルヴァはぴくりと肩を動かした。気のせいだ。風の音だ。そう思い込もうとすると、髪は逆立ち、ドレスがバタバタとはためいた。まるで歌うよう促しているみたいだ。
「──瞼を開けると、満天の星空〜」
気づけば、ミネルヴァは歌っていた。喉の奥から絞り出した声が、風に乗って流れていく。ソプラノの美しい調べ。瞼を閉じ、声に感情を乗せた。
戦場で負傷した兵士が目を覚ますと、信じられないような満天の星空が広がっていた。故郷でも同じ星空を恋人が見ているかもしれない、という歌詞だった。そして目を閉じて亡くなった兵士。故郷では恋人が星空を見上げて帰りを待っていた。
思いの丈、声を震わせて歌いながら、まるでここが舞台であるかのように手を広げた。
「やめろ!」
野太い男の声が飛んできた。振り返ると、ディーノが仁王立ちしていた。鬼のような形相で、両肩と腕がブルブルと震えていた。
「その歌は歌わないでくれ、頼む」
「ヘタな歌で申し訳ありませんでした」
「ヘタ? 何を言ってる。お前の歌は……」
顔から怒りがあっという間に鎮まった。
「──素晴らしい。まるでヴァレリアーナの再来のようだ」
目の奥に、悲しみの色が浮かんだ。ディーノは首を振って踵を返した。遠ざかるその背中は、どこか寂しげに見えた。
その夜、寝つけないミネルヴァは窓を開けて夜風を入れた。柔らかな夜気が肌に触れ、少しだけ気持ちがほぐれる。窓を閉めてベッドに戻ると、黒い影が横になっていた。それが身を起こす。黒髪の女性だった。寝間着ではなくドレス姿で、しかも半透明に透けていた。
「あなたは……」
「ヴァレリアーナよ」
「墓から着いてきたの?」
「そう。最初あなたの耳元で『歌って』って言ったら反応したでしょ。それで確信したのよ。あなたは"見える人"なんだと」
その通りだ。幼い頃から霊感があった。霊の存在が鬱陶しいので見えないフリをしていたのだ。
「ディーノが結婚したって知って、どんな相手か直接確認しようと思ったのよ。そうね、色気はないけど、まずまずの容姿だわ。私ほどではないけど」
ミネルヴァはむっとした。
「失礼じゃない。いきなり現れて私の容姿をボロクソにいうのは」
「あら、褒めてるのよ。私みたいな演劇界の大スターと比べられるんだから喜びなさいよ」
「いやみを言うために現れたのなら相手を間違ってるわ。ほかをあたって」
ミネルヴァはきっぱり言った。
「そうね。私が現れたのはあなたにいやみをいうためではないわ。取引をするためよ」
「取引?」
「あなたはディーノに愛されていない。白い結婚に満足してないでしょ。だから私がコーチしてあげる」
「コーチって、なんのことよ」
「ディーノに愛されるコツよ。あなたは何も努力しないで殿方から愛されると思ってるのかしら。そんなことは天地がひっくり返ってもないわ。だから私と取引をしなさい」
ヴァレリアーナってこんな人だったの。ディーノは亡くなった奥様を愛し続けていたから、きっと素晴らしい女性だと想像していたのに。ただの口の悪い、いけず女ではないか。でも、ディーノに愛されるコツというものが本当にあるなら、それが欲しい。喉から手が出るほどだ。
ミネルヴァは腹を決めた。
「その取引って何なの?」
「私を黄泉の国に送る手伝いよ」
ドアからノックの音がした。剣を枕元に置いて眠るディーノは、瞼を開いた。野戦の戦場では夜襲を常に警戒していた習性が、今も体に染みついている。起き上がって剣を手に取り、ドアに近づいた。
「誰だ?」
「私よ、ダーリン」
その声を聞いてディーノは一瞬笑みを見せたが、すぐに唇をへの字に曲げた。
「冗談はよせ、どういうつもりだ」
ドアを開けると、燭台の炎が揺らめいた。黒地にラメの入ったドレスが目に飛び込んできた。
「ヴァレ!」
よくよく見ると、ドレスの上の顔が違った。ミネルヴァだ。
「何だそれは、ヴァレの衣装を着るなんて冗談がすぎるぞ」
「私にいっちょ前にそんな口を聞けるようになったのね。奴隷農場を脱走して、この国の路地裏で震えていたあなたを助けた恩人にかける言葉かしら」
「俺が奴隷農場出身だとは、誰も知らない。知ってるのは、ヴァレリアーナだけだ」
「そうよ、私はヴァレリアーナよ。今はこの子の体に憑依してるのよ」
「本当なのか? 俺を騙してるじゃないだろうな」
「路地から拾い上げたお前にたらふく飯を食わせたら、胃が受け付けなくて吐いただろ。これは、私とお前しか知らないことだ」
「そうだ。腹を空かせた俺は肉入りスープと黒パンをむさぼり食った。せっかく食った飯を吐いてしまった」
「それから大きくなって一人前の体になったら、私が筆おろししてあげたよね。その時、私の太ももの内側にある薔薇のタトゥーにびっくりしてたじゃない」
「──間違いない。ヴァレだ! ヴァレリアーナがここにいる」
ディーノはミネルヴァ(ヴァレリアーナ)を両手で抱きかかえた。その瞬間、ミネルヴァの意識が体に戻った。
え、え、え、これお姫様抱っこじゃない。きゃ、ベッドに優しく置かれた。もしや、これって——。
(そうよ、私も初夜を奪うほどの薄情者じゃないわ。じゃ、楽しんでね)
た、助けてよー!
翌朝、ミネルヴァが目を覚ますとベッドの上だった。毛布の中を覗くと全裸だ。顔が一気に火照った。
「起きたか?」
すでに着替えを済ませたディーノが寝室に入ってきた。ミネルヴァは慌てて毛布で首から下を隠した。その様子を見て、ディーノが口を開いた。
「そのー、今まですまなかった。白い結婚を宣言して失望させたけど、もしよければ俺の側にずっといてくれないか」
「それじゃ、白い結婚は……」
「無効だ。今更だけど君のことをよく知りたいと思った。半年間、見てきたつもりだが、俺の目は曇ってたようだ」
あれ、あの鉄面皮が柔和な顔になっている。ディーノ様って、こんな少年っぽい笑顔を浮かべるんだ。ちょっと照れてるところが可愛いな。
朝食のテーブルで、ディーノが言った。
「こっちに座りなさい」
「あ、はい」
ミネルヴァは前妻ヴァレリアーナの席に着いた。少し居心地が悪くてもじもじしていると——。
──ガチャ!
コーヒーカップが床に落ちて割れた。
「失礼しました」
モドローネ執事長が言い、割れた破片を拾い上げた。かがんだ時モドローネは、奥歯を強く噛み締めた。
その日の朝食は賑やかだった。寡黙だと思っていたディーノが、思いのほかよく喋った。たわいない会話だったけれど、ミネルヴァは楽しかった。
一週間後、ディーノは箱馬車で出かけた。見送るミネルヴァに向かって、馬車の窓から顔をのぞかせて言った。
「こんなに早く家に戻りたいと思ったのは久しぶりだ。会議が終わって明日の夜には戻れるだろう」
ん、それって前妻のヴァレリアーナと比べているの? まあ、仕方ないわね。王都に一泊するのはもどかしいわ。早く帰って来て。
振り返ると、一緒に見送った侍女たちが笑顔を向けていた。以前のよそよそしさが、消えていた。
その日の夜、自室へ向かおうとしたミネルヴァに、モドローネ執事長が耳打ちした。
「今夜サプライズでディーノ様は帰ってきます」
「本当ですか?」
「はい。予定を早めて半日早く王都を出発する予定です」
「ありがとう。楽しみに待ってます」
ミネルヴァの顔が輝いた。
深夜、寝室のドアからノックの音がした。扉を開けると、モドローネ執事長が立っていた。
「真夜中で申し訳ありません。ディーノ様が帰って来ました。今、ヴァレリアーナ様のお墓の前にいます」
「お墓? 今ごろ」
「ミネルヴァ様のことをヴァレリアーナ様に報告したいとのことです」
「……分かりました。私も行きます」
外に出ると、夜空に満月がぽっかり浮かんでいた。月明かりの下、モドローネ執事長の後ろをついていく。墓場に着いた。昼間とは打って変わって、夜の墓場は不気味だった。ミネルヴァの目には、うごめく霊の姿が見えていた。それを見ないフリをしながら歩く。
暗い顔の男。血まみれの容姿の女。どこか憎めない太っちょの幽霊など。
——みなさん、私は今の住人、ディーノの妻でミネルヴァです。よろしくお願いします。
風が吹いた。髪とドレスがバタバタとはためく。返事かしら。
前を歩くモドローネ執事長が立ち止まった。ヴァレリアーナの墓の前だ。ミネルヴァは周りを見回した。ディーノの姿はどこにもなかった。
「ディーノ様は?」
モドローネ執事長は通路を外れ、墓の裏側へと足を踏み入れた。戻ってきたとき、右手に剣を握っていた。月明かりに剣先が光る。
「楽に死ねると思うなよ。死なせてくださいと懇願するまで切り刻んでやる」
「私を殺す? なぜです」
モドローネ執事長は深いため息をついた。
「俺とディーノの仲を裂こうとする障害だからだ。俺は剣闘士を引退してディーノの装具師になって剣も教えた。それは若きディーノに一目惚れしたからだ。その思いをずっと隠して生きてきたが、ディーノが育ての親のあのクソ女ヴァレリアーナと結婚して、奈落の底に落とされたんだ!」
モドローネがジリジリと間を詰めた。
「……だから、事故に見せかけて殺した。それからもディーノに近づく女はすべて始末した。ディーノは自分の不運を嘆いて女とは関わらなくなった。それで俺は本物の幸せを手に入れたのだ。ディーノは俺だけのものだ。なのに王の気まぐれで、またしても結婚だと。そんなもの俺は絶対に許さない!」
これまで誠実そのものだった顔が、醜い妄執に囚われた老人の顔に変わっていた。全身から負のオーラとともに殺気が溢れ出し、ミネルヴァの肌をじりじりと焼くような刺激を与えた。唾をゴクリと飲み込む。心臓が早鐘のように打つ。
逃げよう! 今すぐ逃げないと殺される。分かっているのに、膝頭がブルブルと震える。体がこわばって動けない。あー、誰か助けてよー!
(チェンジ!)
頭の中に声が響いた。
「やっぱりね、私を殺したのはお前じゃないかと薄々思ってたけど正解だったのね」
口調が変わった。そのイントネーションにモドローネが戸惑いの表情を見せた。
「その話し方……まさか」
「そうよ、私よ。ヴァレリアーナ参上ってとこね」
髪をかきあげ、腰に手を当てて決めポーズを取った。誰が見ても、ミネルヴァとは別人格だとわかるだろう。
「お前、ヴァレリアーナか? なぜここにいる。黄泉の国に行けばよいものを」
「ばーか、殺されて犯人も分からずあの世に行けるかよ。復讐するチャンスをずっと待ってたのさ。幸いミネルヴァという霊感の強い子と出会ってね、協力してもらうことになったのさ」
「ミネルヴァの体に憑依した悪霊か。ふん、そんなものたたっ斬ってやる。実体がなければ何もできないだろ」
モドローネは剣の鞘を投げ捨て、柄を両手で握って正面に構えた。
(チェンジ!)
ミネルヴァは我に返った。目の前に剣を握ったモドローネ執事長がいた。殺気が物凄い。膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
あ、あ、あ、私を殺すのね。お願いだから痛くしないで!
イヤイヤ、やっぱり死ぬの嫌よ!
「モドローネ、何をしている」
モドローネの背筋に悪寒が走った。諦めたような顔で振り返る。ディーノが立っていた。右手に剣を握り、抜き身だ。
「仕事を早く終わらせて駆けつけて見れば……何だこれは?」
モドローネはディーノに向かって踏み込んだ。鋭い切っ先がディーノの顔を捉えようとした。ディーノはそれを剣で弾き、袈裟懸けに打ち下ろした。
──ズバァッ!
肩から胸にかけて血しぶきが吹き出した。
うつ伏せに倒れたモドローネが、かすれた声で言った。
「……死ぬのならディーノに殺されたいといつも思ってた。ディーノ、ありがとう……」
そのまま息を引き取った。
「大丈夫かミネルヴァ?」
ディーノが右手を差し出した。それを掴んで立ち上がったミネルヴァの視線は、うつ伏せのモドローネへと向いた。
「まさかモドローネさんが……」
「俺もいまだに信じられない。俺にとっては、装具師であり剣の師匠であり父親のような存在だった。まさか、そのような妄執に囚われていたとは……」
(これですべて終わったわ)
ディーノの側に、ヴァレリアーナの霊が寄り添っていた。ディーノの横顔を見上げている。
(この子の成長が私の生きがいだったのよ。まさか十五も年上の私にプロポーズした時は驚いたわ。こんなすれたおばさんよりも、若い娘を選んだら良かったのにと思ってた。ミネルヴァ、後はよろしくね)
「待ってヴァレリアーナ!」
ミネルヴァの声に、ディーノは驚愕した顔を向けた。
「ここにヴァレがいるのか?」
「はい。ディーノの左肩にもたれかかっています」
「おおー、確かに存在を感じるぞ。肩に温かみを感じる!」
(ミネルヴァ、ちょっと目をつぶってくれる)
「えっ」
ヴァレリアーナがディーノの首に手を回してキスをした。霊の涙が、月明かりの中に光った。
(さようなら)
ヴァレリアーナが上方へと舞い上がる。そして花火のように弾け散った。ミネルヴァと同じく上を見ていたディーノが、静かに言った。
「……行ったのか?」
「はい。天国へ行ったようです」
「もうこの世に未練はなくなったんだな……」
ディーノは瞼を閉じ、冥福を祈った。
それから一年後、ミネルヴァは赤ちゃんを産んだ。女の子だ。ディーノにとって四十六にしての初子で、その親バカぶりは驚くほどだった。名前はヴァレリアーナと名付けた。ミネルヴァの発案だ。
ディーノが「ヴァレちゃん、おはよう」とおもちゃを見せると、赤ちゃんはバブバブと反応した。
(またヴァレリアーナって名前か。別の名前がよかったけど、贅沢はいえないわね)
お読みいただきありがとうございます。
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