短編小説『叱り屋さん』
過去作がNASから出てきたので載せてみました。
因みにこれを元に台本化され、2026.4.19にナナコライブリーFM『TKSHOW』で生ラジオドラマ化されました。
港区麻布狸穴町のロシア大使館に近いその店は、看板もなければ音もなかった。
ドアを開けても、ベルは鳴らない。足音だけが、自分の存在を証明する。
静かすぎて、むしろ逃げ場がない――そんな空間だった。
「いらっしゃいませ」
低い声が、奥から届いた。
姿を見なくても分かる。よく通る、無駄のない声だ。
女は一瞬だけ呼吸を整えてから、言った。
「叱ってください。強めで」
自分でも、何を言っているのかと思う。
だが、口から出た言葉は引っ込まない。
「1000円になります。内容のご希望は?」
淡々とした返答だった。驚きも、戸惑いもない。
この店では、それが“普通”なのだろう。
「遠慮なしで。……あ、的確にお願いします」
女は、ほんの少しだけ姿勢を正した。
普段は、こんなふうに言葉を選ぶことはない。選ばせる側だ。
「……普段、叱られない立場ですね」
見透かしたように言われ、女はわずかに目を細めた。
「ええ。社員の給湯室で、この店の話を聞きまして」
「盗み聞き」
「情報収集です」
即答したが、返ってきたのはさらに速かった。
「言い換えが下手です」
――思わず、笑いそうになる。
「……いいですね」
口に出してから、自分で少し驚いた。
だが、店員は一切乗らない。
「では、いきます」
声の温度が、ほんの少しだけ下がる。
「あなた、ちゃんと“嫌われて”ますか」
「……は?」
予想していなかった角度から、刺された。
「上に立つ人間で、“誰からも嫌われてない”は異常です。
嫌われるべき場面で、逃げてませんか」
女は一瞬、答えに詰まった。
「……効率は重視しています」
「出ました、“効率”」
短く、切り捨てるように言われる。
「人間関係を“コスト”で見るな」
――ああ、これだ。
女の口元が、わずかに緩む。
「……もう一回言ってもらえます?」
「リピートサービスはありません」
即答だった。
「今の、“出ました効率”の言い方も良かったです」
「感想はいりません」
まったく揺れない。
だからこそ、面白い。
「あなたは“正しい”ことを言う」
「はい」
「その“はい”がもうダメです」
今度は、少しだけ笑いがこぼれた。
「すみません」
「謝るのも早い。中身がない」
――テンポがいい。
会議では味わえない種類のやり取りだった。
「……あの、これってコースとかあります?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「ありません」
「回数券は?」
「ありません」
「サブスク――」
「ありません」
被せるように遮られ、女は小さく肩をすくめた。
「……もったいない」
思わず本音が漏れる。
「あなたの問題は単純です」
空気が、少し変わった。
「“自分でやるべきこと”を、
“仕組みで解決しようとしている”」
女の中で、何かが引っかかった。
「人の本音を引き出すのは、制度じゃない。
あなたの態度です」
さっきまでの軽さが、すっと引く。
代わりに、妙な静けさが残った。
「……難しいですね」
素直にそう言うと、わずかに間があった。
その間に――別の考えが、浮かぶ。
「……あなた、採用したいですね」
自分でも自然に、ビジネスモードに切り替わっていた。
「年収、今の倍出します。ポジションは直轄。
社内に“叱る文化”を――」
「――やめてください」
低い声が、はっきりと遮った。
さっきまでと同じ声なのに、質が違う。
「今の、それ。“外注思考”です」
女は言葉を失った。
「外注……?」
「自分でやるべきことを、金で人にやらせようとする。
一番、信頼を失うやり方です」
逃げ場のない言葉だった。
「あなたが変わらない限り、
誰を連れてきても同じです」
静かに、だが確実に追い込まれる。
「覚悟、足りてますか」
その一言で、胸の奥に何かが落ちた。
「嫌われる覚悟。否定される覚悟。
自分が間違う覚悟」
女は、何も言えなかった。
「それをやらずに、“優秀な誰か”に押し付けるつもりですか」
――図星だった。
長い沈黙のあと、女は小さく息を吐いた。
「……図星です」
不思議と、悔しさはなかった。
代わりに、妙な納得があった。
「……1000円で、これは安いですね」
「価格設定、間違えてますかね」
初めて、少しだけ軽い返しが来た。
「上場したら教えてください」
「しません」
即答だった。
女は、わずかに笑う。
「……やってみます。自分で」
「それが仕事です」
シンプルな言葉が、妙に重い。
踵を返し、出口へ向かう。
ドアの前で、ふと立ち止まった。
「……また来ても?」
少しだけ、未練が混じる。
「来ないで済む状態を作ってください」
背中に、静かな声が届く。
女は、一拍置いてから振り返らずに言った。
「……それ、できたら――」
ほんの少しだけ笑う。
「逆に叱りに来ます」
間があった。
「……お断りします」
その返事に、今度こそ声に出して笑った。
ドアを開ける。
外の空気は、妙に軽かった。
――さて。
まず、誰に嫌われるところから始めようか。




