第5話 同衾いたしましょう
湯気の立ち昇るクラウゼン邸の湯殿は、白と青のタイルがアラベスク模様に張られた異国情緒あふれる高天井の空間だった。磨かれた石床は素足でも心地よい。
壁際の琺瑯製の湯船に肩まで一息に沈むと、熱い湯が縫い直したばかりの腹の傷に沁みてかすかに痛んだが、それよりも鼻をそっとくすぐる香りに気を取られていた。
「この石鹸、泡が柔らかいな」
手のひらからほのかに広がる芳香。きつくはないが、鼻に抜ける草木の清々しさがある。傷跡だらけの腕をゆっくりと湯に沈めながら、デュランはやや不思議に思って眉をひそめた。
軍で使われるのは脂くさい獣脂石鹸。肌への刺激が強く、はっきり言って大量生産の粗悪品だ。それに比べてこちらは、異様なまでに泡が滑らかだった。
湯上がり、借りたバスローブ姿で廊下に出ると、そこに待っていたアニスロッテが軽く会釈する。
「お湯、冷えていませんでした?」
「いや。申し分なかった。だが……」
デュランは手のひらを開いて、指先を見つめた。
「使っている石鹸。香りがいい上、泡立ちが滑らかだ。洗い上がりはしっとりしていて肌に優しい。軍で使っていたものとはまるで別物だな」
その問いへ、アニスロッテは自慢げにうなずいた。
「ええ。それはシロン国製の石鹸です。地域産の特別な木灰と石灰から生成した苛性ソーダに、オリーブオイルとローレルオイルを混合して作る高級品ですの」
「そうだったのか」
「大陸最古の歴史がありまして、シロン国から内海を通じてレンゼル王国が取引する、大切な交易品なのです。我が国では対価に葡萄酒を輸出していますから、『ワインで買う石鹸』なんて呼ばれていますわ」
「なるほど。やけに上品な香りがすると思った」
「香料も加えますが、基本となるローレルオイルの香りが特徴的です。防腐と抗菌作用もありますので、貴族や医師に好まれております」
さすが商家の娘、商品について語り始めると熱くなるのか、アニスロッテが真剣そうな表情で説明する様子に、デュランは内心で微笑ましく思った。
「高級品を危険人物に使わせるとは太っ腹だな」
「どうぞ遠慮なく。今後は、仮とはいえ夫ですから、最低限の衛生と礼儀は保っていただきませんと」
「それは耳が痛い」
デュランがまた唇の端を吊り上げ、アニスロッテがくすくすと笑みを返した。
♢
アニスロッテが廊下を歩く足取りは、湯上がりのせいか、いつもより心持ち弾んでいた。長い銀髪はうっすら濡れたまま、肩にかかるほどに解かれている。寝間着は藍染めされた薄群青のリネンのネグリジェ。肩から腕へとかけられたガウンが、廊下の窓から射す月光を淡く跳ね返した。
寝室の扉の前、すでにそこへ立っていたデュランが、やや遠慮がちに声をかける。
「ええと……使用人から案内されたのは、こちらの部屋のはずだが……」
その手元には、控えめな装飾が施された客間の鍵がある。アニスロッテは数瞬沈黙したが、何かを思い切るように、一言。
「ええい、同衾いたしましょう!」
──同衾。
「……は?」
デュランは先ほどまでの柔らかな空気を一瞬にして置き去りにしたように、目をこれでもかと見開いた。
「いや、今、何と?」
「聞こえたはずですわ。同衾! つまり同じ寝台で眠るのです」
ぴしり、と口調だけは毅然としている。だが、その頬には明らかに湯上がり以外の熱が籠っていた。
デュランが彼女の表情をまじまじと見たのは、そのときが初めてだった。言葉の意図を反芻するよりもまず、言ったアニスロッテ本人が一番動揺していることをとっくに悟られているだろう。
「第一に、理由を聞いても?」
「け、決してやましい意味ではありませんわ!」
早口で返し、アニスロッテはガウンの裾を握りしめた。
「つまり……こうですの。私たちは、契約上の仮初め夫婦です。社交界における信頼度や説得力を上げるには、それなりに親密に暮らしているという外見を保たねばなりません。使用人たちにも、余計な詮索をさせないように。そのためには、寝室を共にするのがいかにも自然です」
「なるほど」
意外にも、デュランはすんなりとうなずいた。
「貴族社会の演出というやつだな。見せかけの夫としての役割の一環……か」
「そ、そういうことですっ」
アニスロッテは指を突き立てるように念を押した。
「ただし! いわゆる、そ、そういう……営みは、一切なしですからねっ! 添い寝だけです!」
アニスロッテの声音が、語尾だけ一段と高くなる。すると、デュランは両手をゆっくり上げ、降参の仕草をした。
「誓って手は出さんさ。そもそも、傷が開いてしまっては困るからな。物理的にも不可能だ」
「っ……!」
思わず何かを想像してしまい、アニスロッテは視線を逸らして頬を赤らめた。
「そ、そういう言い方をなさらないでください!」
「すまん、医療的な意味だったのだが」
小さく肩をすくめたデュランは、あくまで冗談のつもりはなかった様子だが──その口元に、確かにごくわずかな笑みの痕跡が見えたのは、アニスロッテの気のせいではなかった。
「獣……っ!」
かくして、見せかけ夫婦の添い寝生活がここに幕を開けようとしていた。