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短編小説『叱り屋さん』

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/04/12

過去作がNASから出てきたので載せてみました。

因みにこれを元に台本化され、2026.4.19にナナコライブリーFM『TKSHOW』で生ラジオドラマ化されました。

 港区麻布狸穴町のロシア大使館に近いその店は、看板もなければ音もなかった。

 ドアを開けても、ベルは鳴らない。足音だけが、自分の存在を証明する。

 静かすぎて、むしろ逃げ場がない――そんな空間だった。

「いらっしゃいませ」

 低い声が、奥から届いた。

 姿を見なくても分かる。よく通る、無駄のない声だ。

 女は一瞬だけ呼吸を整えてから、言った。

「叱ってください。強めで」

 自分でも、何を言っているのかと思う。

 だが、口から出た言葉は引っ込まない。

「1000円になります。内容のご希望は?」

 淡々とした返答だった。驚きも、戸惑いもない。

 この店では、それが“普通”なのだろう。

「遠慮なしで。……あ、的確にお願いします」

 女は、ほんの少しだけ姿勢を正した。

 普段は、こんなふうに言葉を選ぶことはない。選ばせる側だ。

「……普段、叱られない立場ですね」

 見透かしたように言われ、女はわずかに目を細めた。

「ええ。社員の給湯室で、この店の話を聞きまして」

「盗み聞き」

「情報収集です」

 即答したが、返ってきたのはさらに速かった。

「言い換えが下手です」

 ――思わず、笑いそうになる。

「……いいですね」

 口に出してから、自分で少し驚いた。

 だが、店員は一切乗らない。

「では、いきます」

 声の温度が、ほんの少しだけ下がる。

「あなた、ちゃんと“嫌われて”ますか」

「……は?」

 予想していなかった角度から、刺された。

「上に立つ人間で、“誰からも嫌われてない”は異常です。

 嫌われるべき場面で、逃げてませんか」

 女は一瞬、答えに詰まった。

「……効率は重視しています」

「出ました、“効率”」

 短く、切り捨てるように言われる。

「人間関係を“コスト”で見るな」

 ――ああ、これだ。

 女の口元が、わずかに緩む。

「……もう一回言ってもらえます?」

「リピートサービスはありません」

 即答だった。

「今の、“出ました効率”の言い方も良かったです」

「感想はいりません」

 まったく揺れない。

 だからこそ、面白い。

「あなたは“正しい”ことを言う」

「はい」

「その“はい”がもうダメです」

 今度は、少しだけ笑いがこぼれた。

「すみません」

「謝るのも早い。中身がない」

 ――テンポがいい。

 会議では味わえない種類のやり取りだった。

「……あの、これってコースとかあります?」

 気づけば、そんなことを聞いていた。

「ありません」

「回数券は?」

「ありません」

「サブスク――」

「ありません」

 被せるように遮られ、女は小さく肩をすくめた。

「……もったいない」

 思わず本音が漏れる。

「あなたの問題は単純です」

 空気が、少し変わった。

「“自分でやるべきこと”を、

 “仕組みで解決しようとしている”」

 女の中で、何かが引っかかった。

「人の本音を引き出すのは、制度じゃない。

 あなたの態度です」

 さっきまでの軽さが、すっと引く。

 代わりに、妙な静けさが残った。

「……難しいですね」

 素直にそう言うと、わずかに間があった。

 その間に――別の考えが、浮かぶ。

「……あなた、採用したいですね」

 自分でも自然に、ビジネスモードに切り替わっていた。

「年収、今の倍出します。ポジションは直轄。

 社内に“叱る文化”を――」

「――やめてください」

 低い声が、はっきりと遮った。

 さっきまでと同じ声なのに、質が違う。

「今の、それ。“外注思考”です」

 女は言葉を失った。

「外注……?」

「自分でやるべきことを、金で人にやらせようとする。

 一番、信頼を失うやり方です」

 逃げ場のない言葉だった。

「あなたが変わらない限り、

 誰を連れてきても同じです」

 静かに、だが確実に追い込まれる。

「覚悟、足りてますか」

 その一言で、胸の奥に何かが落ちた。

「嫌われる覚悟。否定される覚悟。

 自分が間違う覚悟」

 女は、何も言えなかった。

「それをやらずに、“優秀な誰か”に押し付けるつもりですか」

 ――図星だった。

 長い沈黙のあと、女は小さく息を吐いた。

「……図星です」

 不思議と、悔しさはなかった。

 代わりに、妙な納得があった。

「……1000円で、これは安いですね」

「価格設定、間違えてますかね」

 初めて、少しだけ軽い返しが来た。

「上場したら教えてください」

「しません」

 即答だった。

 女は、わずかに笑う。

「……やってみます。自分で」

「それが仕事です」

 シンプルな言葉が、妙に重い。

 踵を返し、出口へ向かう。

 ドアの前で、ふと立ち止まった。

「……また来ても?」

 少しだけ、未練が混じる。

「来ないで済む状態を作ってください」

 背中に、静かな声が届く。

 女は、一拍置いてから振り返らずに言った。

「……それ、できたら――」

 ほんの少しだけ笑う。

「逆に叱りに来ます」

 間があった。

「……お断りします」

 その返事に、今度こそ声に出して笑った。

 ドアを開ける。

 外の空気は、妙に軽かった。

 ――さて。

 まず、誰に嫌われるところから始めようか。

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